神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書いていきます。

このブログの説明


このブログは、エーゲ海にあるさまざまな古代ギリシアの都市の創建から、ギリシアの古典期、あるいはローマ帝国の時代までの神話、伝説、逸話などを書いていくものです。それが60歳が近くなって見つけた私の趣味です(もう60は越えましたが)。記事を書く上での主な情報源はヘーロドトスの「歴史」トゥーキュディデースの「戦史」、あと英語版のWikipediaなどです。



目標50都市。現在30都市。
今まで、以下の都市について書きました(リンクを貼ってあります)。


アテーナイやスパルタのような名高い都市は取り上げない方針です。それらの歴史についてはネット上に多く見つかるためです。

リンドス(10):カレース

カレースはBC 280年頃活躍したリンドス出身の彫刻家でした。彼の一番大きな仕事はロドス市の港に太陽神ヘーリオスの巨像を建設したことです。その建設は、マケドニア王デーメートリオスによるロドス市包囲に対してのロドス市の勝利を記念として企画されました。


BC 305年、ロドス市マケドニア王デーメートリオス1世の軍隊によって包囲攻撃を受けていました。デーメートリオスはロドス市に対して、エジプト王プトレマイオス1世との同盟を破棄するように要求し、ロドス市がその要求を拒絶したためにこの攻撃を受けることになりました。

(コインに描かれたデーメートリオス)


これは、有名なアレクサンドロス大王が広大な領域を征服したのち32歳の若さで急逝したために起きた混乱の1つでした。アレクサンドロスは死期の床で自分の後継者について「王たるにふさわしい者に・・・」とのみ遺言して死んでしまったことから、アレクサンドロスの部下たちの間で後継者争いが始まったのでした。後継者を名乗る者の一人、プトレマイオスはエジプトに自分の勢力圏を確立していました。ロドス島はエジプトに近かったこともあって、このプトレマイオス1世の影響下にありました。そのロドス島をプトレマイオスから奪って自分のものにしようとしたのが、やはり後継者を名乗るアンティゴノスです。デーメートリオスはこのアンティゴノスの息子でした。


ロドス市の包囲戦は1年間続きました。やがてエジプト王プトレマイオスの軍隊がロドス島に到着したため休戦条約が結ばれ、デーメートリオスの軍勢は引き上げていきました。デーメートリオスの軍勢の撤退が非常に慌ただしいものだったために、移動攻城櫓を始めいろいろな戦争機械がロドス市周辺に置き去りにされました。これらの戦争機械の巨大でメカニックな様子は、包囲されていたロドス市民らですら、思わず見とれてしまうものだったそうです。デーメートリオスの撤退後、ロドス市民はその勝利を祝い、これらの戦争機械を売り払いました。そしてそれで得たお金でロドス島の主神である太陽神ヘーリオスの巨像をロドス市の港の入口に作ることにしました。この巨像制作の総監督に選ばれたのがリンドスの彫刻家カレースでした。



(左:移動攻城櫓の模型。高さは30mほどあったという。)


高さ32メートルの、当時としては馬鹿でかい巨像の製作はBC 292年に始まり、12年後に完成しました。しかしカレースはその完成を見る前に死去し、建設は同じリンドス出身のラケースという者に引き継がれ完成した、と伝えられています。この伝説にはさらに尾ひれがつきました。そのひとつによれば、カレースが巨像をほぼ完成したときに、ある人がその巨像についてささいな欠陥を指摘したそうです。するとカレースは、(おそらく彼は完璧主義者だったのでしょう)その指摘をすごく気に病んでしまい、とうとう自殺してしまったということです。おそらくこれは作り話でしょう。別の話はもっと作り話くさい話です。ロドス市政府がカレースに最初高さ16mの像の制作を依頼してその費用を尋ねました。彼がその費用を答えると、市政府の役人は、では高さ32mではいくらかかるか、とまた尋ねてきました。カレースは高さ16mの時の2倍の費用を答えてしまいました。そこで高さ32mで市政府とカレースの間に契約がなされました。ところが(数学が得意な方にはすぐ分かることですが)高さが2倍になれば体積は8倍になり、したがって材料も8倍必要になります。この話ではカレースは材料費が8倍になったために破産してしまい、それが原因で自殺したということになっています。リンドスのカレースの生涯については確かなことは分からないようです。


ロドス市の太陽神ヘーリオスの巨像は、ニューヨークの自由の女神像の古代版と考えればよいでしょう。こういう巨大な彫像をギリシア語でコロッソスと言います。これは世界の七不思議の一つに数えられました。

  • ところで「世界の七不思議」という言葉の原語には「不思議」という意味はなく、日本語にする時に誤訳したという話です。もともとは「世界の七必見」という意味だったそうです。


ところがこの七必見(七不思議)の1つであるロドス島の巨像はBC 226年に起きた地震のために膝から折れて倒壊してしまいます。ということは60年にも満たない存在だったことになります。エジプト王プトレマイオス3世は巨像再建のための資金提供を申し出ましたが、ロドス市民は、神ヘーリオスに似せて巨大な彫像を作ったことが、神の怒りに触れたのだろうと考え、この巨像を再建しようとはしませんでした。


リンドスについての私の話は、これで終わりです。読んで下さり、ありがとうございます。

リンドス(9):ロドス市の建設

ペルシア戦争後、ロドスの町々(リンドス、イアーリュソス、カメイロス)はデーロス同盟に参加しました。そのため、BC 431年から始まるペロポネーソス戦争では、これらの町々はアテーナイ側で戦いました。ペロポネーソス戦争というのは、ギリシア諸都市がアテーナイ側とスパルタ側に分かれて戦った戦争です。BC 415年にアテーナイはシケリア(シシリー島)遠征を行ないましたが、その際にロドスの軍勢が参加しています。とはいえ、ここまではロドス島は戦場からは遠く離れていたために、戦争の被害はあまりありませんでした。しかしBC 413年にアテーナイとその同盟国のシケリア遠征軍が壊滅すると事情が変りました。今度は小アジアエーゲ海側に戦場が移り、ロドス島にも戦雲が迫ってきました。


BC 412年、ロドス3都市の富裕者階級はスパルタ側への寝返りを画策しました。これは北のキオス島で起きたのと同じような事情だったのだと推測します(「キオスの反乱(1)(2)を参照下さい。)。つまり、国内の富裕層と一般庶民との間の対立がそれぞれを一方はスパルタ支持に、もう片方をアテーナイ支持に向かわせたのでした。

他方、ペロポネーソス勢は、ロドス島で最も有力な市民から協力の申し入れを受けて、ロドスへ船隊を進める方針を立てた。(中略)こうしてかれらはこの冬が終るのを待たず、ただちにクニドスから発進し、先ず最初に船隊九十四艘をロドス島のカメイロスに接岸させたが、この間の両者の秘密交渉について何も知らされていなかった一般市民は驚き逃げようとした。この町には城壁の備えがなかったことも、市民に恐怖をあたえたとりわけ大きい原因となっていた。しかしその後、ラケダイモーン人らはこれら市民ならびに、リンドスとイエーリュソス両市の市民らの民議会を招集し、説得のすえついにアテーナイから離叛することを承知させた。こうしてロドス島はペロポネーソス側に組することとなったのである。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・44 から

戦史 下 (岩波文庫 青 406-3)

戦史 下 (岩波文庫 青 406-3)

このあとロドス島がどうなったのか、残念ながらトゥーキュディデースは書いていません。全般的な話としては、幸いにもその後戦場はもっと北のヘレースポントス海域(現代のダーダネルス海峡)に移ったので、ロドス島近海での戦いはそれほどなかったようです。



まだ、ペロポネーソス戦争の決着がついていないBC 408年に、リンドス、イアーリュソス、カメイロスの3市は共同で、島の東端に新しい町を建設しました。すでにBC 412年のスパルタ側への寝返りの際、3都市の富裕者階級が事前に合意していたようであることから、富裕者階級ではこのころから共同歩調を取るようになっていたようです。それが進んで、ここに3都市合同が成ったということのようです。この新しい町はこの都市は碁盤の目状に道路を走らせたいわゆるヒッポダモス方式で設計され、ロドス市と名付けられました(ヒッポダモスについては「ミーレートス(26.最終回):復興」を参照下さい。ミーレートスのヒッポダモス自身がこの都市の設計に関わったという伝承もありますが、私は年齢的に無理であろうと考えています)。


ロドス市建設により、リンドスの大部分の市民はロドス市に移住しました。そしてロドス市は繁栄していきました。それでもリンドスは、そこにあるアテーナー・リンディアとヘーラクレース神殿が名高かったために、その重要性を失いませんでした。ロドス市建設から77年後のことですが、有名なアレクサンドロス大王もペルシア王国征服の途中に、アテーナー・リンディアに奉献を行なっています。



アレクサンドロス大王

リンドス(8):アマシス王の奉納物

おそらくクレオブーロスが亡くなったあとのことと思いますが、エジプトのアマシス王(在位:BC570~526)がギリシア各地の神殿に高価な奉納をしたことがありました。この時、リンドスのアテーナー・リンディア(神殿)は石の神像二基と麻製の鎧を受け取りました。

(上:エジプト王アマシス)

アマシスはギリシア各地へもさまざまな奉納品を献納したが、キュレネへは黄金を被せたアテナ像と自分の肖像画を、リンドスのアテナへは石の神像二基と見事な麻製の鎧を、サモスのヘラへは自分の姿を写した木像二基を奉納した。この木像は大神殿の戸口の背後に安置され、私の時代まで残っていた。
 アマシスがサモスへ奉納品を送ったのは、アイアケスの子ポリュクラテスと自分との間の客遇関係によるものであったが、リンドスへ奉納したのはそのような客遇関係によるのではなく、リンドスのアテナ神殿が、アイギュプトスの息子たちを逃れてこの地に立ち寄ったダナオスの娘たちによって建立されたという伝承があったからにほかならない。


ヘロドトス著「歴史」巻2、182 から

アマシス王がこのようなことをしたのは、出来るだけ多くのギリシア都市を自分の味方につけたかったからだと思います。アマシス王はペルシアの建国の初めからペルシアに対抗してきましたが、ペルシアはどんどん周辺諸国を併合していき、エジプト侵攻も時間の問題になっていました。ロドス島はエジプトに傭兵を出していましたので、奉納品を運んで来たエジプトの役人たちは傭兵のリクルートをも行ったかもしれません。リンドスの人の傭兵の記録を見つけることは出来ませんでしたが、同じロドス島の都市イアーリュソスの人が傭兵として、当時はまだ王ではなく将軍であったアマシスの軍隊で働いていたことは記録に残っています。


さて、麻製の鎧については。アマシス王がスパルタにも同じような鎧を贈っており、ヘーロドトスがそれについて描写していますので、そこからアテーナー・リンディアに奉納された鎧がどんなものだったかが分かります。

この鎧は多数の模様を織り込んだ麻製のもので、黄金と木綿の糸で刺繍が施されていた。ことに驚くべきことは、織糸の一本一本がきわめて細いにもかかわらず、実に三百六十本の細糸を撚り合わせて作られていることで、しかもその細糸が一本残らずよく目に見えるのである。アマシスがリンドスのアテナに奉納した鎧もこれと同種のものである。


ヘロドトス著「歴史」巻3、47 から


アマシス王は奉納品によってエジプトの富をギリシア人に印象付け、その上で傭兵の募集や同盟の提案をしたのでしょう。当時のエジプトは繁栄しておりました。

エジプトはアマシス王の治世下に、空前の反映を示したといわれる。ナイルは大地に、大地は人間に豊かな収穫をもたらし、人の住む町の数はエジプト国内で二万に達したという。


ヘロドトス著「歴史」巻2、177 から


しかし、情勢はアマシス王の期待するようには展開しませんでした。当時、東エーゲ海で勢力を持っていたサモスの僭主ポリュクラテースはアマシスとの同盟を破棄してペルシア側につきました。また傭兵の中でも、リンドスと同じドーリス系の都市ハリカルナッソス出身の傭兵隊長パネースが、エジプトから脱走してペルシア側につきました。幸いなことにペルシアのエジプト侵攻が始まる前にアマシスは死去しますが、エジプトがペルシアによって滅ぼされるのはアマシスの死の翌年(BC 525年)でした。


リンドスを含むロドス島がペルシアの支配下に入った次第をヘーロドトスは記していません。いつロドス島がペルシアの支配下に入ったか、はっきりした記述を見つけることが出来ませんでした。おそらくは、エジプト征服後まもなくのことではないかと想像します。その後の歴史的事件、たとえばBC 499~493年のイオーニアの反乱、BC 490年とBC 480年のペルシア戦争にリンドスはあまり巻き込まれずに済んだようです。

リンドス(7):クレオブーロス

リンドスにドーリス人がやってきたのがBC 10世紀頃とされています。それから400年間は、例によって伝承がほとんどありません(私はそこが知りたいのですが)。BC 6世紀より前のある時点に、リンドスは近隣のドーリス系都市と同盟を結びました。これがヘクサポリス(6都市)という同盟で、その加盟都市は、まずロドス島の3都市、リンドス、イアーリュソス、カメイロスであり、そのほかコース島のコースと、あとは大陸側の都市であるハリカルナッソスとクニドスです。

(上:ドーリスの6都市同盟の都市)


これらの都市はトリオピオンというクニドスの近くのアポローン神殿を崇拝し、この神殿のために競技を奉納し、他の都市をこの聖域に入れないようにしました。のちにハリカルナッソスがこの同盟から除名された話は「ハリカルナッソス(4):リュディアとペルシアへの服属」でご紹介しました。


BC 7世紀の初め頃、リンドスは他の都市と共同でシケリア島(イタリアのシシリー島)にゲラを建設しました。

シュラクーサイの建国から45年目には、ロドスからアンティペーモス、クレータからエウティーモスがそれぞれの植民団をひきいて渡来、協力してゲラを建設した。その首都にはゲラス河にちなんでゲラの名が与えられたが、最初に城壁が築かれて、現在もその町がある地域は、リンディオイと呼ばれている。


トゥーキュディデース「戦史 巻6・4」より

戦史 下 (岩波文庫 青 406-3)

戦史 下 (岩波文庫 青 406-3)

上の引用では「ロドスから」としか書いてありませんが、町の古い地域が「リンディオイ(=リンドス人)」と呼ばれていることから、リンドス人が主体の植民団だったと思います。


BC 6世紀に活躍したリンドス人にクレオブーロスがいます。彼は七賢人の一人に数えられることもあります。七賢人として必ず名前が挙がるのはミーレートスのターレスと、アテーナイのソローンとミュティレーネーのピッタコスですが、だいたい彼らの同時代人だったとするとクレオブーロスは、小アジアがリュディア王国に支配されていた頃に活躍していた、ということになります。

クレオブゥロスはエウアゴラスの子で、リンドスの人。(中略)またある人たちは、彼の家系はヘラクレスまで遡られるし、彼は体力においても美しさにおいても衆に抜きんでており、エジプトの哲学にも通じていたとしている。(中略)彼はまた、かつてダナオスによって建てられたアテナ女神の神殿を新しく立て直したと言われている。


ディオゲネス・ラエルティオス著「ギリシア哲学者列伝」 加来彰俊訳 の第1巻第6章「クレオブゥロス」より




(左:クレオブーロスの像)


彼はリンドスの王であったという人もいますし、僭主だったという人もいます。アテーナー神殿(アテーナー・リンディア)を新しく立て直したということですから、いずれにせよリンドスの有力者であったに違いありません。家系がヘーラクレースまで遡ることが出来る、というところに神話の時代からのつながりをわずかに感じさせます。スパルタの2つの王家(スパルタには常時、王が2人いるのです)の両方ともヘーラクレースの子孫と伝えられていました。そういうことを考えると、ヘーラクレースの子孫であるクレオブーロスがリンドスの王家の一員であった可能性もありそうです。


クレオブーロスは賢人と呼ばれていましたが、その知恵というのは人生訓のような種類の知恵でした。彼の教訓には私から見てうなずけるものが多いです。
「身体をよく鍛錬すること」 ごもっともです。
「話し好きな者となるよりも聞くことの好きな者となること」 現代でもよく言われます。
「無学な者であるよりは学問好きとなること」 ごもっとも。
「不吉な言葉は控えること」 はい。大切ですね。
「徳には親しくし、悪徳にはよそよそしくすること」 ごもっとも。
「不正を避けること」 当然です。
「幸運なときにも傲慢にならず、困窮に陥っても卑屈にならぬこと。運命の転変に気高く耐えるすべを知ること」 大切ですが、なかなか難しいことです。


クレオブーロスの生涯については、ほとんど何も分かっていません。ディオゲネース・ラーエルティオスは、クレオブーロスが70歳で亡くなったと伝えています。

彼は70年の生涯を送って高齢で死んだ。そして彼の墓には次の言葉が刻まれていた。

身まかりし賢者クレオブゥロスを、
海を誇りとするこの祖国リンドスは悼む。


同上

リンドス(6):ドーリス人の到来

トレーポレモス亡きあと、ロドス島はその妻ポリュクソーによって支配されました。彼女は戦死した夫の葬礼競技を催しました。その後、夫が死んだのもトロイア戦争が原因である、そしてこの戦争の原因はヘレネーであると考え、ヘレネーを殺害する機会を伺っていました。後年、ヘレネーがスパルタを追い出されてポリュクソーを頼って来た時に、ポリュクソーはヘレネーを表向きは歓迎しましたが、ひそかに侍女たちにエリーニュス(復讐の女神たち)の格好をさせて、ヘレネーを脅させました。恐ろしくなったヘレネーは木に首を吊って死んでしまいました。ロドス人たちはヘレネーのためにヘレネー・デンドリーティス(木のヘレネー)の神殿を建てました。「(4):アテーナー・リンディア(リンドスのアテーナー神殿)」でご紹介したアテーナー・リンディアに奉納されていたヘレネーの首飾りというのは、おそらくこの物語に関係があったのでしょう。


これはロドス島特有の伝説で、もっと広く信じられた伝説ではヘレネーはスパルタを追い出されてはいないことになっています。


さらにその後のロドス島やリンドスの物語を見つけることは出来ませんでした。そこでロドス島を離れて、ギリシア世界を大局的にみた次の記事で代用します。歴史家トゥーキュディデースは次のように書いています。

トロイア戦争後にいたっても、まだギリシアでは国を離れるもの、国を建てる者がつづいたために、平和のうちに国力を充実させることができなかった。その訳は、トロイアからのギリシア勢の帰還がおくれたことによって、広範囲な社会的変動が生じ、ほとんど全てのポリスでは内乱が起り、またその内乱によって国を追われた者たちがあらたに国を建てる、という事態がくりかえされたためである。また、現在のボイオーティア人の祖先たちは、もとはアルネーに住居していたが、トロイア陥落後60年目に、テッサリア人に圧迫されて故地をあとに、今のボイオーティア、古くはカドメイアといわれた地方に住みついた。また80年後には、ドーリス人がヘーラクレースの後裔らとともに、ペロポネーソス半島を占領した。こうして長年ののち、ようやくギリシアは永続性のある平和をとりもどした。そしてもはや住民の駆逐がおこなわれなくなってから、植民活動を開始した。


トゥーキュディデース「戦史 巻1 12」より

戦史〈上〉 (岩波文庫)

戦史〈上〉 (岩波文庫)

また、トゥーキュディデースは「戦史」巻7・57に「ロドス兵は本来アルゴスからの植民の末でありながら」と書いています。アルゴスはペロポネーソス半島にある都市です。アルゴスがドーリス人に占領されたことは、次の記事からも分かります。

ペロポネーソスを征服した後に、祖神ゼウスの三つの祭壇を築き、その上で犠牲を捧げ、諸都市を籤引きにした。そこで最初の籤がアルゴス、第二がラケダイモーン(=スパルタのこと)、第三がメッセーネーであった。水瓶を持ち来って、おのおのが籤を投入することにした。そこでテーメノスとアリストデーモスの子プロクレースとエウリュステネースは石を投じたが、クレスポンテースはメッセネーを得たいと思って土塊を投げ入れた(テーメノスもアリストデーモスもクレスポンテースもペーラクレースの子孫)。これは溶けるから二つの籤が必ず現われなければならなかった。第一にテーメノスのが、第二にアリストデーモスの子供らのが引かれたので、クレスポンテースはメッセーネーを得た。


アポロドーロス「ギリシア神話」第2巻 8 高津春繁訳 より

ギリシア神話 (岩波文庫)

ギリシア神話 (岩波文庫)

これらの記事から、トロイア戦争後にドーリス人のペロポネーソス半島への侵入があり、アルゴスもドーリス人に占領され、アルゴスを占領したドーリス人の中からロドス島に植民した者たちが出た、ということが分かります。


ロドス島へのドーリス人の到来について伝説がないか探していたところ、高津春繁著「ギリシアローマ神話辞典」に以下の伝説を見つけました。

イーピクロス
ロドス島に侵入して、フェニキア人を追い払ったドーリス人の将。フェニキア人はわずかにイアリューソス市の城を保つのみとなり、その将パラントスは、烏が黒く、城中の水槽に魚がいないかぎりは城を保ち得るであろうとの神託を得ていたが、敵に召使が買収され、あるいはパラントスの娘がイーピクロスに恋して、彼の命により石膏で翼を白く塗った烏を飛ばせ、水槽に魚を放ったので、パラントスは降伏した。


高津春繁著「ギリシアローマ神話辞典」より

ギリシア・ローマ神話辞典 (1960年)

ギリシア・ローマ神話辞典 (1960年)

この伝説では、ドーリス人がやって来る前のロドス島にはフェニキア人が住んでいたことになっています。トゥーキュディデースギリシア人以前にはフェニキア人とカーリア人がエーゲ海の島々に住んでいたと書いていますので、このことはあり得ることです。しかし、考古学ではトロイア戦争があったと推定される時代のロドス島はミュケーナイ文明というギリシア先史文明の影響下にあったとされています。そうすると、ロドス島の住民は、ギリシア人→フェニキア人→ギリシア人、と変わったのでしょうか? 私にはよく分かりません。

リンドス(5):トレーポレモス

さてトロイア戦争の時に、リンドスを含むロドス島はギリシア側に立って兵を出しました。それを率いるのはヘーラクレースの子といわれるトレーポレモスでした。

 またトレーポレモスはヘーラクレースの子で、性(さが)勇ましく丈高く、
ロドス島より九艘の船を率いて来た、この気象のすぐれたロドス人らは
三つの部族にわかたれて、ロドスの島一帯にならび住まうもの、
リンドスとイアーリュソスと、白亜に富めるカメイロスと(の三邑)に。


ホメーロスイーリアス」第2書 呉茂一訳 より


 さて、どうしてトレーポレモスはロドス島の領主に納まっているのでしょうか? それについてホメーロスは以下のように語ります。

さてトレーポレモスはというと、立派なつくりの館の中で
成人すると、たちまち父方の 伯父を殺してしまった、
もう年寄りかけたリキュムニオスとて 軍神アレースが伴侶(とも)なる者、
そこで直ぐ、船をいくつも造らせてから、者どもをあまた呼び寄せ、
祖国(くに)を逃れて海上に船出をしたのも、勇士ヘーラクレースの
他の息子ら、また孫たちが 仇を討とうと押しかけたため。


ホメーロスイーリアス」第2書 呉茂一訳 より

トレーポレモスはもともとはペロポネーソス半島のアルゴスに住んでいました。ある時、細かい事情は分からないのですが伯父(と上記の引用にはありますが、どうも祖父の弟らしい)のリキュムニオスを殺してしまったのでした。そのため、他のヘーラクレースの息子たちが復讐のためにトレーポレモスを襲うことになり、それから逃れるためにトレーポレモスは船で逃げたのでした。逃げたのはトレーポレモス一人ではなく妻と、郎党をつれての大移動でした。

ところで彼は所々を流浪し さまざまな苦労を重ねつ、ロドスに来てから、
人々と、部族にしたがい、三部に分れて住まい付き、またゼウスの
いつくしみにも預っていたが、神々や人間どもを見そなわしたもう
神、クロノスの御子は また莫大な富を 彼らに注ぎ与えた。


ホメーロスイーリアス」第2書 呉茂一訳 より

そしてあちこちを転々とした後にロドス島について、3つの町に分かれて住んだということです。上の引用を読むと、それまでロドスにはリンドス、イアーリュソス、カメイロスの町はなくて、彼らがそれらの町を建設したかのように読めます。そうすると太陽神ヘーリオスの孫たちがこれらの町々を作ったという伝承とどのように整合を取ったらよいのでしょうか? 要するにロドス島の3市の創建の伝承にはヘーリアダイによるものとトレーポレモスによるものの2種類の伝承がある、ということのようです。


さてトロイア戦争にこの3つの町から兵を率いたトレーポレモスですが、戦場でリュキア軍の大将サルペードーンと一騎打ちをすることになります。トレーポレモスはヘーラクレースの子であり、ヘーラクレースの父親は大神ゼウスですから、トレーポレモスはゼウスの孫です。一方、リュキアのサルペードーンはゼウスの息子でした。リュキア軍はトロイア側に援軍として参加していたのでした。

その間にきびしい運命(さだめ)は、ヘーラクレースの子で、勇ましく、丈の高い
トレーポレモスを 神にひとしいサルペードーンへ向い立たせた。
さてこの二人がたがいに進み寄り、いよいよ間近となった折しも――
この両人とも、雲を集めるゼウス大神の、息子に片やは孫であったが――


ホメーロスイーリアス」第5書 呉茂一訳 より

両者は槍を投げ合います。

 こなたのトレーポレモスも
とねりこの槍をふり上げた、そして同時に、二人の手から
長い手槍が奔り飛んだ、サルペードーンは、対手の頸の真中へと
打ち当てたので、その痛々しい穂先が ずっぷりつきとおった、
して、敵のまなこをすっかりと 暗黒の夜が蔽ってしまった。
トレーポレポスの方はというと、(対手(あいて)の)左の腿太(ももた)へ長い手槍を
うち当てたれば、はやりにはやるその穂先は、骨をかすめて
衝き入ったが、父なる神が まだまだと、禍いを防いでやられた。


ホメーロスイーリアス」第5書 呉茂一訳 より

サルペードーンは傷を負いましたが、トレーポレモスは致命傷を負い、討たれてしまいました。