神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ピュロス:目次

1:はじめに

トロイア戦争では、ギリシアの諸将の中にピュロス王ネストールという老将が登場します。老将といえども武芸のわざは壮年の者に劣ることなく、戦場に活躍する君侯です。よく自分の昔の手柄を自慢したり、人々に助言を与えたりします。ホメーロスの「イーリアス」第1書には、仲たがいをしたミュケーナイ王アガメムノーンと、ギリシア軍中随一の英雄アキレウス(彼はプティエーの王子)の間をネストールが取りなそうとする場面があります。こうペーレウスの子(アキレウスのこと)はいって、手の笏杖を地面へと投げつけた。・・・・


2:メランプース

ネーレウスがピュロスに行き、ピュラースを追い出してピュロスの王となったのちは、アムピーオーンの娘クローリスと結婚し、二人の間には12人の息子と一人の娘ペーローが生れました。このペーローが年頃になると、その美しさで評判になり、近隣の名のある若者たちがペーローを妻にと望んだのでした。またとりわけて器量のよいクローリスにも会いました。ネーレウスがその美しさに数しれぬほどの結納をやり、むかし妻にと迎えたもの、イーアソスの裔アンピーオーンの乙娘とて、この方はもとミニュアースの一族が拠る・・・・


3:ヘーラクレースの侵攻

ピュロスのネーレウスのところに、ギリシア神話で最大の英雄であるヘーラクレースが来たことがあります。ヘーラクレースは自分の味方であったイーピトスという人物を狂って殺してしまい、その殺人の穢れをネーレウスに清めてもらおうとしてピュロスにやってきたのでした。ヘーラクレースは生まれた時からゼウスのお妃である女神ヘーラーに憎まれており、ここぞという時にヘーラーが送った狂気によって心ならずも、とんでもないことをしでかしてしまう、という運命にありました。この時は・・・・


4:ネストールの初陣

エーリス人に虐げられてきたピュロスですが、これに一矢報いたのがネーレウスの一番下の息子のネストールでした。彼は単独でエーリスに行き、イーテュモネウスという者を殺し、牛や豚や馬を奪ってきたのでした。・・・・その折私(=ネーレウス)はイーテュモネウスを殺したものだ、あの勇ましいヒュペイロコスの子で、エーリスに住もうていた、奪うた群を 追うてゆくと、彼(あれ)は自分の牛らを護って、先陣で戦ううち、私(わし)の手から投げつけられた槍に当たって、伏し倒れたれば、あたりに居合わす・・・・


5:トロイア戦争

ネストールには、エーリス人のモリーオネーの双子との戦いや、アルカディアの巨人エレウタリオーンとの一騎打ちなどの伝説がありますが、断片的にしか伝わっていないようです。そこで、ネストールが老年になってから参加したトロイア戦争にまで、話を飛ばすことにします。ネストールは2人の息子アンティロコスとトラシュメーデースとともにトロイア戦争に参加しました。ホメーロスの「イーリアス」では、ギリシア側の総大将であるミュケーナイ王アガメムノーンが諸将の戦いぶりを督戦する場面があります。・・・・


6:テーレマコスのピュロス訪問

ネストールはトロイア陥落ののち、無事にピュロスに帰還します。それから10年後、ピュロスのネストールのもとにオデュッセウスの息子テーレマコスがやってきました。テーレマコスは、トロイアから一向に帰ってこない自分の父親について何か消息を知らないか尋ねるために、ネストールの許を訪れたのでした。テーレマコスは知らなかったのですが、オデュッセウスは海の神ポセイドーンの怒りに触れ、トロイア戦争ののち10年もの間、地中海のあちらこちらをさまよっていたのでした。テーレマコスに尋ねられたネストールは・・・・


7:線文字B文書

テーレマコスが去ったあとのネストールについては物語が伝わっていないようです。ネストールが死んだ時にはあとには息子のトラシュメーデースやペイシストラトスが残されていました。彼らについても話はほとんど伝わっていません。ではここで、考古学から何か分かることがないか、見てみましょう。ピュロスでは線文字Bという、BC 1200年頃に使用されていた文字の資料(粘土板)が出土しています。線文字Bの資料が大量に出土したのは、クレータ島のクノッソスとピュロスの2か所だけで、その他の地域からは少量しか出土されていません。・・・・


8:王宮の破壊

前にもお話ししたように、線文字B粘土板は、宮殿の火事によって偶然に焼き固められたのであり、そのことによって現代まで形を留めることが出来たのでした。考古学的な証拠から、ピュロスだけでなくギリシア本土の各地の宮殿で、大規模な火事があったと推測されています。そしてこの火事は敵からの攻撃によるものだったようです。この世紀(=BC 13世紀)の中頃には時代の流れは完全に変わってしまい、町々は焼け落ち、土地が捨て去られるという、お定まりの経過を辿ることになる。明らかにギリシア全土は動乱の世となり・・・・


9:ネーレイダイ(ネーレウスの子孫)

古典時代のギリシアにはピュロス王ネーレウスの子孫(ネーレイダイ)を主張する家柄があちこちにありました。有名なものはアテーナイの名門貴族の一族アルクマイオニダイです。彼らは、ネーレウスの子ネストールの子トラシュメーデースの子シロスの子アルクマイオーンを始祖とする家柄です。前回の最後に引用したパウサニアースの記述によれば、ヘーラクレイダイがピュロスを占領した際に、アルクマイオーンがピュロスを追放されたということです。そこで彼ら(=ヘーラクレースの子孫)は(中略)ネストールの子孫を・・・・


10:ドーリス人の侵入後

ネーレウス家の人々(ネーレイダイ)がドーリス人たちによってピュロスから追い出されたあと、ピュロスには人は住まなくなったのでしょうか? それともピュロスはドーリス人の町になったのでしょうか? 伝説はその後のピュロスについてほとんど伝えていません。この後ピュロスの名前が登場するのは、第二次メッセーネー戦争(BC 685年~BC 668年)に関連してのことであり、ピュロスのメッセーネー人は戦争を避けて北のエーリス地方の港町キュレーネーに向った、という内容の記事です。その頃・・・・


11:その後のピュロス人

ピュロスのメッセーネー人が町を捨てたのは、ヘイラ山の砦がスパルタ軍によって陥落した時でした。ピュロスとモトネーの人々、および沿岸地域に住んでいた全ての人々は、ヘイラ占領に際して船で撤退し、エーリス人の港であるキュレーネーに向かいました。そこから彼らはアルカディアのメッセーネー人に使者を派遣し、自分たちの勢力を団結させ、住むための新しい国を探すことを提案し、アリストメネースに彼らを植民地に導くように求めました。パウサニアース「ギリシア案内記」4.23.1 より・・・・