神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

アブデーラ:目次

1:神話的な起源

アブデーラはBC 544年にテオース人によって建設されたということなので、かなり歴史としてしっかりしている時代に起源をもっています。そういう意味では神話と歴史の間の対象になる町ではないとも言えます。それでもこの町にも神話にさかのぼった起源説話が作られていますので、それをご紹介します。(アブデーラと、アブデーラに関連する都市の位置) ヘーラクレースの12の功業の1つ「ディオメーデースの馬を連れて来ること」の中にアブデーラの起源説話があります。このディオメーデースの馬というのはただの馬ではなくて、人間を食べて生きているという・・・・


2:歴史的な起源

ヘーロドトスによればBC 545年のペルシアによるイオーニア諸都市攻略のなかでテオースの全住民はテオースを捨ててトラーキアに逃れ、アブデーラの町を建設した、ということです。そしてその話を記すついでに、アブデーラはそれ以前にクラゾメナイ人によって植民されたが、すぐに崩壊したことを述べています。テオスの市民のとった行動も、右のポカイアの場合に似ている。ハルパゴスが盛り土戦術でテオスの城壁を占領すると、テオス人は全市民船に乗り込み、海路トラキアに向い、ここにアブデラの町を建てた。この町はこれより先クラゾメナイの人ティメシオスが植民したところ・・・・


3:ペルシアの支配のもとで

テオース人によって再建されたアブデーラの町は、ギリシア世界と内陸部のトラーキアとの間の交易の中継点として栄えました。しかし、彼らが嫌ったペルシアの支配からは結局30年ちょっとの間しか逃れることが出来ませんでした。というのはBC 513年、ペルシアの将軍メガバゾスがトラーキア地方を征服し、その際にアブデーラも支配下に組み入れられてしまったからです。・・・・ペリントス攻略の後、メガバゾスはトラキアを通って軍を進め、この地方の町および民族をことごとく大王に帰属させた。トラキアを平定せよという指令を、(ペルシア王)ダレイオスから受けていたからである。・・・・


4:クセルクセース王の接待

ダーレイオス王の次のクセルクセース王の時、BC 480年にペルシアはギリシア本土を攻めるために海陸の大軍を組織し、王自らが軍を率いてギリシア本土に向いました。この時、アブデーラはその進路上にありました。そしてこの大軍が通過する際にアブデーラはその食事の用意を命ぜられて大変な苦難を強いられたのでした。遠征軍を迎えクセルクセス王の食事の接待に当ったギリシア人の蒙った苦難は悲惨を極めたもので、そのために住み馴れた家屋敷も離れねばならぬほどであった・・・・ヘロドトス著「歴史」巻7、118 から それでは、どういう目にあったのかと言いますと・・・・


5:プロータゴラース

前回の最後で、ペルシア王クセルクセースが敗戦に直面してアテーナイから一目散に母国に逃げ帰る際、アブデーラに滞留したことをお話ししました。ディオゲネース・ラーエルティオスの「ギリシア哲学者列伝」の「デーモクリトス」の章では、この時に、アブデーラ人であったデーモクリトスの父親がペルシア王クセルクセースを歓待した、という話を記しています。これに感謝した王はデーモクリトスの父親の指南役としてマゴス僧(古代ペルシアの宗教者)たちやカルデア人(古代バビロニア人。天文学占星術に通じていた)を残しておいた、といいます。そして、息子のデーモクリトスは・・・・


6:デーモクリトス(1)

前回ご紹介したプロータゴラースが、諸国を遍歴し、アテーナイにも逗留して、人々に知識を教えていたのに対して、彼より約30年あとにアブデーラに生まれたデーモクリトスは、プロータゴラースと同じ哲学者ではありましたが、アテーナイに滞在したことはなく、もっぱらアブデーラに住んでいたようです。パレロンのデメトリオスは「ソクラテス弁護」のなかで、デモクリトスアテナイを訪れることさえしなかったと述べている。そしてこのことは、もしも彼があれほどの大国を無視したのだとすると、自分はその国よりももっと偉大なのだと考えていたということでもある。・・・・


7:デーモクリトス(2)

彼はいわば物理学者の遠い祖先のような人ですが、その他のさまざまな学問も研究していました。彼の著作の範囲は広く、それらは倫理学関係、自然科学関係、数学関係、文芸・音楽関係、技術関係の著作に分類出来るとディオゲネース・ラーエルティオスは伝えています。人生論的な見解として彼はこんな見解を持っていました。「快活さ」(エウテュミアー)が人生の終局目的であるが、これは、一部の人たちが聞き間違えて受けとったように、快楽と同じものではなく、いかなる恐怖や、迷信や、その他何らかの情念によっても乱されないで、魂がそれによって穏やかに落ちついた・・・・


8:アナクサルコス

さて、デーモクリトスが亡くなった頃からアブデーラの地位は低下し始めました。アブデーラはBC 376年、北方のトリバリ人による略奪を受けました。BC 350年にはマケドニア王国のピリッポス2世の攻撃を受け、その支配下に入りました。このピリッポス2世の息子が有名なアレクサンドロス大王です。旧ペルシア王国領を進撃するアレクサンドロス大王随行した哲学者のなかに、アブデーラ出身のアナクサルコスがいます。彼の師匠はキオスのメトロドロスであり、このメトドドロスは・・・・


9:ヘカタイオス

アナクサルコスの弟子としてエーリスの人ピュローンが一緒にアレクナドロスの軍に従っていました。彼は従軍中に出会ったインド人の賢者から「アナクサルコスは自分では王の宮廷の世話をしているだけであり、他のだれひとり善き者に教育することは出来ない」という批評を聞きました。その批評に心を動かされたピュローンは遠征後は宮廷とは距離を置き、故郷のエーリスに戻って隠遁生活に入りました。ピュローンは懐疑派哲学の創始者として知られています。哲学史上では・・・・