神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

アカントス:目次

1:創建

エーゲ海の北西の沿岸地域はカルキディケー地方と言います。エウボイア島の町カルキスの植民市がこの地方に多く建設されたためにカルキスにちなんでこう名付けられました。このカルキディケー地方には南に向けて半島が3つ伸びていて、それぞれ東からアトス半島、シトニア半島、カサンドラ半島と呼ばれています。その一番東のアトス半島には標高2033mのアトス山があり、この山にはギリシア正教修道院が多くあって、俗世から隔絶された環境を保っています。もちろん、これはキリスト教が始まってからの・・・・


2:ペルシアの支配

英語版のWikipediaの「アカントス」の項によれば、アカントスの港を通して交易されるのは、近くの森林からの木材や鉱物(おそらく銀)、そして農産物だったということです。さて、コインが発行され始めたBC 530年頃は東からペルシア王国が勢力を伸ばしていた頃です。ペルシアの勢力が最初にアカントスに迫ったのはおそらくBC 513年頃でしょう。BC 513年頃、ペルシア王ダーレイオスが臣下のメガバゾスにトラーキア地方の平定を命じています。たぶんこの時にアカントスはペルシアに臣従したようです。・・・・


3:クセルクセースの運河

BC 490年のペルシアによるギリシア遠征は、アテーナイに敗北する結果となります。その後ペルシア王ダーレイオスは、再度の遠征を準備しますが、その途中で死亡します。ダーレイオスの息子のクセルクセースが即位し、ギリシア征服事業を引き継ぎます。その時にアトス半島での難破の記憶がペルシアの高官たちの心に蘇ってきました。そこでクセルクセースは、アトス半島を横断する運河の掘削することを計画します。さてクセルクセスはまず、先の遠征軍がアトス山を廻航して損害を蒙ったので、ことにアトスに関しては約三年前から・・・・


4:サラミースの海戦

前回お話ししたクセルクセースの運河ですが、そもそもこの運河はそれほど必要ではなかったとヘーロドトスは書いています。運河建設はクセルクセースの見栄だと彼は言います。権力者の見栄のために多くの人々が苦労するというのは、やりきれない話ではありますが、よくありそうな話でもあります。私の推測するところでは、クセルクセスがこのような運河の開鑿を命じたのは一種の見栄によるもので、彼はこれによって自分の力を誇示するとともに後世の語り草となるものを残したかったのであろう。というのは・・・・


5:ペロポネーソス戦争

翌年(BC 479年)、マルドニオスはペルシア軍を率いてギリシア本土を南下し、再びアテーナイを占領しました。しかしその後プラタイアの戦いで、ギリシア軍に敗北し、マルドニオスは戦死しました。ほぼ同じ頃、ギリシアの連合海軍は、イオーニア地方のミュカレーの戦いでも勝利し、これら2つの勝利によってペルシアのギリシア侵攻は完全に停止しました。このあとエーゲ海からペルシアの勢力は一掃されます。やがて、アテーナイが対ペルシアの軍事同盟であるデーロス同盟を組織すると、アカントスはこの同盟に参加し、・・・・


6:ブラーシダース

カルキディケー地方に到達したブラーシダースの軍は、アテーナイ勢が根拠地にしているポテイダイアを通り過ぎてアカントスにやって来ました。これはアカントスの貴族派の人々が呼んだからなのですが、市民の大多数はそのことを知りません。驚いたアカントス市民は、とりあえず城門を閉ざして、ブラーシダースの軍の入城を許しませんでした。同夏ただちにブラーシダースは麾下の軍勢とカルキディケーの軍兵を率いて、葡萄の取り入れ寸前の頃アンドロスの植民地アカントスを攻めた。アカントスの住民たちは・・・・


7:平和条約

このあとブラーシダースとその軍は、予定通りアンピポリスを陥落させ、占拠しました。それからも彼はカルキディケー地方の町々を次々とスパルタ側に寝返らせていきました。ブラーシダースはアムピポリス攻略後、同盟の諸兵を率いてアクテーと呼ばれる地帯(=アトス半島)に兵を進めた。これはペルシア王が掘らせた運河を越えて海にむかって伸びている半島で、エーゲ海に没入するその突端にはアトース山の高峰が聳える。その運河の脇のエウボイアに面する方の海岸にアンドロスの植民地サネーがある。その他・・・・


8:その後のアカントス

アテーナイとスパルタの間の戦争(ペロポネーソス戦争)は、BC404年にスパルタの勝利で終結しました。その後しばらくはスパルタがギリシア世界の覇権を握りました。しかし、アカントスに対するスパルタの介入はそれほどなかったようです。英語版のWikipediaの「アカントス」の項によると、この頃、カルキディケー地方にはカルキディケー同盟というものが存在していたようです。さらに英語版Wikiepdiaの「カルキディケー同盟」の項を調べてみると、この同盟はそもそもBC 432年にカルキディケー地方の・・・・