神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

カルキス:目次

1:はじめに

カルキス(現代名:ハルキダ)はエウボイア島(現代名:エヴィア島)にある都市です。このエウボイア島というのは大きい島で、日本でいえば佐渡島よりも大きく、四国よりも小さいという感じです。この島のおもしろいところは、大陸にほぼくっつきそうに見えながら、わずかに(40mほど)離れているので島になっている、というところです。この海峡をエウポリス海峡といいます。カルキスはこのエウポリス海峡のすぐ北に位置します。拡大してもくっついているように見えます。・・・・さらに拡大してもこの通りです。・・・・


2:エレペーノールとアバンテス族

カルキスという町の名前は、コンベーというニンフ(妖精)が青銅の武器をそこで発明したので、青銅を意味するカルコスという言葉からつけられた、ということです。また、カルキスなどエウボイア島の都市を建設した人々をアバンテス族と呼ぶのですが、彼らはアバースの子孫とされています。アバースは、カルキス近郊の泉のニンフ、アレトゥーサと、海の王ポセイドーン神の息子でした。アバースの息子がカルコードーンで、カルコードーンの息子が、エレペーノールです。エレペーノールはアバンテス族を率いてトロイア戦争に参加しました。ホメーロスの・・・・


3:アウリス

「(1)はじめに」でも述べましたが、詩人ヘーシオドスが、船に乗って海を渡ったのは一回しかない、それもアウリスからエウボイア島に渡った時の一回だけだ、と述べた時に、このアウリスについて、その昔、トロイアに出征するギリシア軍が集結した場所と説明しています。わしはこれまで、広漠たる海を船で渡ったことは一度しかない、その一度とはアウリスからエウボイアへ渡った時――そのかみアカイア勢が、聖なるヘラスから、美女の国トロイエーに向かうべく大軍を集め、嵐の熄(や)むのを待っていたそのアウリスのことだが、ここからわしは、英邁の王アンピダマースの・・・・


4:トロイア戦争ののち

では、アウリスでの悲惨な出来事から別れて、その後を見てみましょう。その後、ギリシアの艦隊はトロイアに向い、カルキスの王エレペーノールも40隻の船を率いて参加したのでした。「(2):エレペーノールとアバンテス族]」でお話ししたように、エレペーノールはトロイアで戦死します。これはホメーロスが語っているところなので尊重しなければなりません。エレペーノールの子供については伝えがありません。また、エレペーノールの部下たちについては、トロイア戦争後、帰国する際に航路を外れてしまい、ギリシア本土の西側のエーペイロス地方(現在のアルバニア付近)で・・・・


5:植民活動

カルキスの南と東には、レーラントス平野という平野が広がっています。日本のウィキペディアの記述では「レラントス平野は農業に適しており、ギリシアでは肥沃な土地は希少なものであった。」とか「豊かなレラントス平野」(ともに「レラントス戦争」の項から)と書かれていたので、それを読んだ時は肥沃な平野をイメージしていたのですが、グーグル・ストリート・ビューで見ると、ずっと乾燥した風景でした。おそらくブドウ栽培に適しているのでしょう。このレーラントス平野の真ん中を流れているのがレラス川で、このレラス川の河口近くに・・・・


6:レーラントス戦争(1)

このように当時のギリシアのなかでも飛びぬけて繁栄していたらしいカルキスとエレトリアですが、BC 710年頃、この両者が互いに戦うことになります。戦争の原因はレーラントス平野の領有権でした。それまで両者が共同で使用していたレーラントス平野が急に争点になったのは、干ばつによる饑饉が原因だったと推定されています。この戦争が起きたのが古い時代のため、文献資料が少なくて全容が分かりません。では、その少ない文献資料にこの戦争のことがどのように書かれていたかを、ご紹介していきます。まずトゥーキュディデースは、ペロポネーソス戦争を「今次大戦」「かつてなき大動乱」と呼び・・・・


7:レーラントス戦争(2)

レーラントス戦争の同時代人の証言としては、ヘーシオドスのほかに、彼よりあとに生れた詩人アルキロコスがいます。彼の次の詩の断片は、レーラントス戦争のことを唱っている可能性があるそうです。アレスが平野で戦闘を交えさせるとき、多数の弓や投石具が放たれることはあるまい。うめき声の多い戦闘は、剣でこそ行われるだろう。エウボイアの槍で名高い殿原は、そのような戦闘に熟練しているのだ。訳文は藤縄謙三氏(京都大学名誉教授 2000年没、西洋古典学者)の「アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」から取りました。これについて、ストラボーン(およそBC 63年~AD 23年)は・・・・


8:パネーデースの判定

レーラントス戦争で戦死したカルキスの王らしきアンピダマースの葬礼に伴う競技において、詩人のヘーシオドスが歌競べの競技に優勝したことを「6:レーラントス戦争(1)」で紹介しました。これについては後世の資料で信ぴょう性が欠けるのですが、AD 2世紀の資料に詳しい記事が載っています。この資料「ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」は、岩波文庫のヘーシオドス「仕事と日」に収録されています。今回は、この話をご紹介します。(ヘーシオドスとムーサたち。ベルテル・トルバルセン作 1807年)「ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」にはアンピダマースの葬礼競技について・・・・


9:アテーナイ人入植者

カルキスとエレトリアが交易活動でかつて主役を務めていた証拠のひとつとして、古典期のギリシアで使われていた重さ単位が「エウボイア・タラントン」と呼ばれていたことが挙げられます。重さの単位は価値の単位でもありました。それは、金額を示す時に金の重さで示したからです。実は古典期のギリシアで広く使われていた重さの単位体系はもうひとつあって、それは「アイギーナ・タラントン」と呼ばれていました。その名の通りアイギーナが使い出したもので、アイギーナはレーラントス戦争後、エーゲ海西側における交易拠点として成長してきたために、この単位が広まったのでした。・・・・


10:アルテミシオンの海戦

BC 480年、ペルシアは再びギリシア本土に進攻してきます。今回はダーダネルス海峡(当時の呼び方ではヘレースポントス海峡)を渡り、今のブルガリア経由で、北から攻めて来たのでした。ギリシア軍は陸上部隊テルモピュライの隘路で、海上部隊はエウボイア島の北端アルテミシオンでペルシア軍を迎えました。というのもペルシア軍も海陸2つの部隊が歩を揃えて向ってくるからなのでした。このアルテミシオンにカルキスは20隻の船を出しました。ヘーロドトスはわざわざ「カルキス人はアテナイの提供した船二十隻に乗り組み」と書いています。なぜ自前の船でなく・・・・


11:戻ってきたアテーナイ人入植者

カルキスはサラミースの海戦に20隻の軍船で参加します。この海戦ではギリシア側が快勝しました。ペルシア王クセルクセースはアテーナイを占領し、小高い山に玉座を据えて観戦していたのですが、自軍の敗北が明らかになると慌ててペルシア本国に逃げ帰ってしまいました。こうしてカルキスもペルシア軍から解放されたはずですが、サラミースで戦ったのち帰国したカルキスの兵士たちはどんなふうになった町を見たことでしょうか? ペルシア軍が来る前に住民が避難出来たかどうか気になります。避難するにしてもどこに避難出来たのかも気になります。山に潜んでいたのでしょうか?・・・・


12:アリストテレース

ペロポネーソス戦争の末期にカルキスを始めとするエウボイア島の諸都市はアテーナイの支配から離脱することに成功しました。BC 404年にはアテーナイがスパルタに降伏します。それからずっと時代を下ったBC 323年、古代ギリシアの大哲学者にして大科学者のアリストテレースは、アテーナイを離れてカルキスに移住しました。それは彼が61歳の時のことで、翌年彼はカルキスで生涯を終えます。それを記念して現代のカルキス(=ハルキダ)にはアリストテレース銅像があります。なぜ彼がカルキスで晩年を過ごしたかというと、ここには彼の母方の家があったからです。・・・・