マケドニアのアレクサンドロス大王がペルシアの征服を開始したのはBC 345年で、マウソロスの死から18年後のことでした。彼はペルシアを征服したのちインドにまでその軍を進めて広大な征服地を確立したのですが、32歳の若さで亡くなりました。ペルシアの征服を開始したBC 345年には彼はまだ20歳でした。ヘレースポントス海峡(今のダーダネルス海峡)を渡って小アジアに上陸し、ペルシア軍と最初にぶつかったのがBC 334年のグラウニコス川の戦いで、彼とマケドニア・ギシリア連合軍はペルシアの精鋭部隊を相手に快勝しました(彼を含むマケドニア人たちは、自分たちはギリシア人だと思っていました。また、マケドニアの王家は神話の英雄ヘーラクレースの子孫であると称していました)。この後、アレクサンドロスとその軍は南下し、リュディアにおけるペルシア支配の根拠地サルディス(かつてのリュディア王国の首都)を陥落させ、エペソス、プリエーネー、ミーレートス、ハリカルナッソス(カーリア王国の首都)を占領していきました。
アレクサンドロスは、グラウニコス川での勝利を神々に感謝するために神殿を奉献することを思いつきました。エペソスに着いた時に、エペソスのランドマークともいうべきアルテミス神殿がまだ再建途中であることを知って、アレクサンドロスはエペソス市民に対して「アレクサンドロスが奉献した」という文字を神殿に刻ませてくれるならば再建の資金を出そう、と提案しました。ある伝説によれば、エペソスのアルテミス神殿が放火によって焼失したのは、アレクサンドロスが生まれたまさにその日だったということです(「エペソス(10):ヘロストラトス」参照)。本当にその日だったのかどうかは怪しいところですが、どちらも同じ年に起きたことは確かなようです。そういう意味でこの神殿はアレクサンドロスに縁がないわけでもなかったのです。しかし、エペソスの人々は自分たちの力でこの神殿を再建したいと考えていたので、アレクサンドロスの提案をやんわりと断りました。
次にアレクサンドロスがプリエーネーを占領した(あるいはペルシアから解放した)際に、今度はプリエーネー市民に対してアテーナーの神殿を寄贈することを提案しました。プリエーネーの人々はこれを受け入れました。そこでアレクサンドロスはプリエーネーのピュティオスに建築を依頼しました。こうして建設されたのがプリエーネーのアテーナー・ポリアス神殿(=町を守るアテーナーの神殿)でした。その大理石の側壁には、アレクサンドロスがこの神殿の資金を出したことを示す碑文が刻まれました。この碑文は現存していて、現在、大英博物館で展示されています。ところでこの神殿は、ピュティオスが生きている間には完成せず、建設は長期間の中断を何度もはさみ、その時々の支配者の後援を受けては少しずつ進み、初代ローマ皇帝アウグストゥスの治世にようやく完成したのでした。つまり、完成までに300年以上の時が流れたのでした。ローマ帝国が財政を支援したため、神格化されたアウグストゥスの名前もまた、神殿に刻まれました。アレクサンドロス大王と初代ローマ皇帝アウグストゥスの援助を受け、名前を刻まれたとは、何とも幸運な神殿でした。
(上:アテーナー・ポリアス神殿)
このようにアテーナー・ポリアス神殿の完成には長い年月がかかったのですが、新しいプリエーネーの町の建設は迅速に進んだようです。この神殿の建設をきっかけとして、BC 4世紀にはさまざまな建物が作られ、人々は古いプリエーネーの町から移住してきました。多くの公共の建物はアレクサンドロスによってではなく、町の有力者たちの私費で建設され、その人々の名前が建物に刻まれました。
この都市の遺跡は、古代ギリシアの都市全体の現存するもっとも壮観な例であると一般に認められています。時による荒廃を除けば、それは完全な状態で残っています。それは少なくとも 18 世紀から研究されてきました。この都市は、ミュカレーにある近くの採石場から採れた大理石と、屋根や床などに使用された木材で建設されました。公共エリアは急斜面に沿って格子状に配置されており、水路システムによって排水されています。給水システムと下水道システムはそのまま残っています。建物の土台や、舗装された道路、階段、ドア枠の一部、記念碑、壁、テラスが、倒れた柱や石塊の間にいたるところで見られます。木材は一切残っていません。都市は上の方に、ミュカレー山から伸びる急斜面の基部まで広がっています。狭い小道が上のアクロポリスに通じています。
アレクサンドロスの死亡した頃からそれほど経たない頃にプリエーネーの歴史家ミュロンが活躍しています。彼はBC 8世紀のメッセーネー戦争の歴史を書いています。
プリエーネーはローマ帝国の時代まで存続していました。初代ローマ皇帝アウグストゥスの頃の、つまり紀元前後の頃の、碑文がプリエーネーから出土しています。それはアシア属州の総督パウルス・ファビウス・マクシムスが公布した勅令で、属州の暦をローマの暦に合わせること、そしてアウグストゥスの誕生日を年の始めにすることを布告したものです。この頃のプリエーネーの町はアシア属州に属していました。それは、内乱の1世紀を過ぎて、ようやくPax Romana(ローマの平和)が地中海を囲む全ての地域に確立された頃でした。プリエーネーもその平和な世界の一部であったことだと思います。
これでプリエーネーの話を終わりにします。