神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

キオス:目次

1:キオス創建

キオス島は日本で言えば佐渡島ぐらいの大きさで、日本によくあるような、起伏に富んだ島です。この島は、ホメーロス風讃歌の「アポローンへの讃歌」で「海に浮かぶ島々の中でもひときわ豊饒なキオス」と称えられています。イーダーの蔭なす山の峰々、スキューロス、ポーカイア、アウトカネーの険しい峰、ひと住むによいインブロス、靄(もや)たちこめたレームノス、アイオロスの子マカルの座なる神々しきレスボス、海に浮かぶ島々の中でもひときわ豊饒なキオス、アポローンへの讃歌、岩波文庫 四つのギリシャ神話(「ホメーロス讃歌」)より・・・・


2:オーリーオーン

キオスを神話の時代までさかのぼると、オーリーオーンが登場します。星座のオリオン座のオリオンのことです。本当は、オーリーオーンと長音で発音します。オーリーオーンは、かなり昔から星座として認識されていました。神話のオーリーオーンは巨人の狩人で、水の上を歩くことが出来る、と言われていました。これは星座のオリオンを船から見た情景から来ているのではないでしょうか? オリオン座の三ツ星はほぼ天の赤道上にあるので、真東から上り真西に沈みます。こういうところから古代の船乗りたちが海で方角を見つけるのにオリオン座が使われた・・・・


3:初期のキオス

キオス建設以後の話に戻ります。例によってこの頃の歴史についてはほとんど分かりません。英語版Wikipediaの「キオス」の項には、少なくとも紀元前11世紀までに、島は王によって支配され、その後の貴族制(または恐らく僭主制)の統治への移行は、次の4世紀のどこかで発生しました。とあります。私はこの記述にどれほどの根拠があるのか疑問に思います。一般に古代ギリシアの多くの都市は最初は王制で、次に貴族制になった。そしてその中の一部の都市は、僭主制や民主制も経験した、とよく説明されるのですが、本当のところはどうなのでしょうか?・・・・


4:ホメーロス(1)

キオスは、現代においてでも、ホメーロスがキオスの出身である、と主張し、旅行者に対してそれをアピールしています。ホメーロスの出身地として有力なスミュルナが現代ではトルコ領になっているので、ギリシア国内ではキオスが、ホメーロスの出身地として最も有力、という事情もあるようです。キオスがホメーロスの出身地であるとする根拠の1つは、かつてキオス島にはホメーロスの子孫であると称するホメーリダイという一族がいたことです。彼らは、ホメーロス叙事詩の吟唱を職業にしてきました。これが、根拠の1つ目です。もうひとつは・・・・


5:ホメーロス(2)

では、ホメーロスはキオスの人ではないのでしょうか? しかし、そうとも断言出来ないのが悩ましいところです。高津春繁氏の「ホメーロスの英雄叙事詩」によれば、BC 8世紀のイオーニアの詩人セーモニデースの詩の中で「キオスの人のいとも麗しき言葉」として、以下の詩行を引用しているといいます。まことに、木々の葉の世のさまこそ、人間の世の姿とかわらぬ。そして、これはホメーロスの「イーリアス」第6書の146行の言葉と同じなのです。戦場で敵味方として出会ったギリシア方のディオメーデースと、トロイア方のグラウコス。互いに相手を・・・・


6:ペルシアの脅威

キオスは創建時に王制を執り、その後、貴族制に移っていったらしいのですが、英語版のWikipediaによれば、その貴族制もBC 6世紀には、より民主的な国制に似た国制を採用するようになったということです。それはアテーナイのソローンが作った国制に似たものだったそうです。つまりは一種の財産制だったのでしょう。BC 6世紀にキオス政府はアテーナイのソローンが作ったのと同じような国制を採用し、のちに選挙による議会とダマルコイと呼ばれる人々の判事を伴う民主的な要素を作った。英語版Wikipediaの「キオス」の項より・・・・


7:ペルシアへの服属

さて、キオスと大陸の距離は、一番近いところで6kmぐらいです。当時のペルシア人は陸の民であって海軍を持っていなかったので、この程度の隔たりであっても、キオスは安心していることが出来たのです。そうこうしているうちに、ペルシアは小アジアエーゲ海沿岸のギリシア都市を一つずつ、征服していきました。やがて、ペルシアから遁れたポーカイアの人々がキオスに亡命してきました。彼らはハルバコス率いるペルシア軍に町を包囲されたのですが、何とか休戦を手に入れて、その休戦期間に持てるだけの財産を詰め込んで、町から脱出したのでした。・・・・


8:イオーニアの反乱

キオスがペルシアの支配下に入ってから40年ほどたった頃、キオスの僭主はストラッティスという者でした。もちろん、ペルシアの後ろ盾で僭主になった者です。彼はペルシア王ダーレイオスの命を受けて他のペルシア支配下ギリシア諸都市の軍勢とともに、キオスの海軍を率いてペルシアのスキュティア遠征に従軍しました。スキュティアというのは、今のドナウ河の北側、ウクライナあたりの地方です。この遠征については「ミーレートス(16):ドナウ河の船橋」と「ミーレートス(17):ダーレイオスの退却」でご紹介しました。・・・・


9:ラデーの海戦

イオーニアの反乱は6年続きました。最初はイオーニア側が優勢で・・・・と書きたいところですが、実際のところ戦況は最初から五分五分だったようです。後半はペルシア側が態勢を立て直したために、イオーニア側が押されてきました。やがて反乱の中心地ミーレートスにペルシアの艦隊が迫る事態になりました。・・・・ミレトスには海陸からの大軍が迫っていた。ペルシア軍の諸将が合流して共同戦線を張り、ミレトス以外の諸都市は二の次にして、ひたすらミレトスに向って進撃していたのである。海軍のうち最も戦意盛んであったのはフェニキア人であったが・・・・


10:ヒスティアイオス

ラデーの海戦はイオーニア側の敗北となり、ミーレートスはとうとう陥落します。敗軍を収容したキオスは、やがて来るであろうペルシア軍に対する準備を急ぎました。ところが、この時になって、新たな厄介事がキオスに降りかかります。ミーレートスの元僭主ヒスティアイオスは、「キオス(8):イオーニアの反乱」に登場した人物で、船橋を破壊から守ってペルシア王ダーレイオスの窮地を救ったのがこの人物でした。このヒスティアイオスがキオスを攻撃してきたのです。いったいなぜでしょうか? ヘーロドトスの「歴史」を読んでも・・・・


11:ペルシア戦争

キオスは再びペルシアの支配下に戻り、その後起ったBC 490年の1回目のペルシア戦争と、その10年後のBC 480年の2回目のペルシア戦争には、キオスは戦艦を派遣し、同じ民族のギリシア勢を敵として戦わなければなりませんでした。BC 480年の2回目のペルシア戦争はペルシア王クセルクセースが自ら軍を率いるもので、1回目の侵攻より大規模な軍勢でしたが、アテーナイ沖のサラミースの海戦でギリシア側に敗北します。クセルクセース王は小アジアのサルディスに逃げ帰りますが、将軍のマルドニオスがギリシア北部のテッサリアに冬営して・・・・


12:オイノピデース

ミュカレーの戦いの1年後のBC 478年にデーロス同盟が結成されます。アテーナイ人は、(中略)同盟諸国がアテーナイ側に要請したため、指揮権を(スパルタから)うけ継ぎ、その第一段階としてペルシア人追討のために、どの加盟国が軍資金、どの国が軍船を供給するべきかをとりきめた。その表向きの理由は、ペルシア王の領土に破壊行為を加え、報復する、ということであった。そのためにはじめてギリシア同盟財務官というアテーナイ人のための官職が設けられ、この職にある者たちが同盟年賦金を収納することとなった・・・・


13:ヒポクラテース

ヒポクラテースはBC 470年頃に生れたキオス出身の幾何学者で、現代まで残っている業績のひとつはヒポクラテースの三日月 (Lune of Hippocrates)というものです。それは何かというと、下の図でピンク色で示した図形のことです。彼はこの図形の面積が、青色の三角形の面積に等しいことを証明しました。この結果は、曲線だけで囲まれた図形の面積を求めたということで、当時の幾何学者たちに注目されました。というのは、当時、円と同じ面積の正方形を、直定規とコンパスを使って作図することが未解決の問題として重要視されていたためです。・・・・


14:キオスの反乱(1)

BC 478年に発足したデーロス同盟はアテーナイが中心になって組織した同盟で、この同盟においてキオスの位置づけは年賦金を免除される代わりに軍船を同盟に提供するというもので、他の加盟国より優遇された位置づけにありました。デーロス同盟は当初は、ペルシアの侵略に対抗するための同盟でしたが、徐々にアテーナイが他国を支配するための組織に変質していきました。内政干渉を強めるアテーナイに対して、いろいろな国(=都市国家)が反乱を起こしましたが、それらはアテーナイと同盟軍によって鎮圧され、その結果アテーナイの支配はますます強固になっていきました。・・・・


15:キオスの反乱(2)

BC 412年夏、キオスで離叛を計画する数名が大陸側のコーリュコス岬に出向き、そこに来ていたスパルタの先遣隊5隻の指揮官2名と打合せをしました。そして、自分たちが近くキオスの評議会を開催することを話し、スパルタの先遣隊に、そのタイミングで、公式の前触れなしにキオスに入港することを要請しました。このため5隻のスパルタの軍艦が突如としてキオス港に現われることになったのでした。(手前がキオスの町、遠方が昔のエリュトライ(現トルコ領)。その間は25km程度。コーリュコス岬は画面の右外側に位置する。)大多数の一般市民は・・・・


16:籠城

前回の最後で、アテーナイ軍がキオスに上陸し、キオス軍はそれを迎え撃ったのですが、3連敗してキオス市の城壁の中に撤退し、籠城することになったのでした。この状況のもと、一部の市民の間で、キオスをもう一度アテーナイ側に寝返らせようとする動きが出てきました。キオスの当局はこの動きを察知して、スパルタの海軍司令であるアステュオコスとともに相談しました。そしてこの動きを穏便に止めるために彼らは人質を取ることを検討し始めました。それから数カ月のち、スパルタ人テーリメネースが率いるペロポネーソス勢の増援部隊が・・・・


17:包囲の解除

キオスに反乱を勧めた「カルキデウスとアルキビアデース」はその頃どうしていたのでしょうか? アテーナイ軍に海陸を包囲され籠城を余儀なくされているキオスを見て、何かしようとしたのでしょうか? 「(15):キオスの反乱(2)」でご紹介したトゥーキュディデースの記述を再度ここに載せます。大多数の一般市民はこれを見て驚愕狼狽に陥ったが、貴族派はかねてよりこれを期して、ちょうどこの時に評議会が開催されているように仕組んであった。その場に臨んだ(スパルタの指揮官の)カルキデウスとアルキビアデースは論をつくして渡来の主旨を説明し・・・・


18:イオーン

ペロポネーソス戦争の後期に起きたキオスの反乱についてご紹介しましたが、そのネタ元のトゥーキュデュデースの「戦史」には、キオス人の名前が出てきません。それでキオスを主体にしてご紹介しようとすると、個人名での叙述ではなく、「キオスの貴族派の人々は」とか「キオスの当局は」とかいう叙述になってしまい、迫力に欠けたものになってしまいました。「戦史」ではアテーナイとスパルタの人々の個人名はよく出てくるのですが、キオスについては、トゥーキュディデースは個人名まで調査しなかった(あるいは、調査出来なかった)ようです。唯一の例外は・・・・


19:キオス・ワイン

前回のお話でキオス産のワインが登場しましたが、キオスのワインは名産として知られていたようです。私はこのブログ「神話と歴史の間のエーゲ海」でいろいろな都市の歴史を調べているうちに、いろいろな都市について、ワインで有名、という記述を見つけるので、だんだんと、それらが本当のところそれほど有名だったのか疑問に思うようになりました。コースのワインも有名だったとされていますし、サモスのワインも、タソスのワインも有名だったとされています。キオスのワインもまた、有名だということですが、では一体エーゲ海全体としては・・・・