神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

クノッソス:目次

1:エウローペー

クレータ島はエーゲ海で一番大きな島で、この島より北側がエーゲ海、南側がリビア海と呼ばれています。つまりエーゲ海の南の境になっているのがクレータ島です。クノッソスはこのクレータ島の北岸の真ん中あたりに位置しています。伝説によればクノッソスにはミーノースという権勢のある王がかつて存在し、ミーノースはクレータ島全域のみならずエーゲ海のほとんどを支配していたということです。ギリシア神話ではミーノースは神々の王ゼウスの息子であり、立法者であり、死んでからは冥界の裁判官・・・・


2:ヨーロッパという名前の由来

BC 5世紀の歴史家で「歴史の父」と呼ばれるヘーロドトスは、このエウローペーの伝説を妙に脱神話化した話を伝えています。名前は伝わらないが、なにがしかのギリシア人が、フェニキアテュロスへ侵入し、王の娘エウロペを掠め去ったというのである。このギリシア人というのは、クレタ人であったかと思われる・・・・ヘロドトス著「歴史」巻1、2 から テュロスというのはフェニキアの都市の名前です。フェニキアも古典期のギリシアと同じように都市国家を営んでいました。フェニキアという単独の国家が・・・・


3:ミーノース王

ミーノースには、偉大な統治者であったという評判と、それとは矛盾するような、暴君であったという評判の2つが伝えられています。そして話としてまとまって伝わっているのは後者のほうで、それというのもそれがアテーナイに伝わっていた伝説であったためであり、アテーナイの文化が後世に大きな影響を与えたので、後者のほうが優勢になってしまったのでした。AD 1~2世紀に活躍した著作家プルータルコスは、そのあたりの事情を以下のように語っています。声(=弁舌)と詩を持つ国(=アテーナイのこと)を敵にまわすのは・・・・


4:ミーノータウロス

ミーノースがクレータ島の王に即位する時にそれに異議を唱える人々がいました。その異議を出されたのが、海の神ポセイドーンを祭る儀式の時だったので、ミーノースは、自分がどれだけ神々に愛されているかを人々に示すために、ポセイドーン神に向って、犠牲に捧げる雄牛を与えたまえ、と祈りました。するとポセイドーン神はその祈りを聞こし召して海中から一頭のとてつもなく立派な雄牛を出現させたのでした。(神に捧げる犠牲をその神自身にねだるというのは、どうかと思いますが。)・・・・


5:アリアドネー

ともかくも船はクノッソスに到着し、テーセウスとアテーナイの6名の少年たち、アテーナイの7名の少女たちはミーノースに促されて上陸しました。彼らはこのあと監禁され、明日は迷宮に追い込まれることになっていました。迷宮の名前はラビュリントスといいました。ミーノースの娘アリアドネーは宮殿のバルコニーからこの少年少女たちを見て、テーセウスの姿にくぎ付けになりました。彼女は一目ぼれしてしまったのです。そして、あの若さに輝くテーセウスが明日はミーノータウロスの餌食になる運命であることに思い当たると・・・・


6:トロイア戦争まで

ミーノース王はミーノータウロスの死とアテーナイの少年少女たちの脱走を聞いて怒りました。やがてダイダロスアリアドネーに入れ知恵したことを突き止めると、ミーノースはダイダロスと彼の息子イーカロスをラビュリントスに閉じ込めたのでした。それに対してダイダロスは天才的な工芸家なので、鳥の羽根を集めて自分と息子の腕に蜜ロウで固定して、人工の翼にしました。そして二人はこれを使って空を飛んでラビュリントスを脱出しました。息子のイーカロスは空を飛ぶことに夢中になっていました。・・・・


7:イードメネウス

イードメネウスは、トロイア戦争を描いたホメーロス作の「イーリアス」では、いろいろな場面で活躍しています。彼はここではピュロス王ネストールほど高齢ではないが、それでも白髪の交じる、もう若くはない人物として描かれています。まずは、戦場において彼が自分の氏素性を名乗る場面を紹介します。イードメネウスは 大音声で呼ばいあげ、大層もなく得意で言うよう、「デーイポボスよ、いかさま、私らが同格だとでもいえたものかな、(中略)それなら自身私に 面と対(むか)って立ったがよい、・・・・


8:疫病と飢饉

クノッソスに帰国したのちのイードメネウスのことが、BC 1世紀のローマの詩人ヴェルギリウスの作った叙事詩アエネーイス」にわずかに述べられています。そのとき噂が飛んでいて、将イードメネウスは国人に、クレータの島を追い出され、クレータの岸を立ち去って、その家に敵(=イードメネウス)はもう居らず、あとに残ったその場所は、われら(=アイネイアースを中心とするトロイアからの落人たち)が来るをただ待つと――ヴェルギリウスアエネーイス」第3巻 泉井久之助訳 より・・・・


9:民族の変遷

では、ヘーロドトスの伝えるこの伝承の全体を見ていきましょう。それはミノスがダイダロスの行方を求めて、今日シケリアと呼ばれているシカニアにゆき、ここで横死を遂げたと伝えられるからである。後になってクレタ人はある神のお告げに促されて、ポリクネとプライソス両市の住民を除く全島民が大挙してシカニアに赴き、カミコスの町を五年にわたって包囲攻撃したという。(中略)しかし結局占領することができず、食糧不足に悩まされては踏み留まることもかなわず、企図を放棄して撤退したという。・・・・


10:ドーリス人の来歴

アイトーリア人は西ロクリス人と国境を接しています。そしてオイタ山に住むアイニス人はエピクネーミディアのロクリア人と国境を接しています。そしてその中間にいるのがドーリス人です。さて、これらのドーリス人は、彼らの言によればすべてのドーリス人の母市であったというテトラポリス(=四つの町)に住んでいた人々であり、彼らが住んでいた町はエリーネオス、ボイオス、ピンドス、キューティニオンでした。ピンドスはエリーネオスの上にあります。そして同じ名前の川がそこを流れ・・・・


11:ドーリス人のクレータ島征服

ドーリス人がクレータ島を征服してからのクノッソスの情報はほとんどありません。考古学から言えることは、クレータ島全体を支配するような広域の政治権力がこの時代には消滅し、代わりにもっと小さな範囲を支配する権力が島中に乱立したらしい、ということです。ドーリス人のクレータ島到来について何か記述が残っていないか調べたところ、以下の2つの記事を見つけました。ひとつはホメーロスの「オデュッセイアー」で、そこではドーリス人がすでにクレータ島に住んでいることを述べています。これはすでに「(3):ミーノース王」で紹介しました。・・・・


12:リュクールゴスのクレータ島訪問

前回少し登場したスパルタ人リュクールゴスは半ば伝説的な人物であり、彼の生きていた時代を特定することは難しいですが、プルータルコスの記事を元に述べてみます。ドーリス人がスパルタを占拠した時にそこの王となったのがアリストデーモスですが、この説には異論もあり、アリストデーモスの子供のプロクレースとエウリュステネースという双子が一緒に王位についた、ともいいます。スパルタには彼らを始祖としてプロクレース家とエウリュステネース家という2つの王家が代々王位を伝えてきました。つまり・・・・


13:エピメニデース(1)

BC 640年頃のクノッソスにエピメニデースという名の男の子がいました。エピメニデスは、テオポンポスその他多くの人たちが述べているところによると、パイスティオスの子であった。(中略)彼はクレタ人でクノソスの生まれであった。(中略)彼はある日、父親の言いつけで羊を探すために原へやられたが、昼頃、道からそれてある洞穴のなかで眠りこみ、そのまま57年間眠りつづけた。そのあと、彼は起き上がって羊を探しに行ったが、自分ではほんの短時間眠ったつもりだった。しかし羊は見つからないまま原へ行ってみると・・・・


14:エピメニデース(2)

エピメニデースはアテーナイからクノッソスに帰って間もなくしてから死んだということですが、彼は非常に長命だったということです。彼は帰国して間もなく死んだのであるが、プレゴンが「長命について」のなかで述べているところによると、そのとき彼は157歳であったという。しかしクレタ人の話では、彼は299歳まで生きたことになっている。またコロポンのクセノパネスが伝え聞いたこととして述べているところによると、彼は154歳まで生きったことになっている。ディオゲネース・ラーエルティオス「ギリシア哲学者列伝」の第1巻・・・・


15:ペルシア戦争

さて、時代をBC 480年のペルシアによる2回目のギリシア本土侵攻の頃まで進めます。この時ペルシア側はギリシア本土全体を服属させるつもりで侵攻してきました。これに対して多くのギリシア都市が抵抗するつもりでいました。彼らはギリシア本土のどこかに集まって、善後策を協議しました。さてギリシア人の内、祖国の前途を憂い愛国の念に燃える者たちは一か所に会同し、互いに意見を交し盟約を誓い合ったが、協議の結果彼らにとって何を措いても果たすべき緊急事は、彼ら相互間の敵対関係や戦争を終結させ・・・・


16:ディクテオン洞窟

プラトーンの対話編「法律」は、次のように始まります。アテナイからの客人 ねえ、あなた方、神さまですか、それとも誰か人間なのですか、あなた方のお国で法律制定の名誉をになっておられるのは。クレイニアス 神さまです、あなた、それは神さまですよ、いちばん正しい言い方をすればね、わたしたちの国ではゼウスですが、この方の出身地ラケダイモン(スパルタ)では、人びとの説では、アポロンだと思います、そうではありませんか。メギロス そうです。アテナイからの客人 するとあなたは、ホメロスにならって・・・・


17:プラトーンが再構成した先史時代(1):大洪水。

プラトーンの対話編「法律」から当時(BC 350年頃)のクノッソスの姿が少し見える箇所は、以下のところでしょう。クレイニアス (中略)ほかでもありませんが、クレテの大部分が、ある植民を行なおうとくわだてており、事の世話を、クノソスの人びとに委託しているのです。ところが、そのクノソス政府がまた、わたしのほか九人の者に、それを委託したのです。同時に政府はまた、法律についても、もしこのクノソスの法律でわたしたちに気にいるものがあれば、それを取り入れて制定するように、また、たとえ他国の法律でも・・・・


18:プラトーンが再構成した先史時代(2): 山麓に住む人々

プラトーンは、大洪水を生き延びた人々の子孫は技術をあまり持っていなかったし、小集団に分かれて暮らしていたと論じます。アテナイからの客人 そこでわたしたちは、こんなふうに言ってもよいのではないでしょうか。こういう仕かたで生活を送ってきた多くの世代は、洪水以前の世代や今日の世代にくらべて、きっとその技術もつたなく、知識も乏しいものであったにちがいない。他の技術もさることながら、(中略)戦争の技術に関しても、乏しいものであったにちがいない。しかし他方、それだけにいっそう人が好く・・・・


19:プラトーンが再構成した先史時代(3): トロイア戦争

プラトーントロイアの建設の伝説を取り上げ、それをもとに、人びとが山麓から平野に下りて来た時代があったとしています。アテナイからの客人 それはホメロスが、二番目につづき、三番目のものはこのようにして生じたと言いながら、言い及んでいたものです。彼は、こんなふうにうたっています。彼(ダルダノス)がダルダニアの都(=トロイアのこと)を建設せしは、言葉を話す人間たちの都いまだ平野にきずかれず、人びとがなお、泉豊かなるイデの山麓に住みなしていた頃のこと(中略)・・・・


20:プラトーンが再構成した先史時代(4): 再びドーリス人について

話は、トロイア戦争後に進みます。アテナイからの客人 きっとそれらの都市が、かのイリオン(トロイア)に向かって軍を勧めたのでしょうね、それも、おそらくは海路をも使って、その頃はすでに、誰もが、恐れることなく海を使っていたのですから。クレイニアス そのように思われます。アテナイからの客人 そしてアカイア人は、ほぼ10年とどまって、トロイアを荒廃させました。クレイニアス そのとおりです。アテナイからの客人 ところで、そのイリオンの包囲されていた期間が10年ともなると・・・・


21:ミノア人

ここからは視点を変えて、考古学によって古代のクノッソスやクレータ島についてどのようなことが分かってきたかを見ていきます。クレータ島の先史時代の文明を考古学ではミノア文明と呼んでいます。この名前は、伝説上のクレータ王ミーノースの名前に由来しています。さて、クノッソス宮殿の一番古い部分はBC 1900年頃に建てられたと推定されています。ここから見ていきましょう。BC 1900年頃にクノッソスの最初の宮殿が建てられる。BC 1700年以前のいつかの時点で地震による宮殿崩壊。その後復旧。・・・・


22:ミノア文明の盛期

・BC 1628年頃にテーラ島の大噴火。・BC 1600年頃。ミノア文明の盛期。・BC 1450年頃、クレータ島の各地の宮殿が破壊され、クノッソスの宮殿だけが残る。たぶん、この頃ミュケーナイ文明のギリシア人がクノッソス宮殿を占拠。・BC 1350年頃。クノッソス宮殿の崩壊。BC 1628年頃にテーラ島の大噴火がありました。テーラ島はクレータ島の北100km以上離れたところにある島です。この時の大噴火は、島のほとんどを吹き飛ばす大爆発を伴いました。その爆発の前には丸い1つの島だったのが、大爆発の後、中心部が陥没して・・・・


23:ミノアの女神たち

クノッソスを始めとするミノア文明の遺跡では、宗教に関する遺物が多く発掘されているのですが、線文字Aが解読されていないために、神名を始めさまざまなことが不明のままです。それでもミノアの宗教では女神たちが重要な位置を占めていたことが推測されています。のちのギリシア神話の中にも、クレータから来た女神や、神的な女性の話が散見されます。その一例がブリトマルティスという女神です。ブリトマルティス クレータの女神。ソーリーヌスによれば、この名はクレータ語で「甘美な乙女」の意。・・・・


24:歴史と伝説の狭間

BC 1450年頃、クレータ島の各地の宮殿が破壊され、クノッソスの宮殿だけが残る。たぶん、この頃ミュケーナイ文明のギリシア人がクノッソス宮殿を占拠。BC 1350年頃。クノッソス宮殿の崩壊 BC 1200年頃。トロイア戦争(あったとすれば)。ギリシア本土の宮殿が次々と破壊され、放棄される。BC 1450年頃にミノア文明の繁栄は終わりました。この頃、クレータ島の各地の宮殿が破壊され、クノッソス宮殿だけが残りました。この時に本土からミュケーナイ文明のギリシア人が攻めてきてクレータ島を占領した、と推定されていますが、詳しい経緯は分かっていません。・・・・


25:ペリシテ人

ギリシア本土では、BC 1200年頃から考古学的な遺物が少ない暗黒時代に入ります。しかし、クノッソスのあるクレータ島ではそれより150年も早いBC 1350年頃に暗黒時代に入ってしまうのでした。この間いったい何が起きたのか、皆目わかりません。そこでいろいろ調べていくうちに、聖書に関係する記事にクレータ島の様子の片鱗を見たような気がしました。聖書には古代イスラエル人に敵対する民族としてペリシテ人と言う民族が登場します。この民族がどうもクレータ島からパレスチナガザ地区に・・・・


26:BC 1200年の謎

BC 1200年からあとの数百年のクノッソスの様子はやはり分かりません。この頃になるとギリシア本土でも次々と宮殿が破壊され、ミュケーナイ文明は滅亡してしまいました。この滅亡の原因はいまだに明らかになっていません。かつては北からドーリス人が侵入してきたことが原因とされていましたが、現代ではその説に反対する説も有力になっています。かといってどれかの説が定説になったわけでもありません。古代ギリシアの伝説で知られるように、ミュケーナイ・ギリシアの終焉をもたらしたドーリス人の侵入という仮説は・・・・


27:最終回

ここから先については私の力不足のため、書くことが出来なくなりました。もっとちゃんとした終わり方にしたかったのですが・・・・。このブログでは古代都市を50個取り上げることにしていたので、この「クノッソス」で終わりです。私はかなり若い頃から日本の神話にもギリシアの神話にも興味を持ってきました。日本の神話が天皇家を軸にしていることから歴史に自然に接続されていくのに対して、(日本で紹介されている)ギリシア神話ではトロイア戦争の次の世代あたりで物語が途切れてしまうのが、昔から残念に思っていました。・・・・