神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メガラ:目次

1:起源

メガラは、アテーナイの西、コリントスの東にあります。アテーナイの西には大地の女神たちデーメーテールとペルセポネーの秘儀で有名なエレウシスがありますが、歴史の確かな時代にはエレウシスはすでにアテーナイに併合されていました。そのエレウシスの西がメガラ領です。メガラはアテーナイとコリントスという2つの有力な都市に挟まれて、その強い影響を受け続けたようです。旧約聖書におけるアダムとイブのような人類の始祖にあたる人物は、ギリシア神話においてはデウカリオーンとピュラーですが・・・・


2:レレゲス人

ここでレレゲス人について少し調べてみました。レレゲス人についての一番古い言及はホメーロスの「イーリアス」によるもので、以下のような記述があります。なお、イーリアストロイア戦争の物語です。まず海の方には、カーレスの勢に、彎(まが)った弓をもつパイオーネス、それからレレゲスにカウコーネスに、気高いペラスゴイ勢が居りまする、ホメーロスイーリアス」第10書 呉茂一訳 より(430行あたり) これはドローンという人物がギリシア側の捕虜になり、ギリシア側の尋問に応じて・・・・


3:王位争い

前回私は、レレゲス人はエーゲ海の島々に住んでいた、としましたが、そうも言い切れないところがあり、悩ましいです。というのは、小アジアエーゲ海沿岸にもレレゲス人が住んでいた痕跡があるからです。そのことについてお話します。まずは、イーリアスからの証拠です。またもや 貴君(あなた)に委(まか)されるとは。命短く私を母の、アルテース老人の娘に当る ラーオトエーは生みつけたもの、そのアルテースは、戦さを嗜(この)むレレゲス族を治め知ろして、サトニオエイスの川ほとりに峻(そそ)り立つ・・・・


4:ニーソス

アテーナイの王子でありながらメガラの王になったニーソスについては、その名にちなんでメガラの港の名前がニーサイアと名付けられたと伝えられています。メガラではニーソスの治世についてあまり伝えられていませんが、アテーナイでは、この時にクレータ島の王ミーノースがメガラを包囲して陥落させた、という話が伝えられています。アテーナイに伝わる伝説によれば、以下のようなことが起きたといいます。ニーソスがメガラの王であった頃、クレータ島全体を支配していた王ミーノースの長男であった・・・・


5:アルカトオス

メガラ王になったメガレウスには、ティーマルコスとエウヒッポスという息子がいました。ところがティーマルコスが戦死し、エウヒッポスもキタイローン山(メガラの北にある)のライオンに食われてしまいました。ライオンは古代にはギリシアにも生息していたのでした。こうして跡継ぎを失ったメガレウスは、「息子を食ったこのライオンに復讐した者に娘のエウアイクメーを与える」と布告しました。さてペロポネーソス半島のピサの王ペロプスには多くの息子たちがいましたが、その中のアルカトオスという者は・・・・


6:スケイローン

前回登場したペリポイアは、その後、サラミース島の王テラモーンの妻となり、トロイア戦争で活躍する英雄アイアースを産みました。サラミース島はメガラのすぐ前にある島です。前回、ペリポイアをテーセウスが守った話をしたので、少し時間をさかのぼりますが、テーセウスとスケイローンの関りについてお話します。メガラの伝説ではスケイローンはメガラ王ピュラースの息子でしたが、アテーナイの伝説ではメガラにいた強盗なのでした。トロイゼーンで祖父ピッテウスと母アイトラーのもとで育ったテーセウス少年は・・・・


7:アテーナイに併合される

その後のメガラについての情報は断片的です。また彼ら(=メガラ出身の著作家たち)の説では、テセウスがメガラの支配者ディオクレスを欺いて、メガラ人がもっていたエレウシスを奪い取り、そしてスケイロンを殺したのは、テセウスがはじめてアテネに向って歩いて行った時ではなく、もっと後になってからだという。プルータルコス「テーセウス伝」10 井上一訳 より 上の記事では、メガラの支配者としてディオクレースの名前が登場します。しかしディオクレースがどういう素性の人物で・・・・


8:ヘーラクレイダイのペロポネーソス帰還

前回は、メガラ最後の王についての記事の時代を問題にしました。そしてこの話を、メガラがアテーナイに併合される前の話ではない、としました。とすると、メガラがアテーナイから独立することがなければ、この記事に合致する状況が生まれません。実は、メガラがアテーナイから切り離されることを示す記事があります。その後、(アテーナイ王)コドロスの治世において、ペロポネーソス人はアテーナイへの遠征を行いました。目覚ましいことを何も達成出来なかったので、彼らは国に帰る途中で・・・・


9:メガラの2度目の創建

アリストマコスには3人の息子たちがいました。この3人が成人した時、ペロポネーソスへの帰還について三たび神託を求めました。すると神託はまたしても「三度目の収穫を待ってのちに帰るであろう」と答え、また「汝が狭い所によって攻めるならば、神々は勝利を与えるであろう」とも告げたのでした。そこで3人兄弟の一番上の兄であるテーメノスは、父や曾祖父はその神託に従ったのに帰還に失敗したではないか、と神を責めました。すると神は「彼らは神託の真意を取り違えていたのだ。三度目の収穫とは・・・・


10:王制の廃止

さて、歴史家ヘーロドトスが 最初の侵入は、ドーリス族がメガラ市を創建した時のことで、この出征を当時アテナイの王位にあったコドロスの名にちなんで呼ぶのは、多分正しいのであろう。 ヘロドトス著 歴史 巻5、76 から と書いているので、コリントス王アレーテースがアテーナイを攻めた時にメガラ市は創建されたようです。しかし、英語版Wikipediaの「メガラ」の項によれば、当初メガラはコリントスに属していたようです。歴史時代に入ると、メガラは最初コリントスの属領であり、メガラからの入植者が・・・・


11:植民活動

メガラ人はシシリー島(当時の呼び方ではシケリア島)にメガラ・ヒューブライアという植民市を建てましたが、これはBC 728年頃のこととされています。この植民の経緯については歴史家トゥーキュディデースが記しています。これと同じ頃、メガラからもラミスが植民団をひきいてシケリアにやってきた。そしてパンタキュアース河を見おろす地点に、トローティーロンという国を開いた。トゥーキュディデース著「戦史」巻6・4 から 「これと同じ頃」というのはBC 729年頃ということです。この時・・・・


12:ビューザース

ビューザンティオンは、その創建から約1000年後にローマ皇帝コンスタンティヌスによって大々的に作り変えられて「コンスタンティヌスの町(コンスタンティノープル)」と改名されました。やがてこの都市はローマ帝国の首都となり、「第二のローマ」とも「諸都市の女王」とも呼ばれました。ローマ帝国東ローマ帝国ともビザンティン帝国ともいう)は1453年にオスマン帝国によって滅ぼされますが、この町はその後もオスマン帝国の首都であり続けました。1922年のオスマン帝国の滅亡によって首都ではなくなりましたが・・・・


13:テアゲネース

植民市としてビューザンティオンを建設したBC 667年頃のメガラの政体は、おそらく貴族制であったと推測します。しかし、その後十数年のうちにテアゲネースという人物が政権を握り、僭主になったようです。同じ頃、隣のコリントスでもキュプセロスという人物が貴族制を打倒し、僭主になっています。テアゲネースについてはあまり分かっていません。哲学者アリストテレースは「政治学」の中でテアゲネースのことを少し書いています。その当時は国[都市]は大きなものではなく、民衆はその仕事に忙しくて田野の中に住んでいたため・・・・


14:サラミース島

サラミース島は、メガラとアテーナイの間に位置しています。神話時代はアイギーナ島の初代の王アイアコスの息子にあたるテラモーンや孫のアイアースがサラミース島の王であることに示されるようにアイギーナ島と深い関係にあったようですが、その後メガラ領になりました。ところがアテーナイもこの島の領有を主張し、メガラとアテーナイは戦争を繰返していました。その結果、アテーナイの政府は戦争に疲れ、サラミースの領有権の主張を取り下げ、それを市民に徹底させるために法律を作りました。・・・・


15:テオグニス(1)

テオグニスは教訓詩というジャンルの詩人で、おそらくアテーナイのソローンの活躍した時代より1世代あとにメガラで活躍した人物です。ただし、彼の生涯についてはほとんど分かっていないそうです。生れた町もギリシア本土のメガラなのか、シケリア島のメガラ・ヒューブライアなのかも、はっきりしません。私は本土のメガラの人という前提で話を進めることにします。彼は貴族の出身で、平民と貴族を峻別する貴族主義者でした。都市は、なおも同じ姿を留めているが、そこに住む人びとは変質してしまった。・・・・


16:テオグニス(2)

私にとってはテオグニスの詩は当時のメガラの政情が垣間見えるというところに興味があります。次の詩は、BC 545年にイオーニア地方のギリシア諸都市がペルシアによって占領された事件に関係しているように読めます。私についてお前に助言を与え、お前に私たちの友情を放棄して立ち去るように命じた者は誰であろうと―誇りはマグネシア人とコロポーンとスミュルナを破壊した。そして確かに、キュルノスよ、お前とお前のものを破壊するだろう。マグネシアとコロポーンとスミュルナはみなイオーニア地方のギリシア人都市です。・・・・


17:エウパリーノス

テオグニスの同時代のメガラ人としては、土木技術者のエウパリーノスがいます。彼はサモス島の僭主ポリュクラテースに招かれて、サモスの町へ水を供給するための水路を建設しました。この水路は、サモスの町の背後にひかえる山にある1km以上のトンネルを通っていました。このトンネルを彼は山の両側から掘り進め、ほぼ狂いなく山の内部でつながったといいます。このトンネルは現存していて、見学することが出来ます。私がサモス人についてむしろ長きに過ぎるほど詳しく記してきたについては理由がある。・・・・


18:ペルシア軍侵攻

メガラ人たちは神々に祈るだけではなく、ペルシア軍に実際に立ち向かいもしました。ペルシアに対して抗戦する意志を示した他のギリシア諸都市とともに、テッサリアギリシア北部地方)に軍船20隻を派遣したのです。しかし、この遠征軍は戦略上の観点から撤退し、エウボイア島の北端の地アルテミシオンに再集結しました。ここでのペルシア側との海戦はアルテミシオンの海戦と呼ばれ互角の戦いだったのですが、ペルシアの陸上部隊テルモピュライの隘路を突破して南下したため、ギリシア海上部隊はアテーナイ沖の島サラミースまで・・・・


19:プラタイアの戦い

パウサニアースは以上のようなアルテミス女神の奇跡譚を記していますが、ヘーロドトスはまったく記していません。ペルシア軍がメガラ地方で破壊活動を行なったのちに撤退したのは、コリントス地峡にギリシア軍が集結したという報せを聞いたためだ、としています。ペルシア軍を率いるマルドニオスはもともとアテーナイ近郊やメガラ地方ではなく、騎兵戦に有利なテーバイ近郊で戦う方針でした。この時テーバイがペルシアに味方していたこともその理由のひとつでした。そのためペルシア軍はアテーナイからテーバイに向けて・・・・