神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

レームノス島(ミュリーナとヘーパイスティア):目次

1:ヘーパイストス

レームノス島はエーゲ海の東の北側に浮かぶ島です。今は休火山になっていますが、ギリシア古典期には活火山の島でした。そのため、レームノス島は、ギリシア神話における火と鍛冶の神であるヘーパイストスと関連づけられています。一説には、この火山モスコロスこそヘーパイストスの仕事場(のひとつ)であるということです。レームノス島にはギリシア古典期にヘーパスティアとミュリーナの2つの町がありました。・・・・


2:カベイロイ

レームノス島では、ヘーパイストスと関連してカベイロイに対する信仰もありました。このカベイロイという言葉は複数形であり、単数はカベイロスと言います。ですので、カベイロイはカベイロスたちということになります。カベイロイはヘーパイストスの子ということになっていますが、その姿かたちはよく分かりません。それどころかカベイロイは何人いるのか(神様ですから何柱というべきでしょう)すら、よく分かっていないのです。・・・・


3:トアース

神話の世界でレームノス島の王として名前が挙がっているのがトアースです。彼はブドウ酒の神ディオニューソスとその妃アリアドネーの子供でした。アリアドネーが人間の女の身でどうしてディオニューソスの妃になったのかということを説明する説話は一定していません。アリアドネーはクレータ島のクノッソスの王ミーノースの娘であり、父であるミーノースに反抗して、恋してしまったアテーナイの英雄テーセウスを助けて、テーセウスと一緒にアテーナイに行くはずでした。通常流布されている伝説では、2人がナクソス島に着いた時にテーセウスが・・・・


4:ヒュプシピュレー

アルゴー号というのは船の名前です。アルゴー号を率いるイアーソーンは、黒海東岸にあるコルキスの地(今のジョージア)を目指していました。それは、そこにある黄金の羊の毛皮を奪うためでした。そしてそれは、不当に奪われた自分の王位を奪い返すために必要なものなのでした。というのは、イアーソーンの父アイソーンはイオールコスの王でしたが弟のペリアースに王位を奪われてしまい、その後成人したイアーソーンがペリアースに王位の返還を求めたところ、ペリアースはコルキスにある黄金の羊の毛皮を持って来たならば渡そう・・・・


5:トロイア戦争

エウネーオスがレームノスの王の時にトロイア戦争が起こります。エウネーオスは戦いには加わりませんでしたが、ギリシア方を援助していました。イーリアスではエウネーオスの名は以下のように登場します。折ふしレームノス島から 葡萄酒を運んで来た船が 浜にかかった、夥しい船、それらはイエーソーンの子のエウネーオスが 遣わしたもの、ヒュプシピュレーが、兵(つわもの)らの牧長(まきおさ)イエーソーンにより 儲けた子である。上の引用では、エウネーオスをイエーソーンとヒュプシピュレーの子としています。・・・・


6:ピロクテーテース

トロイア戦争に参加したピロクテーテースは、テッサリアのマグネシアのメートーネーという町の王でした。ピロクテーテースがレームノス島に置き去りにされた話は古いものらしく、すでにホメーロスの「イーリアス」に、以下のように語られています。さてその次はメートーネーや タウマキエーに住まう人々 またメリボイアや、岩の多いオリゾーンを領する者ら、その人々に大将たるは 弓矢のわざに秀でたるピロクテーテースで 船七艘を率いて来る。その各々に乗り組んでいる漕ぎ手の数は五十人、しかもみな弓矢のわざに優れたる 戦さのてだれ。・・・・


7:ペラスゴイ人の来襲

ソーポクレースの悲劇「ピロクテーテース」は良く出来たお話ですが、レームノス島が無人島になっている点がつじつまが合いません。レームノス島に人がいるのならば、困っているピロクテーテースを助けたことでしょう。実際、そういう異伝も伝わっています。それによると、ピロクテーテースはレームノス島のヘーパイストス神の神官たちにから治療を受けた、ということです。特にヘーパイストス神の子であるピュリオスによって傷が治療されたので、喜んだピロクテーテースはピュリオスに弓術を授けたそうです。ピロクテーテースの弓の力もあり、トロイアは陥落します。・・・・


8:レームノス的

レームノス島にやってきたペラスゴイ人たちは、アテーナイから追い出されたのでした。そしてアテーナイ人に報復しようとしていました。(しかし、アテーナイとレームノス島は直線距離で240kmぐらいあります。すごい根性ですね。この距離を当時の船で行くのにどのくらいかかったでしょうか? トゥーキュディデースの「戦史」の記事の中に、アテーナイからレスボス島に行くのに「順風にさいわいされてアテーナイを出てから三日目にミュティレーネーに」着いたという記事があります。アテーナイからレスボス島へ行くのと・・・・


9:レームノス石碑

話は変わってずっと現代に近い1885年のこと、レームノス島のカミニアという町の近くにある教会の壁に奇妙な石碑が組み込まれているのが発見されました。その石碑には古代のギリシア文字で文章らしきものが刻まれていましたが、それはギリシア語ではなく、それまで知られていたどの言語でもなかったのです。(カミニアの位置)この石碑に刻まれている文章の言語はレームノス語と呼ばれるようになりました。この言語は今に至るまで完全には解読されていませんが、1998年にドイツの言語学者ヘルムート・リックスによって突破口が開かれました。・・・・


10:ミルティアデース

さて、レームノス島のペラスゴイ人たちがアテーナイ人に対して「北風を受けた船がアテーナイからわがレームノスまで一日で達することができた暁には、レームノスを引き渡そう」と捨て台詞を吐いたところで伝説は途絶えてしまいます。このあとは伝説のない時代が500年ぐらい続きます。その後、ペルシアが勢力を伸ばしてきて、レームノス島もその攻撃にさらされます。それはBC 512年頃のことと思われます。オタネスが、この時メガバソスの後継者として軍隊の指揮をとることになったのであるが、彼はビュザンティオンとカルケドンを占領し、・・・・


11:ペルシア戦争

BC 498年、イオーニアの反乱が始まります。英語版のWikipediaの「ミルティアデース」の項によれば、ミルティアデースもこの反乱に参加したということです。しかしヘーロドトスにはそのことは出てきません。いずれにしろ、イオーニアの反乱が終息したのちのBC 492年にはペルシア支配下フェニキア海軍がミルティアデースのいるケルソネーソスに侵攻します。ミルティアデースは逃げました。ある限りの資産を5隻の三段橈船に満載し、家族も乗り込ませて、アテーナイ目指して逃げたのです。途中でフェニキア海軍に襲われ、ミルティアデースの長男が・・・・