神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

サモトラーケー:目次

1:はじめに

サモトラーケー島は、エーゲ海の北東の隅にある島です。この北の大陸側はトラーキアといい、古代にはトラーキア人が住んでいました。この島は古くはサモス島と呼ばれていましたが、南にあるサモス島と区別するために「トラーキアのサモス」を意味するサモトラーケーという名で呼ばれるようになったといいます。ストラボーンはこの島がサモスと呼ばれた理由を、ある地理学者の説として2つ挙げています。その地理学者によると、このトラーキアの島は、その高さからサモスと呼ばれていました。というのは・・・・


2:カドモス

サモトラーケーからトロイアの王家が発祥したことをお話ししましたが、サモトラーケーはギリシア本土のテーバイとも神話上の関係があります。テーバイがフェニキアの王子カドモスによって作られたという伝説は「テーラ(3):エウローペーを探すカドモス」でご紹介しました。右:エウローペーと、牡牛に化けたゼウス このカドモスは、神々の王ゼウスがさらっていった妹のエウローペーを探してエーゲ海域を探し回っていたのですが、その途上、サモトラーケーにもやってきたのだと、サモトラーケーでの伝説は伝えます。・・・・


3:ペルシア戦争まで

BC 8世紀にギリシア人がサモトラーケーにやってきて町を作ったあと、サモトラーケーの町にはどんなことがあったでしょうか? これについてはあまり伝わっていないようです。ただし、島から北の大陸側のトラーキアに領土を拡げていったということは推測出来ます。のちのことになりますが、BC 480年にペルシアの大軍がこのトラーキア地方を西に向って進軍した時に、サモトラーケー人の作った砦があったことをヘーロドトスは記しています。さて(ペルシア王)クセルクセスはドリスコスを発して・・・・


4:ヘーロドトスの密儀入会

サモトラーケーの町の事績についてはこれ以上あまり話すことを持ち合わせていません。それで話をサモトラーケーの秘儀のほうに持っていきたいと思います。ペルシア戦争が終わったのち、歴史家のヘーロドトスはペルシア戦争に至るまでと、ペルシア戦争の経緯を書き残すために、ギリシア世界のみならずエジプトやペルシアにも足を延ばして調査をしました。ヘーロドトスはその著作の中で、自分がサモトラーケーの密儀に参加したことをほのめかしています。カベイロイの密儀はサモトラケ人がペラスゴイ人から・・・・


5:カベイロイ(1)

前回ご紹介した、高津春繫氏の「ギリシアローマ神話辞典」の「カベイロイ」の項の記述の、根拠になるものを探していたところ、ネット上にキングス・カレッジ・ロンドンのヒュー・ボーデン教授の「名無しの神々」という報告(訳:佐藤 昇)という資料を見つけました。その中にロドスのアポロドーロス作の「アルゴナウティカ(=アルゴー号の冒険物語)」に付けられた古代の注のことが出ていました。この注は、カベイロイについてかなりの情報を提供しています。
まずヘレニズム時代に・・・・
6:カベイロイ(2)

次に、高津春繫氏の「ギリシアローマ神話辞典」の「カベイロイ」の項の記述にあった「前5世紀以後航海者の保護神とも考えられ、この点から彼らはディオスクーロイと同一視されるにいたった。」という点について検討してみます。ディオスクーロイというのは星座のふたご座で知られるギリシア神話に登場する双子の英雄カストールとポリュデウケースのことです。彼らは船乗りたちの守護神と考えられていました。カベイロイがディオスクーロイと同一視された、ということは、カベイロイは2柱である、と少なくとも・・・・


7:入信の儀式

サモトラーケーの秘儀で礼拝を受けていた神々をカベイロイと呼ばず、偉大なる神々と呼んだほうがよさそうですが、では偉大なる神々とは何なのかと言われると私には答がありません。なので、もうこれ以上サモトラーケーの秘儀の神々について書かないほうがよいように思います。神話によればサモトラーケーの秘儀は、イーアシオーンとダルダノスの兄弟が創始したということです。ダルダノスは、トロイアに移り住んだのちトロイア人にこの密儀を教えたともいいます(イーアシオーンとダルダノスについては・・・・


8:ペラスゴイ人(1)

話はサモトラーケーから離れてしまいますが、ペラスゴイ人とは何者なのか、自分なりに追及してみたいと思います。もちろん、専門家の間でもペラスゴイ人がどのような民族なのかいまだに分かってはいない問題なので、私の想定など根拠はほとんどないことでしょう。まずホメーロスの「イーリアス」には、トロイアに味方する者たちとしてペラスゴイ人が登場します。またヒッポトオスは槍に名だたるペラスゴイのうからやからを 率いて来た、土くれの沃(こ)えたラリッサに住居する 者らであるが、・・・・


9:ペラスゴイ人(2)

このようにペラスゴイ人はルウィ語を話す人々だ、と断言したいところですが、気になることもあります。それは、レームノス島から出土したギリシア語ではない碑文の存在です。この碑文の文字はギリシアのアルファベットですが、書かれている言葉は明らかにギリシア語ではありませんでした。現代の学者はこの言語をレームノス語と名付けました。一方、ヘーロドトスはレームノス島にペラスゴイ人が住んでいたことを記しているので、ペラスゴイ人はレームノス語を話していたと想定したくなります。しかし・・・・


10:サモトラケのニケ

サモトラーケーの町自体は、歴史においてあまり活躍するところがありませんでしたが、偉大なる神々の聖地の名声はギリシア世界を越えて広まりました。そして、この聖地では、ヘレニズム時代、ローマ時代を通じて建造物が増えていきました。有名な彫像サモトラケのニケ(サモトラーケーのニーケー)もこの聖域に建てられたもので、ヘレニズム時代に作られたものでした。ニケ(長音を省略しないならば「ニーケー」)というのは古代のギリシア語で「勝利」の意味です。つまりこの彫像は勝利を擬人化した・・・・