神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

プリエーネー(8):新しい町


マケドニアアレクサンドロス大王がペルシアの征服を開始したのはBC 345年で、マウソロスの死から18年後のことでした。彼はペルシアを征服したのちインドにまでその軍を進めて広大な征服地を確立したのですが、32歳の若さで亡くなりました。ペルシアの征服を開始したBC 345年には彼はまだ20歳でした。ヘレースポントス海峡(今のダーダネルス海峡)を渡って小アジアに上陸し、ペルシア軍と最初にぶつかったのがBC 334年のグラウニコス川の戦いで、彼とマケドニア・ギシリア連合軍はペルシアの精鋭部隊を相手に快勝しました(彼を含むマケドニア人たちは、自分たちはギリシア人だと思っていました。また、マケドニアの王家は神話の英雄ヘーラクレースの子孫であると称していました)。この後、アレクサンドロスとその軍は南下し、リュディアにおけるペルシア支配の根拠地サルディス(かつてのリュディア王国の首都)を陥落させ、エペソス、プリエーネー、ミーレートスハリカルナッソス(カーリア王国の首都)を占領していきました。


アレクサンドロスは、グラウニコス川での勝利を神々に感謝するために神殿を奉献することを思いつきました。エペソスに着いた時に、エペソスのランドマークともいうべきアルテミス神殿がまだ再建途中であることを知って、アレクサンドロスエペソス市民に対して「アレクサンドロスが奉献した」という文字を神殿に刻ませてくれるならば再建の資金を出そう、と提案しました。ある伝説によれば、エペソスアルテミス神殿が放火によって焼失したのは、アレクサンドロスが生まれたまさにその日だったということです(「エペソス(10):ヘロストラトス」参照)。本当にその日だったのかどうかは怪しいところですが、どちらも同じ年に起きたことは確かなようです。そういう意味でこの神殿はアレクサンドロスに縁がないわけでもなかったのです。しかし、エペソスの人々は自分たちの力でこの神殿を再建したいと考えていたので、アレクサンドロスの提案をやんわりと断りました。


次にアレクサンドロスがプリエーネーを占領した(あるいはペルシアから解放した)際に、今度はプリエーネー市民に対してアテーナーの神殿を寄贈することを提案しました。プリエーネーの人々はこれを受け入れました。そこでアレクサンドロスはプリエーネーのピュティオスに建築を依頼しました。こうして建設されたのがプリエーネーのアテーナー・ポリアス神殿(=町を守るアテーナーの神殿)でした。その大理石の側壁には、アレクサンドロスがこの神殿の資金を出したことを示す碑文が刻まれました。この碑文は現存していて、現在、大英博物館で展示されています。ところでこの神殿は、ピュティオスが生きている間には完成せず、建設は長期間の中断を何度もはさみ、その時々の支配者の後援を受けては少しずつ進み、初代ローマ皇帝アウグストゥスの治世にようやく完成したのでした。つまり、完成までに300年以上の時が流れたのでした。ローマ帝国が財政を支援したため、神格化されたアウグストゥスの名前もまた、神殿に刻まれました。アレクサンドロス大王と初代ローマ皇帝アウグストゥスの援助を受け、名前を刻まれたとは、何とも幸運な神殿でした。

(上:アテーナー・ポリアス神殿)


このようにアテーナー・ポリアス神殿の完成には長い年月がかかったのですが、新しいプリエーネーの町の建設は迅速に進んだようです。この神殿の建設をきっかけとして、BC 4世紀にはさまざまな建物が作られ、人々は古いプリエーネーの町から移住してきました。多くの公共の建物はアレクサンドロスによってではなく、町の有力者たちの私費で建設され、その人々の名前が建物に刻まれました。

この都市の遺跡は、古代ギリシアの都市全体の現存するもっとも壮観な例であると一般に認められています。時による荒廃を除けば、それは完全な状態で残っています。それは少なくとも 18 世紀から研究されてきました。この都市は、ミュカレーにある近くの採石場から採れた大理石と、屋根や床などに使用された木材で建設されました。公共エリアは急斜面に沿って格子状に配置されており、水路システムによって排水されています。給水システムと下水道システムはそのまま残っています。建物の土台や、舗装された道路、階段、ドア枠の一部、記念碑、壁、テラスが、倒れた柱や石塊の間にいたるところで見られます。木材は一切残っていません。都市は上の方に、ミュカレー山から伸びる急斜面の基部まで広がっています。狭い小道が上のアクロポリスに通じています。


英語版Wikipediaの「プリエーネー」の項 より


(上:劇場)



(上:市議会場)


アレクサンドロスの死亡した頃からそれほど経たない頃にプリエーネーの歴史家ミュロンが活躍しています。彼はBC 8世紀のメッセーネー戦争の歴史を書いています。


プリエーネーはローマ帝国の時代まで存続していました。初代ローマ皇帝アウグストゥスの頃の、つまり紀元前後の頃の、碑文がプリエーネーから出土しています。それはアシア属州の総督パウルス・ファビウス・マクシムスが公布した勅令で、属州の暦をローマの暦に合わせること、そしてアウグストゥスの誕生日を年の始めにすることを布告したものです。この頃のプリエーネーの町はアシア属州に属していました。それは、内乱の1世紀を過ぎて、ようやくPax Romana(ローマの平和)が地中海を囲む全ての地域に確立された頃でした。プリエーネーもその平和な世界の一部であったことだと思います。


これでプリエーネーの話を終わりにします。

プリエーネー(7): 建築理論家ピュティオス


プリエーネーがペルシアの支配から脱するのは、それから15年後、ギリシア本土の連合軍がペルシア軍をミュカレーで破ってからのことでした。その後、プリエーネーはアテーナイを中心とする対ペルシア軍事同盟であるデーロス同盟に参加します。BC 431年にペロポネーソス戦争(アテーナイを中心とするデーロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネーソス同盟の間の戦い)が始まります。この戦争で、プリエーネーがどのように振舞ったのか、よく分かりません。この戦争はBC 404年、アテーナイの敗北によって終結します。プリエーネーは今度はスパルタの支配下に置かれます。


BC 399年、若きスパルタ王アゲーシラーオス2世は小アジアに渡ってペルシアに戦いを挑みました。そのアゲーシラーオスが小アジアで善戦するのを見たペルシアの宰相ティトラウステスはギリシア本土内で戦争が起きるように陰謀を画策し、再びアテーナイがスパルタに対して戦争を始めることになりました。この作戦は功を奏し、アゲーシラーオスは故国スパルタに戻らざるを得なくなります。やがて戦況はアテーナイ側が優勢になりました。ペルシアとしてはスパルタ、アテーナイのどちらの勢力にも強大になって欲しくないので、突然ここで戦争に介入して停戦に持ち込みました。これがBC 386年の「大王の和約」という平和条約です。この条約によって小アジアギリシア都市はペルシアの支配下に入ることになりました。これによってプリエーネーもペルシアの支配下に入ります。



これより少し前、プリエーネーの南東にあるカーリア人の町ミュラサの支配者ヘカトムノスがペルシア王国支配下のカーリアの太守になるという出来事がありました。ミュラサは元々ペルシアに服属していましたが、それはペルシアの一部リュディア属州の一部としてでした。ところが当時のペルシア王アルタクセルクセースは、このリュディア州からカーリアを分離させて独立の属州とし、その太守にヘカトムノスを任命したのです。これは異例のことで、ヘカトムノスはペルシア人以外で太守の地位についた始めて人間になりました。彼はかなりの野心家で、事実上の独立を勝ち取っていました。BC 386年の「大王の和約」によりプリエーネーはこのヘカトムノスの支配下に入ったのでした。


BC 377年ヘカトムノスの長男マウソロスが王位を継ぐと、彼はこの国(カーリア国)の首都としてプリエーネーの南にあるギリシア人(ドーリス人)の町ハリカルナッソスを選びました。彼はハリカルナッソスを首都にふさわしくあるように改造していきます。一方で、彼はミュカレー山の麓に壮大な新都市を建設する計画を立てました。というのは、プリエーネーの町はこの頃、港がマイアンドロス川による堆積作用によって使い物にならなくなり、衰退していたからでした。実をいうと、現在残っているプリエーネーの遺跡は、この計画から生まれた新しいプリエーネーの町の遺跡です。それ以前の、古くからあった町の遺構は英語版のWikipediaの「プリエーネー」の項によれば、まだ見つかっていないということです。この新しいプリエーネーの建設はマウソロスが生前には着手されませんでしたが、その後、マケドニアアレクサンドロス大王がこの地の支配者になるにおよんで着手されます。しかし、そのことをお話しする前に、プリエーネー出身の建築家ピュティオスのことを話す必要があります。


彼はこの頃活躍した建築家であり、建築の理論家でもあり、彫刻家でもありました。彼はドーリス式の建築様式を批判し、それに対抗するイオーニア様式を理論的に洗練させました。残念ながら私には古代ギリシアの建築様式に関する知識が乏しくて、彼がドーリス式を批判する内容を理解できません。イオーニア式とかドーリス式というのは単に柱頭の様式のことだけではなく、柱の並べ方や梁の様式も含むようです。彼の建築の理論書「注釈」は失われてしまいましたが、その内容は紀元前後に活躍したローマの建築家ウィトルウィウスの著書「建築について」によって部分的に伝えられています。ピュティオスは学問としての建築学を確立し、建築家がすべての芸術と科学に通暁すべきであると主張しました。



さてマウソロスは自分のための壮麗な霊廟をハリカルナッソスに建てることを生前から計画しておりました。カーリア人でしたがギリシア文明に心酔していたマウソロスは、ギリシアの著名な建築家2名に自分の霊廟の設計を任せます。その一人がプリエーネーのピュティオスであり、もう一人がパロス島のサテュロスでした。マウソロスの死後、妻のアルテミシアが王位を継ぎ、この霊廟の建設も引き継ぎました。彼女は、この建設に費用を惜しまず、ピュティオスやサテュロスのほかにも当時のギリシアの最上の建築家と彫刻家を何人も招聘して建設に従事させました。こうして完成したのがマウソレウム(マウソロス霊廟)です。英語のmausoleumという単語は「壮大な霊廟」のことを意味しますが、その語源となったのがこの霊廟でした。マウソレウムは世界の七不思議の一つにも数えられていました。

  • ところで「世界の七不思議」という言葉の原語では「不思議」という意味はなく、これは日本語にする時に誤訳したらしいです。もともとは「世界の七必見」という意味だったそうです。そうだと分かると意味がしっくりしてきます。


マウソレウムは現存しませんが、そのミニチュア模型がイスタンブールにあるようです。マウソレウムの最上階には、4頭立ての馬車の彫像が設置されましたが、これはピュティオスの作であると伝えられ、その一部が今、大英博物館に保管されています。



(左:大英博物館蔵のマウソレウム最上階の馬の像)

プリエーネー(6): イオーニアの反乱


プリエーネーはペルシアによってその市民が奴隷に売られるという悲運に遭いました。一方、他の都市はどうだったかといいますと、まずミーレートスはすでにペルシアと協定を結んでその支配下に入っていたので安全でした。他の諸都市は、翌年、ペルシアの将軍ハルバコス(彼はメディア人でした)の攻撃を受けました。その中でテオースポーカイアの住民は町を捨てて移住しましたが、その他の諸都市はハルバコスによって征服されてしまいました。

隷属に甘んずることを潔しとせず祖国を離れたのは、右の二つの町(テオースポーカイア)だけで、残りのイオニア人ミレトスを除き、みな離国組と同様にハルバコスと戦い、いずれも救国の戦いに武勇を輝かしたが、結局戦い敗れ占領されて、それぞれの祖国に留まり、ペルシアの命に服することになったのである。ミレトスだけは前にも述べたように、直接(ペルシア王)キュロスと協定を結んでいたので戦火を免れていた。
 こうしてイオニアは再度隷従の憂目を見たのであるが、ハルバコスが大陸のイオニア諸市を征服すると、島に住むイオニア人たちもこれに恐れをなして、自発的にキュロスに降伏してしまった。


ヘロドトス著「歴史」巻1、169 から


こんな時にプリエーネーの賢人ビアスがパンイオーニオンの議会にやってきました。プリエーネーがパクテュエスと一緒にペルシアに反乱を起こした時に、ビアスはどうしていたのでしょうか? 彼は危険を察知してプリエーネーを離れていたのかもしれません。

イオニア人が悲運に陥った後も、相変わらずパンイオニオンに集まっているのを見て、プリエネの人ビアスイオニア人にとってきわめて有益な意見を述べた、と私は聞いている。もしイオニア人が彼の意見に従っていたら、イオニア人ギリシアで最大の繁栄を誇ることができたであろうと思われる。ビアスの勧告というのは、イオニア人は一致団結して海路サルディニアへ移り、ここに全イオニア人の町を一つ建設せよというもので、かくすれば世界最大の島に住んで近隣の住民に号令し、隷従の悲運を免れて繁栄できるであろう、彼らがイオニアに留まる限り、自由が訪れる見込みはもはやない、とビアスはいったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻1、170 から


サルディニアは今のイタリアのサルデーニャ島です。この時もちろんこの島が無人島であったわけがなく、様々な民族が町を作って住んでいました。そこへ押しかけて町を作ろうとするのですから、元から住んでいた住民と軋轢が出る(場合によっては戦争になる)のは覚悟の上です。それでも、サルディニアの住民はペルシア軍よりはるかに弱いとビアスは考えたのでしょう。結局、イオーニア人たちはビアスの意見を採用しませんでした。


その後40年以上イオーニアの諸都市はプリエーネーを含めてペルシアの支配下でおとなしくしていました。ペルシア王もキューロス、カンビュセース、ダーレイオスと変わっていきました。プリエーネーも戦争の傷跡を修復して、それなりに繫栄しておりました。ところが、BC 499年、ミーレートスがペルシアに対して反乱を起こすと、他のイオーニア都市とともにプリエーネーも反乱に参加してしまいました。かつて不用意に反乱に加担してひどい目にあったことを記憶している世代の人々はきっと少なくなっていたのでしょう。この反乱に参加しなければ、また悲惨な目に遭わずにすんだのですが、そうはなりませんでした。


この反乱はBC 494年まで続きます。反乱に参加したイオーニアの諸都市のいくつかはペルシアの攻撃を受けて脱落していき、BC 494年の時点では、ミーレートスサモスキオス、プリエーネー、テオースポーカイアエリュトライミュウスが残っていました。ミーレートス沖のラデー島付近で最後の海戦が行われました。これをラデーの海戦と呼びます。この時、プリエーネーは12隻の軍船を派遣していました。一方、反乱の主導者であったミーレートスは80隻の軍船を出していました。ここからミーレートスとプリエーネーの国力の差が推測できます。ちなみに派遣した軍船の数が最も少なかった町はミュウスポーカイアでともに3隻の軍船を派遣していました。

(上:ラデーの海戦の位置)


このラデーの海戦でプリエーネーの戦いぶりがどうだったのかをヘーロドトスは書いていません。いずれにせよ、イオーニア連合海軍は敗れ、陸上ではペルシアの陸軍によってミーレートスが陥落したのでした。ミーレートスの陥落後、すぐにプリエーネーも占領されてしまったようです。

かくしてイオニアは三たび隷属の憂目に遭ったのであるが、この三回のうち最初はリュディア人によるものであり、あとの二回はペルシア人によるものである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、32 から

プリエーネー(5):ペルシアの侵攻


ビアスが、リュディア王クロイソス(アリュアッテスの息子で次代の王)と会談して、クロイソスがエーゲ海の島々を征服するのをあきらめさせた、という話があります。この話は一説にはビアスのことではなく、同じく七賢人の一人ミュティレーネーのピッタコスのことであるとのことですが、ともかくお伝えします。クロイソスはビアスに対して、何かギリシアについてニュースはないか、と尋ねました。するとビアスは次のように答えたのです。

「王よ、島の住民どもは、あなたを目指しサルディスに攻め込もうと、莫大な数の馬を買い集めておりますぞ。」
 クロイソスは相手の話を真実だと思ってこういった。
「神様が島の住民どもに、リュディアを馬で攻めようという気を起させて下さるならば、まことに有難いことじゃ。」
 すると相手が答えていうに、
「王よ、あなたは島の者どもが騎馬で侵攻して参ったならば、陸上で捕捉してやろうと意気込んでおいでのようにお見受けしました。まことにごもっともなこと。しかしながら、もしあなたが島を征伐ささるため船の建造を計画なさっておることを、島の者たちが知ったならば、誓ってリュディア軍を海上に捕捉し、あなたによって隷属させられております、大陸在住のギリシア人たちの報復を遂げよう、と念願するとはお考えになりませぬか。」


ヘロドトス著 歴史 巻1、27 から

クロイソスはなるほどと思い、島々を攻めるのをあきらめたのでした。


その後、リュディア王国の東にある大国のメディア王国が、そのまた東にあるペルシア王国によって滅ぼされ、リュディア王国をも併合する勢いになりました。ペルシア王キューロスは、イオーニア諸都市に密使を送り、リュディアに対する反乱を指嗾しました。しかし、イオーニア諸都市はそれに応じませんでした。その後、リュディアはキューロス王率いるペルシア軍によって滅ぼされました。この事態に慌てたイオーニア諸都市は使者をキューロス王に送り、ご機嫌を取ったのですが、キューロス王は怒りを解きませんでした。そこで、イオーニア諸都市は各々代表をミュカレーにあるパンイオーニオン(=全イオーニア神殿)に送って協議をさせました。前にも少し述べましたが、このパンイオーニオンはプリエーネー領だった可能性が高いです。


さて、状況は混乱を極めていました。というのはキューロス王がリュディア王国の首都だったサルディスを去ると、リュディア人のパクテュエスがキューロスに対して反乱を起こしたからでした。

キュロスがサルディスを去ると、パクテュエスはリュディア人をタバロス(キューロスがサルディスの管理を任せたペルシア人)およびキュロスに叛かせて沿海地方に下ると、サルディスの黄金全部を手中に収めていたので、傭兵を募り、また沿海の住民を説いて自分と共に遠征に参加するようにすすめた。こうしてサルディスに進軍し、タバロスをアクロポリスに追い詰め、これを包囲したのである。


ヘロドトス著 歴史 巻1、154 から

ここに「沿海の住民を説いて自分と共に遠征に参加するようにすすめた」とありますが、プリエーネーはこれに応じたのでした。これに対しキューロスは

マザレスというメディア人を呼び(中略)リュディア軍とともにサルディスに進撃したものはことごとく奴隷に売ること、またパクテュエスはなんとしてもいけどりにして自分の所へ連れてくることを命じた。


ヘロドトス著 歴史 巻1、156 から

のでした。パクテュエスは自分に討伐軍が迫ってくることを知ると恐れをなして各地を転々と逃亡し、キオス島にやってきたところをキオス政府によってペルシア側に引き渡されてしまいました。

さてキオスがパクテュエスを引き渡したのち、マザレスはパクテュエスと共にタバロスを包囲攻撃したものたちを攻め、プリエネの市民たちを奴隷にして売り払い、マイアンドロス平野一帯を軍隊によって掠奪蹂躙し、マグネシアにも同様の打撃を与えた。


ヘロドトス著 歴史 巻1、161 から


プリエーネー市民が奴隷に売り払われたということは、プリエーネーはここで滅んでしまったのでしょうか? ところがこのあともプリエーネーは存続します。どういう事情で存続出来たのか私にはわかりませんが、おそらく誰かが(あるいはイオーニアの諸都市が手分けして)身代金を払ってプリエーネー人たちを買い戻したのではないか、と思います。この時からプリエーネーはペルシアの支配下に入りました。

プリエーネー(4):賢者ビアス



前回登場したプリエーネーの人ビアスは、七賢人の一人として取り上げられます。誰が七賢人に属するのかについてはいろいろな説がありますが、どの説でもビアスは必ず入っています。(このブログではすでに七賢人のうち「ミーレートスのタレース」「ミュティレーネーのピッタコス」「リンドスのクレオブーロス」「コリントスのペリアンドロス」を取り上げています。)ディオゲネース・ラーエルティオスはその著書「ギリシア哲学者列伝」でビアスの金言として「たいていの人間は劣悪である」という言葉を挙げています。これだけ聞くと、お高くとまった、他人を普段から馬鹿にして過ごしているような人物を想像してしまいます。もう少し「ギリシア哲学者列伝」を読んでみると、この言葉は次の文脈で登場します。

人を愛する場合には、いつかは憎むことになるかもしれぬつもりで愛するようにと(ビアスは)言った。というのも、たいていの人間は劣悪であるからと。


ディオゲネース・ラーエルティオス「ギリシア哲学者列伝」の第1巻 第5章「ビアス」 加来 彰俊訳 より

この文脈で読むと、ビアスという人の人となりにもう少し苦みというか諦念のようなものが感じられてきます。しかし依然と、彼が現実をシニカルに見ている人のように思えます。ところがこの人物が、温かい心の持ち主だったことを示すような逸話も「ギリシア哲学者列伝」には登場します。その一つは以下のようなものです。

彼(=ビアス)は戦争で捕まった何人かのメッセニアの娘たちを身代金を払って解放してやり、自分の娘のように育て上げたうえで、持参金をもたせてメッセニアの彼女らのところへ送り返してやったとのことである。やがて時が経って(中略)「賢者へ」という文字が刻まれた青銅の鼎がアテナイ(の海域)で漁夫によって発見されたとき(中略)その娘たちが(中略)民会へ出頭して、自分たちの身の上をくわしく話したあとで、ビアスこそ賢者であると申し立てた。そこでその鼎は彼に送られたのだが、ビアスはそれを見ると、アポロンの神こそ賢者であると言って、これを受け取らなかったということである。


同上


この話からは、ビアスが親切な人であることは分かるのですが、なぜ娘たちがビアスを「賢者」だと主張したのか、そしてプリエーネーの民会に出席していた人々がなぜ、そのことを納得したのか、よくわかりません。


次に、ビアスが裁判における弁護に長けた人であったことを伝える話もあり、この話においてもビアスの親切心が表われています。

彼(=ビアス)は、すでに非常な高齢であったにもかかわらず、ある依頼人のために弁護演説をしたのだが、演説を終えたあとで、娘の子供の胸に頭をもたせかけた。そして反対側の弁護人も演説し、裁判官たちがビアスに依頼した人に有利な判決を下して、法廷が閉じたとき、ビアスは孫の胸のなかで息が絶えていたのである。


同上

これらの伝説からは、ビアスが他人を見下している様子はまったくなく、むしろ人付き合いのよい人物であることが読み取れます。エペソスの哲学者ヘーラクレイトスはビアスのことを非常に評価し

「プリエネには、テウタメスの子ビアスがいた。彼は他の者どもよりもずっと語るに足る人物だった。」


同上

と言っていたのですが、このヘーラクレイトスが人間嫌いで孤独を好んだのに対して、ビアスはそれとは全く異なるタイプの人物だったようです。


ビアスの言葉として以下のものが伝わっています。

  • 思慮を重んずること
  • 青年から老年への旅支度として知恵を用意すること。というのは、これは他のどんな持ち物よりも確かであるから。
  • つまらない人間を富のゆえに称賛しないこと。
  • 何かよいことをしたなら、それは神々のおかげにすること。

などなどです。


ところで、先ほど述べた鼎のことですが、一説にはビアスはこの鼎をテーバイにあるヘーラクレースの神殿に捧げた、ということで、その理由はビアスがプリエーネーに入植したテーバイ人の子孫だったからだそうです。もし、そうだとするとビアスはプリエーネー建設時から続く貴族の家系だったと思われます。

プリエーネー(3):リュディアの侵攻

その後、プリエーネーは東のほう、サルディスを首都として勢力を伸ばしてきたリュディア王国の侵略を受けます。リュディア王アルデュス(英語版のWikipediaの「リュディアのアルデュス」の項によれば、在位BC 644年~637年)がプリエーネーを占領しました。しかしその後、黒海東岸地域を通ってやってきた遊牧民族のキンメリア人が小アジアに侵入してリュディア王国を荒らし廻ったため、リュディア軍はプリエーネーから撤退したようです。これでプリエーネーは一息つくことが出来たかというと、今度はキンメリア人がプリエーネーを襲うことになりました。一時期、プリエーネーの人々は町を離れ、どこかに避難していたようです。

ギュゲスの後王位に即いた、ギュゲスの子アルデュスについて述べよう。このアルデュスはプリエネを占領、ミレトスに侵攻したが、彼がサルディスを支配している時期に、キンメリア人がスキュティア系遊牧民の圧迫で定住地を追われて、アジアの地に入り込み、サルディスをそのアクロポリスを除いてことごとく占領した。


ヘロドトス著 歴史 巻1、15 から


もっともキンメリア人は町から略奪するだけ略奪すると、遊牧民らしく別の場所へ去っていきました。


(上:サルディスのアルテミス神殿)


このアルデュス以前にもリュディア王ギュゲスがミーレートスに軍を進めています。ミーレートスはプリエーネーのすぐ近くですので、この時プリエーネーも侵略を受けたかもしれません。

さてこの(リュディア王)ギュゲスも、王位に即いてから、ミレトススミュルナに軍を進め、コロポンの市街を占領するということがあった・・・・


ヘロドトス著 歴史 巻1、14 から



ミーレートススミュルナコロポーンの位置を上の地図に示します。このように当時のリュディア王国は、エーゲ海東岸の広い地域に勢力を伸ばそうとしていました。アルデュスの孫にあたるリュディア王アリュアッテス(在位 BC 635年頃~585年頃)もプリエーネーを包囲したことがあります。この時にプリエーネー市民のビアスという者が知恵を働かせてこの包囲を解かせた、という話が、ディオゲネース・ラーエルティオスの「ギリシア哲学者列伝」に載っています。彼は賢人と呼ばれ、七賢人の一人とされています。

アリュアッテスがプリエネを攻囲していたとき、ビアスは二頭のラバを肥らせて、これを敵の陣営へ送り込んだ。アリュアッテスはこれを見て、プリエネの人たちの糧食の豊かさがもの言わぬ動物たちにまで及んでいることに驚いた。そこで彼は和議を結ぼうと考えて使者を送った。しかしビアスは砂の山をつくり、その上に穀物をふりまいて、これを使者に見せた。そこで使者からこの報告を受けたアリュアッテスは、ついにプリエネの人びとと平和条約を結んだのである。


ディオゲネース・ラーエルティオス「ギリシア哲学者列伝」の第1巻 第5章「ビアス」 加来 彰俊訳 より


しかし、この話はアリュアッテスとミーレートスの僭主トラシュブロスとの間の次の話に似ています。(詳しくは「ミーレートス(7):僭主トラシュブロス」参照)

さてアリュアッテスはデルポイからの報告を聞くと、神殿再建に要する期間だけミレトス側と講和を結びたいと思い、早速使者をミレトスに送った。こうして使者はミレトスにいったのであるが、(ミーレートスの僭主)トラシュブロスには万事詳細な情報が入っており、アリュアッテスの出方も判っていたので、次のような策略をたてた。町中にある限りの食料――彼自身の貯えも市民たちの手持ちも全部合せて広場へ集めさせ、市民に布告して、自分が合図を出したら町中のものが一斉に、互いに招(よ)びつ招(よ)ばれつで大いに飲みかつ食えといったのである。
 トラシュブロスが布告を出してこんなことをやらせたのは、サルディスからの使者に山と積まれた食料と上機嫌で飲み食いしている市民の姿を見せ、それをアリュアッテスに報告させてやろう、という腹だったからである。
 そしてそれがその思惑どおりになった。(中略)私のきく限りでは、和平は正にこのことによって成立したのである。アリュアッテスは、ミレトスでは極度の食料不足に悩み、人民は最悪の事態に追い込まれていると思っていたのであるが、ミレトスから帰還した使者の口から、予期していたのとは全く反対の報告を聞いたのであった。


ヘロドトス著 歴史 巻1、21~22 から

この時ミーレートスはリュディアと平和条約を結び、それは次代のリュディア王であるクロイソスの時も守られています。一方、プリエーネーのほうはクロイソスの時代にリュディアの支配下に入っていますので、おそらく上のビアスの話は、あとから作られた話のようです。

プリエーネー(2):メリア戦争

プリエーネーの初期についての伝説として、エペソスの初代の王であったアンドロクロスが、プリエーネーとカーリア人(原住民)との戦いを助けて、一緒に戦ったという話があります。

(アテーナイ王)コドロスの息子アンドロクロス(エペソスに向かって航海したイオーニア人たちの王に任命されたのは彼でした)は、上部の都市(エペソス)を占領していたレレゲス人とリュディア人をこの地から追放しました。(中略)アンドロクロスはプリエーネーの人々を助けてカーリア人に立ち向かいました。ギリシア軍は勝利しましたが、アンドロクロスは戦死しました。エペソス人たちは彼の遺体を運び去り、自分たちの土地に埋葬しました。


パウサニアース「ギリシア案内記」7・2・8~9より

カーリア人との戦いには勝ったが、アンドロクロスは戦死した、ということです。しかしプリエーネーを助けたのが近くのミーレートスではなくて、ちょっと遠くのエペソスだったのでしょうか? アンドロクロスはイオーニア12都市の同盟を組織した人物とも伝えられているので、同盟の盟主としての義務感があったのかもしれません。


その後に続く長い期間のプリエーネーについてはよく分かっていません。次に特記すべきはメリア戦争のことです。英語版Wikipediaの「イオーニア同盟」の項の説明によれば(その説明は明確ではないですが)、BC 8世紀終わり頃にカーリア人の都市、あるいはカーリア人とイオーニア人が混住して通婚していた都市であるメリア(またの名をメリテー)をイオーニア人たちが攻撃したというメリア戦争があったということです。メリアはプリエーネーの近くミュカレー山の麓にあったということです。また、英語版Wikipediaの「ミュカレー」の項によれば、戦後この地がサモスとプリエーネーに分割されたということです。ヘレニズム期にこの土地の帰属をめぐってプリエーネーとサモスが裁判で争ったことを記録した碑文が、プリエーネーから出土しました。その碑文には「メリア戦争」の語が登場するとのことです。


紀元前後に生きたローマの建築家ウィトルウィウスは、その著「建築について」の中でメリテーという都市国家について触れていますが、これがメリアのことだとされています。

その後、アテーナイ人はデルポイアポローンの神託に従い、ギリシア全土の同意を得て、一度に 13 の植民団を小アジアに派遣し、各植民団の指導者を任命し、クストスとクレウーサの息子イオーンに総司令官の地位を与えました。イオーンはそれらの植民団を小アジアに導き、カーリアの地を占領し、そこにエペソスミーレートスミュウス (ずっと昔に水に飲み込まれ、その神聖な儀式と参政権はイオーニア人によってミーレートス人に引き継がれた)、プリエーネー、サモステオースコロポーンキオスエリュトライポーカイアクラゾメナイレベドスメリテーといった大都市を建設しました。このメリテーは、その市民の傲慢さのために、全員の同意によって宣言された戦争で他の諸都市によって破壊され、その代わりに、アッタロス王とアルシノエの親切により、スミュルナ人の都市はイオーニア人の間に受け入れられました。


ウィトルウィウス「建築について」4・1・4より


上の記事の内容はいろいろ突っ込みどころがあるのですが、それは横に置いておいて、メリテーについて見ていきますと、メリテーはイオーニア12都市と同じ時期にイオーニア人によって建設されたものの、その市民が傲慢だったために他の全都市から攻撃されて滅んだ、としています。英語版Wikipediaの「イオーニア同盟」の項「ミュカレー」の項の説明によれば、メリテー(=メリア)はギリシア人の町ではなく、カーリア人の町であり、イオーニア12都市がこれを攻撃したことがきっかけになってイオーニア同盟が結成された、としています。そして、メリアの跡地に全イオーニア神殿を建設し、イオーニア12都市の共通の聖地とした、ということです。


私は今までイオーニア同盟の結成時期を、イオーニア12都市が建設されてからそれほど経たない頃を想定していましたが、上の記事に従えば、結成時期はもう少し時代が下ったBC 8世紀終わり頃になるようです。

(上:ミュカレー山)


全イオーニア神殿のある、ミュカレー山のふもとの地域が、プリエーネー領となったのかそれともサモス領になったのか、についてははっきりしません。のちにこのことは両都市の間の係争になったのでした。いずれにせよ、この地域はプリエーネーに近接する地域でしたので、プリエーネーはメリア戦争に大きく関わったにちがいありません。ひょっとするとパウサニアースが述べている「エペソス王アンドロクロスがプリエーネーを助けてカーリア人と戦い、戦いには勝ったがアンドロクロスは戦死した」という伝説は、このメリア戦争のことをもっと昔の植民都市建設の時代に投影したものかもしれません。