神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

クニドス:目次

1:はじめに

クニドスはエーゲ海小アジア側にあったドーリス系の都市です。クニドスの町の位置は、大陸と、トリオピオンという名の島との境のところにあり、島はわずかなつなぎ目で大陸とつながっており、クニドスはまさにそのつなぎ目のところにありました。彼らの住む地域は海に面し、トリオピオンの名で呼ばれる地方がそれであるが、(東は)ビュバッソスの半島に起る。クニドスの領土は僅かな地域を除いてことごとく海に囲まれ、北をケラメイコス湾、南をシュメおよびロドスの海域が限っている・・・・


2:ペルシアの侵攻

クニドスが創建されてから、リュディアの支配下に入るまでの歴史は分かりませんでした。また、リュディアの支配下に入った事情についても明らかではありません。ヘーロドトスはリュディアとイオーニア系都市との攻防については記録しているものの、ドーリス系都市との攻防については記録していません。ヘーロドトスの出身がドーリス系のハリカルナッソスであったため、何か書けない事情があったのかもしれません。ヘーロドトスはすでに征服されたあとの状態を次のように・・・・


3:ペルシアとアテーナイ

さて、ペルシアの支配下に入って20年ぐらい経った頃、ペルシア王ダーレイオスがイタリア南部のギリシア系都市に送った偵察の者たちを、タラス(現在のターラント)から亡命していたギロスという者が助けたことがありました。クロトンを発ったペルシア人たちは、イアピュギアへ漂着し、ここで奴隷の身に落とされていたところ、タラスから亡命していたギロスなる者がこれを救い、ダレイオスの許へ帰してやった。ダレイオスはこの働きに対して望みのものを与えようと・・・・


4:ペロポネーソス戦争

BC 431年、ペロポネーソス戦争が始まりました。これはアテーナイを中心とするデーロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネーソス同盟との間の戦争でした。クニドスはスパルタの植民地でありながら、デーロス同盟の一員としてアテーナイに味方しました。しかし、BC 413年にアテーナイとその同盟軍がシシリー島(当時の言い方では「シケリア島」)で大敗すると、アテーナイのエーゲ海東岸の支配はにわかに揺らぎ始めます。そこにペルシアの太守ティサペルネースから・・・・


5:クテーシアース

ペロポネーソス戦争はスパルタの勝利に終わります(BC 404)。クニドスはスパルタの支配下に置かれます。この頃のクニドス出身の人物としては、ペルシア王アルタクセルクセース2世の侍医をしていたクテーシアースという人物がいます。ペロポネーソス戦争が終結したまさにこの年、BC 404年にアルタクセルクセース2世は即位したのですが、彼の弟キューロスは自分のほうが兄よりも優秀であると自負し、また母親からもより可愛がられていたので、この王位継承に不満を持っていました。・・・・


6:エウドクソス

クテーシアースがペルシアの宮廷で活躍していた頃に生まれたと思われるクニドス人の中にエウドクソスがいます。エウドクソスの父アイスキネースは星を見ることに興味を持っていたそうで、幼いエウドクソスはその影響を受けました。彼は成人すると天文学者になったのでした。そして、各地で学問を修めたのちクニドスに戻り、そこに天文台を建てました。そして、人々に天文学と気象学と神学を教えました。天文学と気象学が一緒になっていることに違和感があるかもしれません。・・・・


7:「クニドスのアプロディーテー」と「クニドスのデーメーテール」

クニドスのアプロディーテーというのは、クニドスのアプロティーテーの神殿の中にあった大理石の神像のことです。古代ギリシア・ローマ世界で有名な彫像でしたが、残念ながら現存していません。その代わり古代に作られたいくつかのコピーが現存しています。神像の作者はBC 4世紀中頃に活躍したアテーナイの有名な彫刻家プラクシテレースでした。BC 4世紀中頃というと前回ご紹介したクニドスの天文学者エウドクソスが生涯を終えた頃です。AD 1世紀のローマの政治家・・・・


8:クニドス派の医学

クニドスから北に向って海を越えて20kmぐらいのところにあるコース島は、医聖と呼ばれたヒポクラテースの出身地であり、古代ギリシアの医療の中心地として有名でした。ここでの医療のやり方はコース派と呼ばれていました。この学派とは別のクニドス派と呼ばれる医療の学派がクニドスにありました。今回、クニドスを取り上げるにあたってクニドス派についても書こうと思って調べたのですが、コース派の対抗者としてクニドス派の名前と簡単な説明だけが出て来るのが大部分で・・・・


9:ソーストラトス

アレクサンドロス大王が急死したのち、彼の将軍だったプトレマイオス(1世)はエジプトを自分の勢力下に置くことに成功し、エジプト王に即位しました。彼の治世に首都アレクサンドリアの沖に高さ134mほどの、古代としては巨大な灯台が建設されました。なぜ高層の灯台が必要だったかと言えば、アレクサンドリア付近はナイル河のデルタ地帯であり、海上の船舶が遠くから港の位置を知るために地形を利用しようにも、山というものがなかったからです。かつて、この灯台には以下のような碑文が・・・・