神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

アンドロス:目次

1:神話時代

ギリシア本土の東側に長くのびる形であるのがエウボイア島です。このエウボイア島から南に連なるのがアンドロス島、テーノス島、ミュコノス島です。ミュコノス島のすぐ西にある小さな島が、歴史時代にアポローン神の聖地として栄えていたデーロス島です。神話によれば、アンドロス島の初代の王は島と同じ名前のアンドロスという人物で、デーロス島の初代の王アニオスの息子とされています。アンドロスの母親の名前はよく分かりません。アニオスの父親は神アポローンで、アポローン自身が彼をデーロス島の王にして・・・・


2:ティツィアーノの「アンドロス島のバッカス祭」

前回 もし、アンドロス島の人々がディオニューソス神を強く信仰していたのであれば、その由来となる神話・伝説のたぐいがあるのではないかと思い、探したのですが、今のところ見つかっていません。 と書いたのですが、今回それらしきものを見つけました。ルネッサンス期の有名な画家ティツィアーノの絵の中に「アンドロス島バッカス祭」というのがあるということです。バッカスというのは、ディオニューソス神の異名です。ウィキペディアによれば、これはローマ時代のAD 3世紀のギリシア著作家ピロストラトスの・・・・


3:神話と歴史の間の闇の長さ

いつものことですが、いろいろな町の神話伝説をご紹介していくと、あるところでその後をたどることが出来なくなり、歴史が見えてくるところまで時代を下らなければならなくなります。つまり、神話と歴史の間には断層があります。いわゆる暗黒時代というものです。アンドロスにまつわる話も、次はBC 700年頃のレーラントス戦争の話まで飛ばざるを得ません。では、神話から歴史まで連続するような伝説はどこかにないでしょうか?(アンドロスではなくても) 実はスパルタの王家の系譜が神話時代から歴史時代まで続いて・・・・


4:レーラントス戦争

BC 8世紀頃、ギリシア世界の中で一番繁栄していたのは、アンドロス島の北にあるエウボイア島でした。その中でもエウボイアのまん中あたりにある2つの都市、カルキスとエレトリアが繫栄していました。地理学者ストラボーンは、この2都市のひとつ、エレトリアがかつてアンドロス島を支配していた、と記しています。エレトリア人がかつて持っていた勢力については、彼らがかつてアルテミス・アマリュンティアの神殿に装備された柱がそれを証明しています。その柱には、エレトリア人たちが3000人の重武装した兵士、600人の騎手、そして60人の戦車・・・・


5:植民活動

エレトリアから独立したアンドロスはBC 650年頃、カルキディケー半島に4つの植民市を建設しました。それらはアカントス、スタゲイラ、アルギロス、サネーという町です。英語版のWikipediaの「アカントス」の項によれば、アカントスを建設した際に、アンドロス人と地元のカルキディケー人(彼らは元々カルキスからの植民者でした)の間で、アカントスの所有を巡って争いがあったということをプルータルコスが伝えているということです。ただ、私にはこのWikipediaの英語の文面が少し理解しづらく、・・・・


6:ペルシア戦争

この時のナクソス侵攻は、ミーレートスの僭主アリスタゴラスとペルシアの高官アルタプレネスが仲たがいしたために失敗しました。しかし、BC 490年にはペルシアは態勢を立て直してナクソスに侵攻し、これを占領しました。その後、ペルシアの軍勢はエーゲ海を北上し、(ギリシア人にとっての聖地であるデーロス島には手を出しませんでしたが、そのすぐ西隣の)レーナイア島に停泊し、さらに北上してエウボイア島の南端の町カリュストスを攻撃しました。ヘーロドトスの記述にはアンドロス島の名前は・・・・


7:その後のアンドロス

ギリシア勢がペルシア勢をエーゲ海から駆逐すると、アンドロスとしてもギリシア諸都市と和解せざるを得なくなりました。アテーナイが対ペルシア軍事同盟であるデーロス同盟を組織すると、アンドロスはこれに参加しました。しかし、BC 477 アンドロスを危険視したアテーナイはアンドロスに植民市を建設し、アンドロスはこれを受け入れざるを得ませんでした。通常のタイプの植民市は、母市との関係があまり強くないのですが、これはクレルーキアという植民市のタイプで、この植民団はアテーナイの市民権を保持したまま・・・・