神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書いていきます。

このブログの説明


このブログは、エーゲ海にあるさまざまな古代ギリシアの都市の創建から、ギリシアの古典期、あるいはローマ帝国の時代までの神話、伝説、逸話などを書いていくものです。それが60歳が近くなって見つけた私の趣味です(もう60は越えましたが)。記事を書く上での主な情報源はヘーロドトスの「歴史」トゥーキュディデースの「戦史」、あと英語版のWikipediaなどです。


今まで、以下の都市について書きました(リンクを貼ってあります)。
目標50都市。現在18都市。


アテーナイやスパルタのような名高い都市は取り上げない方針です。それらの歴史についてはネット上に多く見つかるためです。

カルキス(12):アリストテレース

ペロポネーソス戦争の末期にカルキスを始めとするエウボイア島の諸都市はアテーナイの支配から離脱することに成功しました。BC 404年にはアテーナイがスパルタに降伏します。


それからずっと時代を下ったBC 323年、古代ギリシアの大哲学者にして大科学者のアリストテレースは、アテーナイを離れてカルキスに移住しました。それは彼が61歳の時のことで、翌年彼はカルキスで生涯を終えます。それを記念して現代のカルキス(=ハルキダ)にはアリストテレース銅像があります。

なぜ彼がカルキスで晩年を過ごしたかというと、ここには彼の母方の家があったからです。アリストテレースの母親パイスティスはカルキスの出身でした。その彼女がカルキディケ半島の東側にあるスタゲイロスという小さな町に移住し、そこでマケドニア王の侍医を勤めていたニーコマコスという男と結婚して、アリストテレースを産んだのでした。スタゲイロスはエウボイア島の南に位置するアンドロス島の人々によって建設されたイオーニア系の植民市でしたが、のちにカルキスからも多くの植民者が渡っていったため、スタゲイロスにとってはカルキスも半ば母市の扱いだったようです。


アリストテレースの父親ニーコマコスはスタゲイロスの出身でした。このニーコマコスは医者だったのですが、その妻のパイスティス(アリストテレースの母親)の実家も医者の家だったそうです。カルキスとはあまり関係はありませんが、ニーコマコスが医者だったということと関係のある言い伝えがあって、彼は医神アスクレーピオスの息子マカーオーンのそのまた息子であるニーコマコスの子孫だということでした。マカーオーンは医師兼戦士としてトロイア戦争に参加し、負傷した武将の手当てをして活躍していることが、ホメーロスの「イーリアス」に記されています。

「タルテュビオスよ、一刻も早くマカーオーンを此処へ招(よ)んできてくれ、
あの申し分なく優れた医師(くすし)、アスクレーピオスの息子だという武士を、
アレースの伴(とも)なるアトレウスの子、メネラーオスを診て貰おうから。
何者か、トロイエー人かリュキア人中 弓矢の業に達した者が、
矢を射て彼をうったのだ。己が身の誉(ほま)れ、我々が嘆きともして」
 こう言うと、承(うけたまわ)る伝令は 一議に及ばずさっそくにも
青銅の帷衣(よろい)を着けたアカイアの軍勢の方へ出かけていって、
マカーオーン殿をたずねさがし、彼が佇(たたず)んでるのを
見つけたが、両脇には 楯をもつつわものどもの いかめしい幾列(つら)ねが
控えていた・・・・


ホメーロスイーリアス」第4書 呉茂一訳 より


アリストテーレースの多数の著作のひとつに「ニコマコス倫理学」というものがありますが、これはアリストテレースの父親ニーコマコスの名前を取ったのではなく、アリストテレースの息子の名前を取ったものです。アリストテレース倫理学に関する講義録が、その息子のニーコマコスによって編纂されたために、こういう名がついています。アリストテレースのこの息子は、祖父のニーコマコスの名を継いで名付けられたわけです。古代ギリシアでは祖父の名を継ぐということはよくありました。


アリストテレースに話を戻します。アリストテレースはBC 367年、17歳で田舎のスタゲイロスから哲学者プラトーンを慕ってアテーナイに向い、プラトーンの学園アカデメイアに入門したのでした。それから20年間、アカデメイアで学問に励んだのち、師プラトーンの死をきっかけとしてアカデメイアを出て、最初は小アジアのアッソスに移住し、その後レスボス島のミュティレーネーに居を移して研究を続けました。その後、昔からのマケドニア宮廷との縁により、マケドニア王フィリップ2世から息子の家庭教師として宮廷に招かれました。その息子というのがのちに大王と呼ばれるアレクサンドロスです。やがてアレクサンドロスが即位すると、アリストテレースは家庭教師の任を解かれ、アテーナイに戻ってきました(BC 337年)。前年のカイロネアの戦いでマケドニアはアテーナイを破り、アテーナイはすでにマケドニア支配下にありました。そのような状況下でアリストテレースはアテーナイに戻り、自分の学説を教える学園リュケイオンを創設しました。一方、若きアレクサンドロス大王は東征してペルシア王国を滅ぼし、遠くインダス川流域まで征服するという大事業を達成しつつありました。この頃は大王の威光もあってアテーナイにおけるアリストテレースの地位は安定したものでした。しかしアレクサンドロスがはるか彼方のバビロンで熱病のために32歳の若さで急死すると、アテーナイでは今まで抑えられていた反マケドニアの政治運動が勢力を伸ばし、マケドニアの支配からの離脱を試みるとともに、アレクサンドロス大王の家庭教師だったことから親マケドニア派と見なされたアリストテレースを、涜神罪で告訴しました。実際にはそれはこじつけのような告訴でした。アリストテレースは「アテーナイ市民がふたたび哲学を冒涜することを避けるために」アテーナイを去り、母方の実家を頼ってカルキスに移住したのでした。しかし、カルキスに移住してからのアリストテレースの生活は1年より少し足りない期間しかありませんでした。ここで彼は病を得て亡くなりました。


アリストテレースの終焉のところで、私のカルキスについての話は終わりにします。

カルキス(11):戻ってきたアテーナイ人入植者

カルキスはサラミースの海戦に20隻の軍船で参加します。この海戦ではギリシア側が快勝しました。ペルシア王クセルクセースはアテーナイを占領し、小高い山に玉座を据えて観戦していたのですが、自軍の敗北が明らかになると慌ててペルシア本国に逃げ帰ってしまいました。こうしてカルキスもペルシア軍から解放されたはずですが、サラミースで戦ったのち帰国したカルキスの兵士たちはどんなふうになった町を見たことでしょうか? ペルシア軍が来る前に住民が避難出来たかどうか気になります。避難するにしてもどこに避難出来たのかも気になります。山に潜んでいたのでしょうか? 海に乗り出したのでしょうか?


ともあれ、カルキスにとって反撃の時が来ました。翌年のプラタイアの戦い(今度は陸戦)にもカルキスは400名の戦士を派遣しています。このプラタイアの戦いにギリシア側が勝利したことでギリシア本土からペルシア軍は一掃されました。


その後カルキスは、アテーナイ主導で組織されたデーロス同盟に参加します。しかしアテーナイはこの同盟を利用して勢力を伸ばし、他の同盟国を圧迫していきます。プラタイアの戦いから32年たったBC 447年、アテーナイはエイボイア島の南端の町カリュストスに1000名の植民者を送り込みました。このことも誘因になったかもしれませんが、さらにはエウボイアの富裕階級で亡命していた者たちが、ボイオーティアのアテーナイからの離叛に加担して成功したこともあって、BC 446年、カルキスを含むエウボイア全島はアテーナイに対して反乱を起こします。

この事件後、ほどなくしてエウボイアがアテーナイ人の支配から離叛した。これを討つべくアテーナイの軍勢を率いてペリクレースがすでにエウボイアに渡ったとき、かれのもとに知らせが届き、メガラの離叛、ペロポネーソス勢のアッティカ侵入計画(中略)などが報じられた。ペリクレースは急遽エウボイアから軍勢を本土に戻した。


トゥーキュディデース著「戦史」 巻1、114 から

戦史〈上〉 (岩波文庫)

戦史〈上〉 (岩波文庫)

同時に各方面からアテーナイに攻撃が加えられているところから見ると、彼らはおそらく最初から連携して行動したのでしょう。しかしアテーナイはこれらを撃退して再びエウボイアに軍を進めます。

アテーナイ勢はふたたび兵を送ってエウボイアに渡った。指揮者はペリクレースであった。そして全島を屈服せしめ、ヘスティアイア以外の諸都市を条約国にくみ従えたが、ヘスティアイアからは全市民を追放して、アテーナイ人の占有地とした。


同上

この時、アテーナイがカルキスに対してとった処置についてはプルータルコスが伝えています。

離反した人々に再び眼を向け、五十隻の軍艦と五千人の重装兵をもってエウボイアーに渡ってそこの町々を屈服させた。かつ(ここに脱文があるらしい)カルキスではヒッポボテースと呼ばれる富と名声の秀でた人々を町から追放し、ヘスティアイアの人々をことごとくその地方から放逐してアテーナイの植民を送ったが、ここの人々にだけ無容赦な態度を取ったのは、前にアッティケーの船を捕獲して乗組員を殺したことがあったためである。


プルータルコス「ペリクレース伝」23節 河野与一訳 より。(ただし、旧漢字、旧かなづかいは、現代のものに改めました。)


また、岩波文庫トゥーキュディデース「戦史」の上記の引用部分の注には、以下のように反乱鎮圧後に締結されたカルキスとアテーナイの条約についての説明があります。

カルキスとの条約によれば(Tod, Nr, 42)、カルキスはアテーナイへ忠誠を誓い(同盟へではなく)、人質を差出し、アテーナイ人守備兵の駐留を認める。市民の死刑、追放、市民権剥奪に関する裁判はアテーナイ本国の法廷でおこなわれる。その他の施政問題はカルキス市民が決裁する、という性質のものであった。しかしアテーナイ人は大地主の所領を没収し「民主勢力育成」のために農地の細分化再配分をおこなったらしい。

ペルシアの侵攻によって一度は逃げて行ったアテーナイ人植民者は、一世代と少しあとの時代にはやっぱりカルキスに戻ってきたのでした。これは、エウボイアがアテーナイに近い穀倉地帯であったことが大きな要因だったのでしょう。アテーナイとしては、エウボイアの穀倉地帯を支配下に置く強い理由があったのでした。

カルキス(10):アルテミシオンの海戦

BC 480年、ペルシアは再びギリシア本土に進攻してきます。今回はダーダネルス海峡(当時の呼び方ではヘレースポントス海峡)を渡り、今のブルガリア経由で、北から攻めて来たのでした。ギリシア軍は陸上部隊テルモピュライの隘路で、海上部隊はエウボイア島の北端アルテミシオンでペルシア軍を迎えました。というのもペルシア軍も海陸2つの部隊が歩を揃えて向ってくるからなのでした。このアルテミシオンにカルキスは20隻の船を出しました。ヘーロドトスはわざわざ「カルキス人はアテナイの提供した船二十隻に乗り組み」と書いています。なぜ自前の船でなく、アテーナイが提供した船に乗っていたのでしょうか? この頃のカルキスとアテーナイの関係が気になります。


まず、ギリシア側の船3隻が南下するペルシア軍をいち早く発見しようと、スキアトス島付近を哨戒していたのですが、ペルシアの艦艇に発見され、うち2隻が捕獲されてしまいました。このことが知られるとギリシア側はおじけづき、ともかくエウリポス海峡を守らなければならない、ということでカルキスに移動しました。ところがこの日の晩から嵐が吹き始め、それは3日間続き、ペルシア海軍の船にかなりの損害を与えました。そのことをエウボイアの山岳に残しておいた物見の部隊が見て知り、カルキスにいるギリシア軍に知らせました。

これを聞いたギリシア軍は、「護国の神ポセイドン」に祈願を籠め神酒を灌いだ後急遽アルテミシオンへ引き返していった。立ち向かってくる敵船の数はもはや何程もあるまいと考えたからである。


ヘロドトス著「歴史」巻7、192 から

ヘロドトス 歴史 下 (岩波文庫)

ヘロドトス 歴史 下 (岩波文庫)

ギリシア側はアルテミシオンに、ペルシア側は大陸側のアペタイというところに碇泊して睨みあいました。ペルシア側は全艦隊の中から200隻を割いて、密かにエウボイア島の東側を南下して島をぐるっと回り、エウリポス海峡に達するように命じました。アルテミシオンのギリシア艦隊の退路を断つ計画です。しかし、この200隻は途中で嵐にあって全滅してしまいました。これをヘーロドトスは神の配慮と呼んでいます。

この部隊が航行してエウボイアの「凹(くぼ)み」のあたりにさしかかった時、暴風と豪雨に襲われ、嵐に流され行方も知らず漂ううちに岩礁に乗り上げてしまった。これもすべて、ペルシアの戦力が格段に優勢にならぬよう、ギリシア軍と等しなみにしようとの、神の配慮のなせる業であった。


ヘロドトス著「歴史」巻8、13 から


このあと両者は会戦します。この日はちょうど陸上のテルモピュライでもペルシア軍とギリシア軍が会戦することになっていました。アルテミシオンの海戦は激戦となり、両者引き分けになってこの日の戦闘を終えます。両軍はそれぞれの根拠地に引き上げました。しかし、テルモピュライの隘路ではペルシア軍がギリシア軍を圧倒しました。その知らせがアルテミシオンに届くと、もはやテルモピュライを突破されたらペルシア軍はエウリポス海峡も確保するだろうし、アテーナイに向うのを効果的に防ぐための地形もない、ということで、アルテミシオンを撤退し、アテーナイ近海のサラミース島に集結することにしました。ギリシア軍がアルテミシオンを撤退した翌朝、ペルシア軍がエウボイア島の北端に上陸します。エウボイア島の北部にあるヒスティアイアという町の一住民が、わざわざペルシア側にギリシア軍の撤退を知らせたからでした。

ヒスティアイアの一住民が舟を駆り、ギリシア軍のアルテミシオン撤退の報をもって、ペルシア軍の陣営を訪れた。ペルシア人はその報に疑念を抱き、注進にきた男を監禁しておく一方、快速船数隻を派遣し状況を偵察させた。この者たちから実情の報告を得て始めて、ペルシア全艦隊は、朝の日の照り初(そ)める頃、一団となってアルテミシオンに向って航行し、ここに昼頃まで留まった後、ヒスティアイアに向った。ここに着くとヒスティアイアの町を占領し、北エウボイアのヒスティアイオティス地方の海岸に面する部落をことごとく蹂躙した。


ヘロドトス著「歴史」巻8、23 から


このあとペルシア軍はカルキスまで進駐したのでしょうか? そしてカルキスの住民はそれ以前に避難出来たのでしょうか? ヘーロドトスはそれについて何も書いていません。ただ、間接的な情報があります。それは、このあとのサラミースの海戦でもカルキスの20隻の軍船はそのまま参加していることです。これとは対照的にプラタイアというボイオティア地方の町の兵はサラミースの海戦に参加しなかったのですが、それはギリシア軍がアルテミシオンから撤退する際に、プラタイア軍はカルキスで下船してプラタイアにいる家族たちを避難させたが、それをしているうちにギリシア軍から取り残されたためである、とヘーロドトスは書いています。ということは、カルキスの海軍はカルキスの前を通りながら、そこで下船せずにそのまま通過した、ということになります。それは、それ以前に住民の避難が完了していたからなのでしょうか? それとも今更避難を始めても手遅れで、それよりは残りのギリシア軍と共にペルシア軍に立ち向かうほうがまだ勝ち目がある、と考えたからなのでしょうか? それとも、この頃もまだアテーナイはカルキスの支配権を握っていて、カルキスよりもアテーナイの防衛を優先するように強いたのでしょうか? 私にはよく分かりません。ただ、アテーナイが支配権を握っていないことが確かなエレトリアの船もサラミースの海戦に参加しているので、アテーナイがカルキスよりアテーナイの防衛を優先するように強いた、というのは間違っていそうです。

カルキス(9):アテーナイ人入植者

カルキスとエレトリアが交易活動でかつて主役を務めていた証拠のひとつとして、古典期のギリシアで使われていた重さ単位が「エウボイア・タラントン」と呼ばれていたことが挙げられます。重さの単位は価値の単位でもありました。それは、金額を示す時に金の重さで示したからです。実は古典期のギリシアで広く使われていた重さの単位体系はもうひとつあって、それは「アイギーナ・タラントン」と呼ばれていました。その名の通りアイギーナが使い出したもので、アイギーナはレーラントス戦争後、エーゲ海西側における交易拠点として成長してきたために、この単位が広まったのでした。

  • 余談ですが、このタラントンという言葉は最初、重さの単位の意味でしたが、物の価値の単位となり、その後さまざまな言語において「才能」の意味となり、現代の「タレント」の語源となったのでした。 


BC 506年、カルキスはスパルタや(テーバイを中心とする)ボイオティアと同盟してアテーナイを攻めました。もともとこの戦争はスパルタのクレオメネース王が企画したもので、クレオメネースがアテーナイの政局に干渉したことから始まり、その後、クレオメネースのアテーナイへの個人的な恨みも副因となって起きたものです。というのは以前、彼は少数の兵を率いてアテーナイにやって来て、アテーナイの2つの党派の片方の首領であるイサゴラスを政権につけようとしたことがありました。しかしアテーナイ人に包囲されてそれは失敗し、休戦条約を結んでアテーナイから退去したのでした。この時一緒に退去したイサゴラスを再び政権の座につかせるために、クレオメネース王は他の同盟諸国とともにアテーナイに侵攻したのでした。

クレオメネスは、アテナイ人が単に言葉の上ばかりでなくその行為によっても、自分にはなはだしい侮辱を加えたと信じ、ペロポネソス全土から軍勢を集めた。ただその理由は明かさなかったが、彼の本心はアテナイ国民に報復し、イサゴラスを独裁者に立てようとするにあったのである。クレオメネスがアクロポリスを撤退したとき、イサゴラスも彼と行を同じくしたのであった。
 クレオメネスは大軍を率いてエレウシスに侵入したが、ボイオティア人も彼との協定に従い、アッティカの国境の二つの区、オイノエとヒュシアイとを占領した。他方カルキス人もアッティカの各地を攻撃し、これを劫掠した。アテナイはかくて両面からの攻撃にさらされたが、ボイオティア人とカルキス人の対策は後まわしとし、エレウシスにあるペロポネソス軍に対して陣を構えたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻5、74 から

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

しかし、まずスパルタと一緒に進軍してきたコリントス軍が、この戦争は正しくないと考えて回れ右をして帰国してしまいます。また、スパルタのデマラトス王も(スパルタには王様が常時2人いるのです)同様に考えて引き上げてしまいます。このためスパルタはアテーナイと戦う前に撤退することになってしまったのです。

かくてこの遠征は失敗し不面目な結果に終ったが、ここにおいてアテナイは報復を志し、まずカルキスに進攻しようとした。ところがボイオティア人がカルキスを支援すべく、エウリポス海峡へ進出してきた。


ヘロドトス著「歴史」巻5、77 から

スパルタからの脅威が消えた今、アテーナイはこの機にカルキスに報復することにしました。それを察知したボイオティア軍が例のエウリポス海峡にやってきて、つまりギリシア本土とエウボイア島とをわずか40mで隔てているエウリポス海峡にやってきて、アテーナイ軍がそこからエウボイア島に上陸するのを防ごうとしたのでした。これに対してアテーナイ軍は、まずボイオティア軍に向ってこれを破り、さらにその日のうちにエウリポス海峡を渡ってカルキス軍とも戦い、これをも破ってしまいます。

アテナイ軍はこの援軍を見ると、カルキスより先にボイオティア軍を攻撃することに決した。アテナイ軍はボイオティア軍を襲撃して大勝を博し、その多数を殺し、七百人を捕虜にした。同じ日にアテナイ軍は海峡を渡ってエウボイアに侵入、カルキスをも攻撃しこれを破り、「馬持ち(ヒッポボタイ)」たちの領地を四千の開拓民に配分し、この地に定住させたのち引き上げた。「馬持ち」とは、カルキスの富裕な階級の呼称である。


同上

アテーナイは、「馬持ち」と呼ばれるカルキスの富裕階級から土地を奪い、それをアテーナイからの入植者に分配したのでした。これによってカルキスではアテーナイからの入植者が支配権をにぎるアテーナイの属国になってしまったのでした。


アテーナイはその後、この戦争での捕虜を身代金を取って釈放しました。そしてその身代金の1/10を使って青銅製の四頭立戦車を作り、これをアテーナイのアクロポリスにある女神アテーナーの神殿(有名なパルテノン神殿の前身)に奉納したのでした。その戦車には、以下のような銘が刻まれていたと、ヘーロドトスは伝えます。

 アテナイの子ら、いくさの業に
 ボイオティア、カルキスの族を討ちひしぎ、
 黒鉄の枷かけ、いぶせき獄におとして、その驕慢を懲らしぬ。
 ここに戦利の十分の一をパラスの尊に奉り、これなる戦車を献げまつりぬ。


同上

なお、パラスというのは女神アテーナーの別名です。




(女神アテーナー


このアテーナイ人入植者たちの地位はそれほど長く続きませんでした。BC 490年、ペルシア軍がエウボイア島に攻めて来た際に、彼らはカルキスから離れることになったのです。-これについては前野弘志著「ケルソネーソス、ナクソス、エウボイア植民:『エンクテーマタ型植民』の検討」を参考にしました。



それにはこのような経緯があったのです。
エレトリアとアテーナイがイオーニアの反乱に加勢したために、ペルシア王ダーレイオスはイオーニアの反乱鎮圧後、エレトリアとアテーナイに懲罰のための軍を派遣しました。そのことを知ったエレトリアはアテーナイに助けを求めました。エレトリアはカルキスのすぐ西にある町です。

エレトリア人はペルシア軍が自国に向って艦隊を進めていることを知ると、アテナイに救援を求めた。アテナイは直接に援助することは拒んだが、その代わりカルキスのヒッポボタイの領地に入植した四千を、援軍としてエレトリアに送ることを承諾した。


ヘロドトス著「歴史」巻6、100 から

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

アテーナイは自国の軍を派遣する代わりに、カルキスに入植した4000名をエレトリアに派遣することにしたのでした。このことから、カルキスに入植したアテーナイ人たちは、入植から16年たった時点でもアテーナイ政府の指示に従うことが分かります。

 しかしエレトリア人のとった方策は決して当を得たものではなかった。彼らはアテナイの救援を要請したが、実のところ国論は二つに割れていたのである。町を見捨ててエウボイアの山地に立籠ろうという一派もあれば、別の一派はペルシア方から私利を得られることを期待し祖国を売る手筈を整えていたのである。当時エレトリアを牛耳っていたノトンの子アイスキネスは、この二派の目論見を知ると、来着したアテナイ人に自国の現状を悉く告げ、エレトリア人と破滅の運命を共にせぬために、母国に引き上げるように要請した。そしてアテナイ人はアイスキネスのこの忠告に従ったのであった。


同上

今まで私はこの記述を読んで何の疑問も持たなかったのですが、今回前野弘志著「ケルソネーソス、ナクソス、エウボイア植民:『エンクテーマタ型植民』の検討」を読んで、自分の読み方が表面的なものであったことに気づきました。上の引用文に「来着したアテナイ人に」とある点が重要なのでした。その前の引用ではアテーナイ政府はカルキスのアテーナイ人入植者をエレトリアに派遣したはずですが、ここではエレトリアに来着したのは「アテーナイ人」となっています。前野弘志氏によれば、このアテーナイ人カルキスのアテーナイ人入植者は同一の集団を指しているということです。そしてエレトリアの指導者アイスキネスがそのアテーナイ人たちに「母国に引き上げるように」と忠告したその「母国」とはアテーナイのことなのでした。上の引用につづいて

 こうしてアテナイ人はオロボスに渡り難を避けたのであった・・・


ヘロドトス著「歴史」巻6、101 から

とあり、このオロポスというのは本土側の土地なので、彼らがカルキスに帰るのだったら、こんなところへは来ないはずです。つまり、彼らはアテーナイに帰ったのでした。


さて、このペルシア軍は、エレトリアを占領し住民を捕虜としたあとアテーナイに向うのですが、アテーナイ近郊のマラトーンでアテーナイ軍に敗れ、ペルシアに引き上げます。ペルシア軍が去った後、アテーナイ人入植者たちが再びカルキスに戻って来たかどうかは分かりません。少なくともヘーロドトスはそれについては述べていません。もし戻らなかったとするとカルキスの政治体制はどのようになっていたのか、私は気になります。

カルキス(8):パネーデースの判定

レーラントス戦争で戦死したカルキスの王らしきアンピダマースの葬礼に伴う競技において、詩人のヘーシオドスが歌競べの競技に優勝したことを「6:レーラントス戦争(1)」で紹介しました。これについては後世の資料で信ぴょう性が欠けるのですが、AD 2世紀の資料に詳しい記事が載っています。この資料「ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」は、岩波文庫のヘーシオドス「仕事と日」に収録されています。

ヘーシオドス 仕事と日 (岩波文庫)

ヘーシオドス 仕事と日 (岩波文庫)

今回は、この話をご紹介します。

(ヘーシオドスとムーサたち。ベルテル・トルバルセン作 1807年)


ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」にはアンピダマースの葬礼競技について以下のように書かれています。

ガニュクトールなる者が、その父なるエウボイアの王アンピダマースの葬礼競技を催すべく、当時の名だたる人物たちをあますことなく――強力、駿足を誇る者のみならず、叡智の誉れ高き者をも加え、莫大な褒賞を賭けて競技に招集した。

ここで、当時の人物の名前としてガニュクトールという名前が登場するのが私にとってはうれしいです。この時代は、私が何とか知りたいと思っている資料の少ない「神話と歴史の間の時代」なので、名前がひとつ分かるだけで私には何だかうれしいのです。このガニュクトールはアンピダマースの息子だということです。ヘーシオドスの「仕事と日」では「豪毅の王(=アンピダマース)の息子らは、莫大な賞品を予告し賭けてくれた」と述べるだけで、息子たちの名前を明らかにしていません。


「当時の名だたる人物たちをあますことなく――強力、駿足を誇る者のみならず、叡智の誉れ高き者をも加え、莫大な褒賞を賭けて競技に招集した」という記述は、なるほどこれはそういう性格の葬礼競技だったのだな、と思わせる記述です。それであれば、ここに詩人が参加するのも納得できます。


さらに、「ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」では

競技にはカルキスの名士たちが審判の座についたが、死歿した王の弟であるパネーテースもそれに加わった。

とも書かれているので、アンピダマースの弟の名前も分かりました。もちろん、これが信ぴょう性のある話なのかどうかは分かりません。何しろレーラントス戦争が終了してから800年近くあとに出来た資料だからです。このパネーデースは、この資料の別の箇所では「パネーデース王」と書かれているので、アンピダマースの戦死後、カルキスの王位を継いだ人物と思われます。

さて二人の詩人(=ホメーロスとヘーシオドス)は、話によればそれはまったく偶然であったというが、途中で出会い、揃ってカルキスに着いた。

本当にホメーロスとヘーシオドスが一緒にカルキスに赴いたのかは疑問です。それ以前に彼らが同時代人かどうかもあやしいところです。一般にはホメーロスよりヘーシオドスの方があとの時代の人と推定されています。ヘーシオドスの「仕事と日」では、詩の競技に参加したことは書かれていますが、そこでホメーロスと競ったということまでは書かれていません。


このあと「ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」では、ヘーシオドスがホメーロスに難題を出して、それをホメーロスが見事に応答する、という形で詩人同士の対決の様子が語られます。たとえばヘーシオドスが唱えた句にホメーロスが句をつなげる、日本でいえば連歌みたいなことをやっています。ヘーシオドスがたとえば

この丈夫(ますらお)の父は豪勇、なれどかよわき

と、「ますらお」なのに「かよわい」という矛盾した上の句を詠んでホメーロスを翻弄しようと試みたところ、ホメーロス

母の子なるぞ、おしなべて女(おみな)らに戦(いくさ)は向かぬゆえ。

と下の句をつなげ、「かよわき母の子」と続けることで文の矛盾を解決する、という手並みを披露します。また、ヘーシオドスが

白骨をば拾い集む、死せるゼウスの

と詠んだのですが、これは古代ギリシア人の通念として「神とは不死の存在」であることが前提にあっての、あえてその前提に反する句を詠んだものでした。神々の王ゼウスについて「死せるゼウスの」というのは古代ギリシア人にとって矛盾した叙述なのです。しかしこれに対してホメーロス

愛(まな)息子、豪勇、神にも似たるサルペードーンが白骨を

と続けることで、「死せる」を「まな息子」にかかるようにします。つまり、ゼウスと人間の女性との間に生まれた英雄サルペードーンが死んだ、というふうに矛盾を解いたのでした。このような応酬が何度も繰り返されます。このやりとりを見て聴衆はホメーロスの技量に驚嘆の念を抱きます。

右の応酬があった後、なみいるギリシア人たちは口を揃えて、ホメーロスに勝利の栄冠を授けるべきであるといったが、パネーデース王は二人にそれぞれ自作の詩の中から、もっとも美しい詩節を朗唱するように命じた。

ここでヘーシオドスが歌ったのが自作の「仕事と日」の一節で、農作業について述べたものであったのに対し、ホメーロスが歌ったのは自作の「イーリアス」の一節で、トロイア戦争での戦場における英雄たちの武勇を詠ったものでした。

この応酬においても、ギリシア人の聴衆はホメーロスの技倆に感嘆し、その詩句は尋常の域を越えた非凡なものであるとして賞め称え、彼に勝利を授けるべきであるといった。


ところがここにきてカルキス王パネーデースが変なことを言い出します。

しかし王は、勝利者たるべきは戦争や殺戮を縷々として述べる者ではなく、農業と平和の勧めを説く者でなくてはならぬといって、ヘーシオドスに勝利の冠を与えた。

ホメーロスが圧倒的に優勢だったのに、栄冠はヘーシオドスに与えられることになったのでした。


古代ギリシアのことわざのひとつに「パネーデースの判定」というのがあって、納得のいかない判定のことを「パネーデースの判定」というそうです。この話はAD 2世紀の資料に出ているということで信ぴょう性に欠けますが、カルキスにまつわる物語のひとつとして取り上げました。

カルキス(7):レーラントス戦争(2)

レーラントス戦争の同時代人の証言としては、ヘーシオドスのほかに、彼よりあとに生れた詩人アルキロコスがいます。彼の次の詩の断片は、レーラントス戦争のことを唱っている可能性があるそうです。

アレスが平野で戦闘を交えさせるとき、
多数の弓や投石具が放たれることはあるまい。
うめき声の多い戦闘は、剣でこそ行われるだろう。
エウボイアの槍で名高い殿原は、そのような戦闘に熟練しているのだ。


訳文は藤縄謙三氏(京都大学名誉教授 2000年没、西洋古典学者)の「アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」から取りました。

これについて、ストラボーン(およそBC 63年~AD 23年)は、カルキスとエレトリアの間では戦争を行う際に「飛び道具」を使用しない、という取り決めがあった、と報告しています。江戸時代の武士のように、剣での戦いを正当なものとし、飛び道具を卑怯な手段とする感性が当時のカルキス、エウボイアの人々の間にあったのかもしれません。


さて、レーラントス戦争は、その規模も、具体的な推移も、活躍した人物の名もほとんど分からないので、なかなか記述することが出来ません。今までの記事でわかったことを書き出してみます。

  • カルキスの王か、それに類する人物の名がアンピダマースであり、彼が戦死したこと、そしてその葬礼競技がカルキスで行われ、詩の朗唱の競技では、詩人ヘーシオドスが参加して優勝したこと。
  • テッサリアのパルサロスの貴族クレオマコスが騎兵隊を率いてカルキスを援助して活躍し、カルキスに勝利をもたらしたこと。しかしクレオマコス自身は戦死したこと。
  • カルキスに味方したことがほぼ確実な国:サモスとパルサロス。
  • エレトリアに味方したことがほぼ確実な国:ミーレートス。
  • 戦争の際、飛び道具を使うことは避けられていた。

わかったことはこれだけです。


 さて、アメリカのWikipediaの「レーラントス戦争」の項によれば、多くの学者は参戦国として、さらにアイギーナ(エレトリア側)、コリントス(カルキス側)、メガラ(エレトリア側)、を認めているそうです。さらにキオス(エレトリア側)、エリュトライ(カルキス側)を認める学者もあるそうです。この戦争はBC 710年頃に始まり、BC 650年頃まで断続的に続いたそうです。そしてその結果、カルキスはエレトリアに勝利したとはいえ、カルキスもエレトリアも国力を消耗し、もはやどちらもかつての繁栄を取り戻すことは出来なくなっていました。そして、その代わりに交易活動の主役に躍り出たのは、エーゲ海の東ではサモスミーレートスであり、西ではアイギーナでした。これらの都市国家は次世代の海上勢力となりました。私は、これらの国々が元々カルキスやエレトリアの交易活動における現地支店のような役割を果たしていたのではないか、と想像しています。つまりカルキスを親会社とする会社系列とエレトリアを親会社とする会社系列があり、この2つの親会社が戦うことになったために、系列会社も戦いに巻き込まれたのだと想像します。そしてこの2つの親会社が倒産したことにより、系列会社が独立して、親会社の事業を引き継いだのではないか、と想像しています。これら新興海上勢力の国々は系列会社だった時代にすでに、交易のノウハウをカルキスまたはエレトリアから得ていて、独立してからそれが役に立ったために成長したのでしょう。アテーナイが彼らにとって代わるのは、さらにのちの話です。


カルキスの黄金時代は、文献資料のあまりない時代に終わってしまいました。それでも戦後なおカルキスには植民市を建設する力は残っていたようです。今度は、エーゲ海の北西の岸に多くの植民市を建設しました。カルキスの植民市が多く建設された半島は、カルキスにちなんでカルキディケ半島と呼ばれるようになりました。