神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書いていきます。

このブログの説明


このブログは、エーゲ海にあるさまざまな古代ギリシアの都市の創建から、ギリシアの古典期、あるいはローマ帝国の時代までの神話、伝説、逸話などを書いていくものです。それが60歳が近くなって見つけた私の趣味です(もう60は越えましたが)。記事を書く上での主な情報源はヘーロドトスの「歴史」トゥーキュディデースの「戦史」、あと英語版のWikipediaなどです。



目標50都市。現在40都市。
今まで、以下の都市について書きました(リンクを貼ってあります)。


アテーナイやスパルタのような名高い都市は取り上げない方針です。それらの歴史についてはネット上に多く見つかるためです。

スタゲイラ(3):ペルシアの影

BC 600年頃は七賢人が活躍した時代でした。七賢人とは誰のことをいうのかについては多くの説がありますが、ミーレートスのタレース、アテーナイのソローン、ミュティレーネーのピッタコス、スパルタのキローン、プリエーネーのビアスは、どの説でも七賢人のうちに数えられています。この中でアテーナイのソローンやミュティレーネーのピッタコスは、貴族と平民の対立を緩和するために活躍した政治家でもありました。ミュティレーネーのピッタコスは貴族ではなかったようで、ミュティレーネーの貴族の一員であり詩人であったアルカイオスは、ピッタコスのことを次のように詠んで貶しています。

生れ賤しいピッタコス
皆でたかって大いに賞めそやし
肝玉のない不幸な国の僭主に立てた。


アリストテレース政治学」山本光雄訳 第3巻14章10節より

アルカイオスの一族はピッタコスによって国を追放されたので、ピッタコスに敵意を持っていたのでした。また、アテーナイのソローンも国内で対立する2つの勢力の均衡をとるのに苦労しました。ソローン自身が作った詩にはこう書かれています。

私は民衆に充分なだけの力を与え、
その名誉を損ないもせず、附け加えもしなかった。
権力があり富を羨まれる人々についても
私は不当の扱いをせぬように配慮した。
私は双方を力強い楯でかばって立ち、
どちらにも不当の勝利を許さなかった


プルタルコス「ソロン伝」村川堅太郎訳 18章 より

このような老練な政治家が現れた場合にはその都市はうまく運営されるのですが、そのような人材に恵まれない場合にはその都市は激しい政争の場となるのでした。スタゲイラでは有能な調停者が現れたのか、それとも激しい政争が繰り返されたのか、情報を得ることが出来なかったので想像するしかありません。

(上:スタゲイラの城壁の跡)


またこの頃、ギリシア諸都市は近隣の都市と頻繁に戦争していました。そして先ほど述べた都市内での派閥争いが、往々にして別の都市の勢力と結びついたために、戦争の展開も一筋縄ではいかないのでした。このように自分の都市内で、あるいは近隣の都市間で常に争いごとを行っているうちに、大きな脅威が東からギリシア人の住む世界に迫ってきました。それはペルシア王国です。七賢人のうちミーレートスのタレースは、ペルシアの脅威を直接感じた人でした。小アジアエーゲ海沿岸のイオーニア地方がいよいよペルシアの脅威にさらされた時、タレースはイオーニアのギリシア人諸都市を統一して一つの国作ることを提案しています。しかしこの提案は聞き入れられず、イオーニアの諸都市は個別にペルシア軍と戦い、そしてその全てがペルシアに征服されてしまいました(BC 546年)。タレースはこの頃に生涯を終えたということです。ペルシアによる征服戦争に巻き込まれたのでしょうか? この頃タレースは高齢だったので、自然死であってもおかしくないのですが、そこのところの事情はよく分かりません。


この時のペルシア王は初代のキューロスでしたが、キューロスはこのあとペルシアは南のバビロニアを征服しました。二代目の王カンビュセースはエジプトを征服しました。三代目の王ダーレイオスはスキュティア(今のモルドバからウクライナ)を征服しようとして失敗しましたが、この時に部下のメガバゾスに命じてトラーキアを征服させました(BC 513年頃)。

ダレイオスはトラキアを通過して、ケルソネノスのセストスに着いた。ここから自分は船でアジア(小アジアのこと)に渡ったが、ヨーロッパにはペルシア人メガバゾスを総司令官として残しておいた。


ヘロドトス著「歴史」巻4、143 から

ダレイオスがヨーロッパに残していった、メガバゾス麾下のペルシア軍は、ヘレスポントス附近の町のうち、ダレイオスに従おうとしないペリントスを、最初に制圧した。(中略)ペリントス攻略の後、メガバゾスはトラキアを通って軍を進め、この地方の町および民族をことごとく大王に帰属させた。トラキアを平定せよという指令を、ダレイオスから受けていたからである。


ヘロドトス著「歴史」巻5、1~2 から


この時にトラーキアを征服したペルシア軍総司令官メガバゾスは、その西のマケドニアにペルシアへの臣従を促す使節団を送っています。スタゲイラはマケドニアより東側に位置しますので、スタゲイラもこの時ペルシアからの攻撃を受けたのではないかと思います。

スタゲイラ(2):植民活動

スタゲイラが建設されたBC 655年頃からその後、スタゲイラにどのようなことが起ったのか調べてみたのですが、なかなか「これは」という情報を見つけることか出来ませんでした。スタゲイラが建設された時代は、小アジアでは騎馬民族キンメリア人がギリシア人都市を襲っていた頃です。しかしキンメリア人は、さすがにスタゲイラまでは襲ってこなかったと思われます。ヘーロドトスの「歴史」はこの頃の小アジアの歴史については詳しく知らせてくれますが、スタゲイラのある地方については教えてくれません。ヘーロドトスの「歴史」がスタゲイラの付近の歴史を教えてくれるのは、ペルシアの3代目の王であるダーレイオスが部下にトラーキアの征服を命じたところからです。それでもこのトラーキア征服の記述にはスタゲイラの名前は登場しません。スタゲイラの名前が登場するのは、ダーレイオスの次の代の王クセルクセースの時の出来事においてであって、それはBC 480年のことです。スタゲイラが建設されたBC 655年頃には、まだペルシア王国自体が発足していませんでした。


このような訳でスタゲイラが建設されてからあまり時間が経っていない頃のことについては情報があまりないのですが、ひとつ気になる情報を見つけました。それはアンドロス人によってスタゲイラが建設されたのち、エウボイア島のカルキスという町からの植民者をスタゲイラが受け入れたという情報です。山本光雄著「アリストテレス(自然学・政治学)」(古い本です)にそのような情報がありました。そこには以下のように記されています。

さて、アリストテレスは紀前384/3年にカルキディケ半島のマケドニア領に近いスタゲイロスという(のちにスタギラと呼ばれた)寂しい田舎町に生まれた。(中略)この町はもとエーゲ海のアンドロス島イオニアギリシア人によって植民され、後にエウボイア島のカルキスイオニアギリシア人からも補充されてできた植民都市である。


山本光雄著「アリストテレス (自然学・政治学)」より

私はほかにそのようなことを書いた記事を見たことがないので、この記事の元になった資料を知りたいと思っています。



また、この頃は植民活動が盛んだったということが分かりました。スタゲイラのあるカルキディケー半島の植民活動については記述を見つけることが出来ませんでしたが、スタゲイラ建設より80年ほど前のシケリア島(シシリー島)への植民の様子をトゥーキュディデースが記しているので、それをご紹介します。

ギリシア人の中で最初にやって来たのは、エウボイア島のカルキス人であった。かれらはトゥークレースを植民地創設者にいただいて渡来すると、ナクソス市を建設し(BC 734頃)、現在のナクソス市の外側にある、開国神アポローンの祭壇をこの時に建立した。(中略)それから一年おいて、コリントスのヘーラクレイダイ一門のアルキアースが、シュラクーサイ市を建設した(BC 733頃)。かれは、今は市の内郭となり島ではなくなっているが、かつては島であった場所からシケロス人を駆逐して、市を建てたのである。(中略)他方、トゥークレースをいただくカルキス人らは、シュラクーサイが建設されてから五年目に、ナクソスを基地として(原住民の)シケロス人と戦い、これを駆逐してレオンティーノイ市を建設(BC 729頃)、つづいてカタネーを建設した(BC 728頃)。カタネー人は、自分たちの植民地創設者としてエウアルコスをえらび、その指示に従った。
 これと同じ頃、メガラからもラミスが植民団をひきいてシケリアにやってきた。そしてパンタキュアース河を見おろす地点に、トローティーロンという国を開いた。やがて其処をあとに、レオンティーノイのカルキス人らのもとに移って、しばらくの間は市民の待遇を与えられていたが、やがてカルキス人らと相容れなくなって国を追われ、今度はタプソスを建設、ラミス自身はそこで亡くなった。残った者たちは、(原住民の)シケロス人の王ヒューブローンがかれらに別の土地を与えて入植を指導したので、タプソスをすてメガラ・ヒューブライアの名で知られた国を建設した(BC 728)。かれらはその後245年間ここを住居としてきたが、シュラクーサイの独裁者ゲローンのために町と領土を奪われて、国を捨てた。この移住がおこなわれるより以前に、すなわちヒューブライアの建設後100年目に、かれらはパミーロスを送ってセリーヌースを建設していた(BC 628)。このパミーロスはヒューブライアの母国であるメガラからやって来て、セリーヌース建設に力を借したのである。


トゥーキュディデース著「戦史」巻6・3~4 から

おそらくスタゲイラ周辺の植民市もこの記述のように続々と建設され、ある植民市がさらに別の植民市を建設するということもあったのでしょう。このような植民市の建設は多くの場合、原住民の追放を伴ったのであり、スカゲイラの場合、トラーキア人を駆逐して建設されたのでした。


さて、スタゲイラ市民の中には古くからの生まれの良さを誇る貴族もいれば、そうではないが交易などで実力をつけてきた新興勢力もいたと思います。BC 600年前後にはギリシアの多くの都市でこの両者の対立が目立ってきました。スタゲイラでもそのような対立が起きたのではないか、と想像します。

スタゲイラ(1):母市アンドロス

スタゲイラは有名な哲学者アリストテレースが生まれた町として知られています。逆に言えばそれ以外の情報はあまり見つかりません。そのような町の歴史について、私のような素人がどこまで書くことが出来るのか、やってみました。


(左:アリストテレース

スタゲイラはカルキディケー半島に位置しています。カルキディケーの名前は、エウボイアの有力都市カルキスからの人々が主に植民したことに由来しています。しかしながら、スタゲイラはカルキスの植民市ではなく、アンドロス島の植民市でした。アンドロス島はエウボイア島の南にある島です。スタゲイラに関する記事が少ないので、その母市であるアンドロスから話を進めようと思います。


英語版のWikipediaの「アニオス」の項によれば、デーロス島の初代の王になったアニオスにはミュコノス、アンドロス、タソスの3人の息子がおり、ミュコノスはミュコノス島の、アンドロスはアンドロス島の王となった、という伝説(ビュザンツのステファノスによる)があるそうです。しかし、王となったアンドロスの子孫についてとか、その後のアンドロス島の話とかは残念ながらそこには書かれていませんでした。ところでアンドロスの父アニオスはアポローン神の息子でした。アニオスについては「カリュストス(1):ロイオー」に書きましたので、よろしければご覧下さい。この伝説に何か歴史を読み取ろうとするならば、アンドロスはデーロス島との関係が深かった、ということが読み取れそうです。デーロス島はアポローン神が生まれたとされる島で、イオーニア人によってアポローンの聖地とされた島です。アンドロス島はこの聖地の近隣の島という位置づけがなされていたようです。


一方、高津春繁氏の「ギリシアローマ神話辞典」でアンドロスが登場するのは1か所だけで、そこにはコース島およびその近隣の島々の領主だったペイディッポスがトロイア戦争に出征し、トロイア陥落後にコース人とともにアンドロス島に移住した、ということが書かれています。これには何か歴史的な事実が反映されているのでしょうか? 私には分かりません。


考古学の知見では、ミュケーナイ文明の崩壊後、アンドロスは北のエウボイア島の文化の影響を受けていたことが分かっています。そしてBC7世紀にはアンドロスはエイボイア島にある都市エレトリア支配下にありました。そうするとアンドロスはエレトリアの植民市として設立されたのでしょうか? そこのところは私にはよく分かりません。さて、BC 710~650年頃、エレトリアは近隣の都市であるカルキスと長い戦争を行います。これはレーラントス戦争と呼ばれています。一方、BC 650年頃アンドロスは、カルキディケー半島付近に4つの植民市を建設しました。そのうちのひとつがスタゲイラで、あとの3つはアカントス、アルギロス、サーネーという町でした。

ということはレーラントス戦争でエレトリアの力が弱体化し、それによってアンドロスが自由に活動できるようになり、その結果として植民活動がさかんになったのかもしれません。英語版Wikipediaの「スタゲイラ」の項によれば、スタゲイラが建設されたのはBC 655年とのことです。


この時代のスタゲイラことはよく分かっていません。この時代はパロス島出身でタソス島に移住した詩人アルキロコスが活躍した時代です。アルキロコスが移住したタソス島はスタゲイラからそれほど離れていません。アルキロコスはそこで荒くれの傭兵たちと一緒に、酒と戦闘の日々を送っていたのでした。主な敵は大陸側の原住民であるトラーキア人たちでした。もっともトラーキア人から見れば、自分たちの土地に植民市を建設するギリシア人は侵略者だったので、それに対して抵抗するのは当たり前のことでした。スタゲイラでもトラーキア人との抗争があったことと想像します。

我が魂、我が魂、癒しがたい不幸によってかき乱された全てのものよ、
今はこちらから、そして今はあちらからと、お前に殺到する多くの敵に
耐え、持ちこたえ、正面に迎えよ、間近な衝突の全てに耐えよ。
ためらうな。そしてお前は勝つべきだ。おおっぴらに勝ち誇ることもなく、
あるいは負けて、家の埋みの中で自分を歎きの中に投げ込むこともなく。
度を越さずに、楽しい物事には喜び、つらいときは悲しめ。
男の人生を支配するリズムを理解せよ。


アルキロコスの詩の断片。英語版のWikipediaのアルキロコスの項より

グラウコスよ、傭兵は戦闘中のみ友達だ。


アルキロコスの詩の断片。「アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」藤縄謙三著 より

スタゲイラ:目次

1:母市アンドロス

スタゲイラは有名な哲学者アリストテレースが生まれた町として知られています。逆に言えばそれ以外の情報はあまり見つかりません。そのような町の歴史について、私のような素人がどこまで書くことが出来るのか、やってみました。スタゲイラはカルキディケー半島に位置しています。カルキディケーの名前は、エウボイアの有力都市カルキスからの人々が主に植民したことに由来しています。しかしながら、スタゲイラはカルキスの植民市ではなく、アンドロス島の植民市でした。アンドロス島はエウボイア島の南にある島です。・・・・


2:植民活動

スタゲイラが建設されたBC 655年頃からその後、スタゲイラにどのようなことが起ったのか調べてみたのですが、なかなか「これは」という情報を見つけることか出来ませんでした。スタゲイラが建設された時代は、小アジアでは騎馬民族キンメリア人がギリシア人都市を襲っていた頃です。しかしキンメリア人は、さすがにスタゲイラまでは襲ってこなかったと思われます。ヘーロドトスの「歴史」はこの頃の小アジアの歴史については詳しく知らせてくれますが、スタゲイラのある地方については教えてくれません。・・・・


3:ペルシアの影

BC 600年頃は七賢人が活躍した時代でした。七賢人とは誰のことをいうのかについては多くの説がありますが、ミーレートスのタレース、アテーナイのソローン、ミュティレーネーのピッタコス、スパルタのキローン、プリエーネーのビアスは、どの説でも七賢人のうちに数えられています。この中でアテーナイのソローンやミュティレーネーのピッタコスは、貴族と平民の対立を緩和するために活躍した政治家でもありました。ミュティレーネーのピッタコスは貴族ではなかったようで、ミュティレーネーの貴族の一員であり・・・・

ポテイダイア(8):開城


(上:ポテイダイアを上空から見たところ)


ポテイダイアの包囲が始まったのはBC 432年の夏でした。それから2年経ったBC 430年の夏もまだ包囲は続いていました。この頃、アテーナイ本国では流行病がはやっていました。流行病はポテイダイア攻略に援軍に来た部隊にも拡がってきて、アテーナイ軍を苦しめました。

同夏、ペリクレースの同僚指揮官であった、ニーキアースの子ハグノーンとクレイニアースの子クレオポンポスは、先の遠征でペリクレースの麾下にあった軍勢を与えられて、ただちにトラーキア地方のカルキディケー人、ならびに当時なお籠城兵の立てこもっていたポテイダイアにたいして兵をすすめた。軍勢は現地に到着すると、ポテイダイアの城壁を破るために攻城装置を用いるなど、あらゆる手段をつくしてこれを攻略することを試みた。しかしなお、城市を奪うことはできず、さまざまの手立ても何ら思わしい成果をあげることがなかった。なぜならば、すでに此の地においても疫病がアテーナイ勢を襲い、兵士の戦闘力を奪ってかれらを散々な窮地に追いやったからである。そしてついには、先頃から現地にいた攻城軍の兵士らまでが、それまで健康であったのに、ハグノーン麾下の後者の兵士らから感染して罹病することとなった。(中略)このような事情のため、ハグノーンはわずか四十日にも満たぬ間に、四千名の重装兵のうち一千五十名を病気のために失って、海路アテーナイに引きかえした。先頃からの攻城将士は現地附近にとどまってポテイダイアの包囲戦を続行した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻2・58 から

このように包囲するアテーナイ側も苦労を舐めていましたが、ポテイダイア側の苦難はさらに大きいものでした。ポテイダイア支援に奔走していたコリントス人アリステウスがアテーナイ側に捕えられて、処刑されたのは、この同じ夏のことでした。これはポテイダイアにとって大きな痛手でした。この年の冬、ポテイダイアはとうとう力がつきてしまいました。

同冬、ポテイダイアの市民はもはや籠城に堪えていくことができなくなった。望みをかけていたペロポネーソス勢のアッティカ侵入もアテーナイ勢にポテイダイアの囲みを解かせることができず、糧食はその前に尽きていた。そして城内では緊迫した食糧事情のためにさまざまの容易ならない事態が生じたが、人が人肉を食するという極端な例さえ事実おこった。ことここに至ってポテイダイア市民は城市を取巻くアテーナイ勢の指揮官、エウリーピデースの子クセノポーン、アリストクレイデースの子ヘスティオド-ロス、カリマコスの子パーノマコスらのもとに、降伏条件の申入れをおこなった。アテーナイ側の指揮官らも、凍寒きびしいこの地域で攻城軍将士がいたく難渋しており、またこの作戦がすでに二千タラントンの国費を費消しつくしているのを知っていたので、ポテイダイア側の申入れを諒承した。そこで、次の条件にもとづいて、開城の談判が成立した。すなわち、ポテイダイアの市民、婦女子、子供、ならびに城内にあった援兵は、外衣一枚を携えて退去すること、ただし婦女子は外衣二枚の携行がゆるされる。また路銀として一定額の銀貨の帯出がゆるされる、というのであった、こうしてポテイダイア市民は休戦の保証をあたえて城市をあとに、カルキディケー地方はじめ、各人それぞれ落ちのびる宛をもとめて去っていった。


トゥーキュディデース著「戦史」巻2・70 から

籠城に疲れたポテイダイアの市民は冬空の下、外衣1枚と一定額のお金の持参を許されて、町を去っていきました。その運命は充分に悲惨なものでしたが、前線から遠く離れた本国のアテーナイ人はさらに苛酷なことを考えていました。

本国のアテーナイ人は、現地の指揮官らが本国の認承なくして条件付降伏を許したことを非難した(かれらは、ポテイダイアに無条件降伏を強いるべきであったと考えたからである)。


同上

現地にいない人間は、悲惨な光景を見ていない分、苛酷な処置に対する躊躇が少なくなるのかもしれません。さて、ポテイダイア陥落後も、アテーナイを中心とするデーロス同盟とスパルタを中心とするペロポネーソス同盟の戦争(ペロポネーソス戦争)は、まだ続きます。そしてこのあと多くの町々が、アテーナイによって、あるいはペロポネーソス勢によって陥落させられます。そこでは、男子全員が処刑されるなど、より厳しい処置がなされることも多々ありました。そういう意味ではポテイダイア市民の場合はまだ幸運なほうだったと思われます。


BC 600年頃にコリントス人によって建設されたポテイダイア、海神ポセイドーンにちなむ名を持つポテイダイアはこうして200年弱の歴史を閉じました。のちに、アテーナイはこの町に自国民を植民させて町を復興させますが、これは別の歴史として扱うべきものでしょう。以上で、私のポテイダイアについての話は終わります。読んで下さり、ありがとうございます。


(右:ポテイダイアのコイン)

ポテイダイア(7):アリステウス

前回お話ししたようにアリステウスはコリントス人で、コリントスからの志願兵を率いてポテイダイアに援軍にやってきたのでした。攻め寄せるアテーナイに対する最初の戦いにおいてアリステウスが計画した作戦は以下のようなものでした。

アリステウスの作戦計画は、アテーナイ勢が進軍してくれば、自分は配下の将士らとともに陸橋地帯の警備を担当し、カルキディケー人をはじめ陸峡の北側の同盟諸兵は(中略)オリュントス城内にて待機する。アテーナイ勢がさらに陸峡地帯に戦列をすすめたとき、オリュントスの伏兵はその背から襲いかかって敵軍を挟撃する、というのであった。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1・62 から

オリュントスはポテイダイアの北側にあった町です。しかし、アテーナイ側はそのようなことを予期して、自分たちに同行しているマケドニアの騎兵隊をオリュントス附近に配置し、オリュントスから援軍が来襲するのを防がせました。やがてポテイダイアのすぐ北で両軍が衝突すると

アリステウス自身が指揮をとっていた一翼とその近辺のコリントス人やその他の精兵は、正面に対する敵陣を突崩し、逃げるを追ってかなりの距離に及んで前進した。しかし残余のポテイダイア・ペロポネーソス諸兵は、アテーナイ勢に押しまくられて城壁内に逃げおちた。


同上

という結果になってしまいました。この時、かねてからの打合せ通りオリュントスから援軍が発進したのですが、これはアテーナイ側についていたマケドニアの騎兵隊が道をふさいだため思うように進軍出来ませんでした。アリステウスは

残りの味方がことごとく敗退したのを見て、ここにいたってオリュントス方面にむかうべきかポテイダイア内に逃げ込むべきか、いずれに進んで突破口を求めればよいかと途方にくれた。結局、配下の将兵を密集体系にまとめて駈足でポテイダイアにむかって敵陣を突破することに決め、岸壁下の荒磯ぞいに、攻撃の雨をくぐって辛うじて血路をひらいた。その間少数の犠牲者をだしたが、大部分のものを救うことができた。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1・63 から


このあとアテーナイはさらに援軍を送り、攻城壁を南北両面に築くとともに海上を軍船によって封鎖しました。

ポテイダイアが壁づめに遮断されるにいたって、アリステウスは、ペロポネーソスからの援軍でも到着するか、望外の変事でも生じない限り、城市を救済できる望みはないとして、次の提案をおこなった。籠城が長びいても糧食が一日でも長く続くように、五百名の守備兵だけをあとに残し、のこりの市民は皆、順風を見はからって海上への脱出を試みる、もちろんかれ自身は残留隊の一人としてとどまる用意がある、と。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1・65 から

しかし、この提案はポテイダイアと同盟軍の指揮官たちに受け入れてもらえませんでした。そこで相談の結果、アリステウスはアテーナイ軍の看視の眼をくぐってポテイダイアから脱出して、外部に支援を求めることになりました。アリステウスは脱出に成功し、周辺で転戦したのちコリントスに戻りました。アリステウスの働きかけもあって、コリントス政府はペロポネーソス同盟諸国にスパルタに集まるように要請し、同盟の会議において、アテーナイへの開戦をスパルタに迫りました。ポテイダイアの件だけが理由ではありませんでしたが、スパルタはついに開戦を決定しました。そして同盟軍はアテーナイのあるアッティカ地方に侵入しました。しかし、アテーナイは籠城して相手にせず、ポテイダイアから兵を撤退させることもしませんでした。その後、アリステウスは、他のペロポネーソス諸国の者と一緒にペルシアの宮廷への使者となりました。これはペルシア王を説得して軍資金を出させるためでした。50年前にはスパルタとアテーナイは協力してペルシアの侵略に立ち向かったというのに、今度はギリシア人同士の争いのために、ペルシアの力を借りようとしたのでした。その途中、彼らはトラーキア王シータルケースを訪問したのですが、この王の息子サドコスはアテーナイのシンパでした。一行が王の許を辞去したあと、王子はそのあとを兵に追わせて一行を逮捕させました。そして彼らをアテーナイ人に引渡したのでした。

こうして使節一行の身柄を手に入れたアテーナイ人は、かれらをアテーナイへ護送した。一行が到着すると、アテーナイ人は、アリステウスが先頃ポテイダイアやトラーキアの叛乱の主謀者であると見做し、もしかれを逃せば又もや旧にもまさる被害をアテーナイに加えるのではないかと恐れた。そこで使節のある者たちが発言を求めたにもかかわらず、裁判に附することもなく即日全員を処刑して、その屍骸を屍体遺棄場に投げ込んだ。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1・67 から

ポテイダイアを救うために奔走したコリントス人アリステウスはこのようにして生涯を終えたのでした。