神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

コリントス:目次

1:はじめに

コリントスギリシア本土のペロポネーソス半島の附け根にある町で、そこは大地が狭くなっており、交通の要衝となっていました。町の北と東南の2方向から海が迫っています。そして町の北にはレカイオーンという名の港が、東南にはケンクレアイという名の港がありました。レカイオーンの港は西の海との、つまりアドリア海や、シケリア島(=シシリー島)、イタリア半島、さらには西地中海各地との交易に用いられ、ケンクレアイの港は東の海との、つまりエーゲ海やその先の黒海などとの交易に用いられました。・・・・


2:ブーノスからメーデイアまで

ある伝説では、ブーノスとメーデイアの間には何人ものコリントス王が存在したことになっています。それによれば、ブーノスの死後、エポーペウスが王位を継承しました。エポーペウスは当時シキュオーンの王だった人物で、ブーノスの死後、シキュオーンとコリントスの両方の王になったのでした。エポーペウスにはマラトーンという息子がいましたが、何かの原因で不当にもマラトーンを追放してしまいました。マラトーンはアッティカ(アテーナイを中心とする地方)に亡命し、彼の住んだ地は彼にちなんでマラトーンと・・・・


3:メーデイア

メーデイアは、コルキス(今のジョージアあたり)で生まれました。父親はかつてコリントスの王であったアイエーテースで、太陽神ヘーリオスの息子で、今は、コルキスの王でした。彼は金羊毛皮という宝を所有しており、これを竜に守らせていました。この金羊毛皮を取ってくるという課題を与えられていたのが、イオールコスの人イアーソーンでした。彼は、自分を助けてくれる仲間たちとともに大きな船アルゴー号に乗って、イオールコスからはるばる東の涯コルキスまでやってきたのでした。そのわけはというと・・・・


4:シーシュポス(1)

メーデイアはその後、アテーナイにおもむき、アテーナイ王アイゲウスの妻になりました。アイゲウスがトロイゼーンのアイトラーに生ませた子テーセウスが成人して、アイゲウスに会いに来た時に、メーデイアはこれを毒殺しようとして失敗し、今度はアジアに逃げました。その時、メーデイアはアイゲウスとの間に生れた息子メードスを一緒に連れていき、メードスはメディア人(今のイラクあたりにかつていた民族)の祖となったといいます。さて、メーデイアの犠牲になったコリントスクレオーンですが、・・・・


5:シーシュポス(2)

さて、河神アーソーポスはその後どうしたかといいますと、やがてゼウスに追いつきました。するとゼウスは無礼者と一喝して得意の武器である稲妻をアーソーポスに投げつけました。雷を浴びてアーソーポスは身体の一部が炭化してしまいました。それでアーソーポス川の河床には石炭があるのだといいます。アーソーポスは娘を諦めざるを得ませんでした。一方ゼウスはアイギーナをオイノーネー島に連れて行きました。アイギーナはこの島でゼウスの息子アイアコスを生みました。アイアコスの子孫には、トロイア戦争で活躍する・・・・


6:ベレロポンテース(1)

コリントス市にまつわる伝説において一番有名な英雄はベレロポンテースです。ベレロポンテースはシーシュポスの息子グラウコスの息子でした。そのグラウコスが今度は 人品すぐれたベレロポンテースを生んだ。ところが、此の者に神々は きらきらしさと好もしい男ぶりとを授けたもうた、しかるに彼に対して(国の王)プロイトスが胸に悪さを企らみ、アルゴス人の国から追い払った・・・ ホメーロス 「イーリアス 第6書」 呉茂一訳 より ベレロポンテースがアルゴス王プロイトスの許に行くまでの話が・・・・


7:ベレロポンテース(2)

キマイラを退治したベレロポンテースに対し、リュキア王はさらにソリュモイ族とアマゾーン族の退治を命じ、それでもベレロポンテースが死ななかった場合に備えて、リュキア国内の勇士を集めて、彼を待ち伏せて殺す手配をしました。さらに続いて、名を謳われたソリュモイ族と戦いをした、これこそ彼が加わった兵戦のうち、一番に劇しい戦さだという。三番目にはまた、男にも匹敵する アマゾーンの女軍を斃(たお)した、ところが彼が恙なく戻ってくると、またもや計略手ぬかりなく織りめぐらして、広大なリュキエー中から・・・・


8:アンティオペー

さて、ベレロポンテースの息子ヒッポロゴスのそのまた息子がグラウコスで、このグラウコスはリュキアの王として、トロイア戦争トロイア側として参戦しています。さて、ヒッポロコスが私(=グラウコス)を設けた、憚りながら彼から私は生れた者。それで、私をトロイエーの地へとさしつかわしたが、いとくさぐさの訓えを授け、つねに勇戦して功(てがら)を立て、他の者らに抜きん出よ、また父祖の家名を恥ずかしめるなと言い含めた・・・ホメーロス 「イーリアス 第6書」 呉茂一訳 より こうして・・・・


9:ヘーラクレイダイの侵攻(1)

ダーモポーンがコリントス王の時にヘーラクレイダイ(ヘーラクレースの子孫たち)が攻めてきました。おそらくこれは、トロイア戦争より以前の、1回目の侵攻のことだと思います。では、その話をいたします。ヘーラクレースが死去すると、今までヘーラクレースを迫害していたミュケーナイ王エウリュステイスは、ヘーラクレースの子供たちを迫害し始めました。子供たちはペロポネーソス半島を出て逃げ回り、最終的にアテーナイ王テーセウスに庇護を求めました。テーセウス率いるアテーナイ軍はエウリュステウスの軍を破り・・・・


10:ヘーラクレイダイの侵攻(2)

アルゴスの君侯の一人であったアルクマイオーンは、母親を殺したため、復讐の女神(エリーニュス)たちに追われて諸国をさまよっていました。彼が母親を殺さざるを得なかったことに関しては、女神ハルモニアーのペプロス(女性用の長い衣)の呪いに関する複雑な話があるのですが、ここでは述べないことにします。さて、アルクマイオーンはそのさすらいの途中でテーバイの予言者テイレシアースの娘マントーに出会い、二人の間には息子アンピロコスと娘ティーシポネーが生れました。しかし、復讐の女神たちに追われたために・・・・


11:バッキアダイ

アレーテースののち、いわゆる暗黒時代に突入します。それは伝説の伝わっていない時代です。英語版の「バッキアダイ(バッキスの子孫)」の項には、アレーテースに続くコリントス王の名前と在位年代が書かれていました。これがどの程度確かなものなのか疑問ですが、ここに引用します。アレーテース。BC 1073 – 1035 (こんな昔の年代がはっきりしているはずがありません。)イクシオーン。BC 1035 – 997 アゲラース1世。BC 997 - 960 プリュームニス。BC 960 - 925 バッキス。BC 925 – 890 このバッキスの7人の息子と3人の娘の子孫と称する人々が・・・・


12:植民活動

コリントスがいつから植民市を建設し始めたのかは分かりませんが、Wikipedia英語版の「コルフ島」(古代ギリシアでの名前は「ケルキューラ島」)の項によれば、BC 730年頃にケルキューラ島に植民市を作っています。ケルキューラ島はギリシア本土の西側の海、イーオニア海にあります。ケルキューラ島にはそれ以前にエウボイア島のエレトリアからの移民が住んでいましたが、コリントス人は彼らと合同して町を形成したようです。同じ頃、シチリア島古代ギリシアでの名前はシケリア島)にコリントスは・・・・


13:ラブダ

BC 657年、レーラントス戦争が終わった頃に、コリントスのポレマルコス(軍事指導者)の地位にあったキュプセロスは、バッキアダイを追放し、コリントスの僭主になりました。キュプセロスの母親ラブダは、バッキアダイの一員であったアンピーオーンの娘でした。つまり母方はバッキアダイだったわけです。しかし、父親エーエティオーンは、バッキアダイに属していませんでした。婚姻は同族間で行われることになっていたバッキアダイで、なぜ例外的にラブダが別の氏族の者と結婚したかについては、生まれつきラブダの・・・・


14:キュプセロス

さて、前回ご紹介した話に続けてヘーロドトスは エエティオンのその子供は、その後すくすくと育ち、櫃(キュプセレー)によって難を免れたというので、キュプセロスと名附けられた。ヘロドトス著「歴史」巻5、92 から と書いています。しかし、ラブダの子供がすくすくと育っているのを見たならば、バッキアダイの人々は殺害に失敗したことに気づきそうなものです。そして次の手を打ってきそうなものです。しかし実際には、キュプセロスは成人してコリントスのポレマルコス(軍事指導者)にまでなったのですから・・・・


15:ペリアンドロス(1)

キュプセロスの子で後継者のペリアンドロスについては、多くの話が伝えられています。まずは、ペリアンドロスの治世に起こったというアリオーンとイルカの話を紹介します。ペリアンドロスはキュプセロスの息子で、(中略)彼はコリントスの独裁者であったが、コリントス人のいうところでは――レスボス人もそれを認めているが――彼の在世中、世にも珍しい事件があった。メテュムナの人アリオンが、海豚に乗って海上をタイナロン岬まで運ばれたというのである。アリオンは当時彼に比肩するものなしとされた竪琴(キタラ)弾きの歌い手で・・・・


16:ペリアンドロス(2)

キュプセロスとペリアンドロスは、コリントスの商工業を盛んにしました。そのためコリントス人は、以下のように評されました。技術的職業を軽んずることが最も少ないのはコリントス人である。ヘロドトス著「歴史」巻2、167 から 当時のギリシアでは工芸を職業とする人々を下に見る風潮がありました。ギリシア人が果たしてこのような慣習をもエジプト人から学んだものかどうかは、私にも明確な判断が下し難い。というのは私の見る限りトラキア人、スキュタイ人、ペルシア人、リュデュア人はじめほとんどすべての異国人・・・・


17:ペリアンドロス(3)

ペリアンドロスがミーレートスの僭主トラシュブーロスを助けたという話があります。この頃ミーレートスは毎年、サルディスを首都とするリュディア王国から攻撃を受けていました。当時のリュディア王だったアリュアッテスは毎年秋にミーレートスに侵攻し、兵士たちにミーレートスの耕地を荒して、その収穫を台無しにしていました。ところが、12年目の侵攻のあとアリュアッテスは病気にかかり、それが長びきました。それをいずれかの神による神意と考えたアリュアッテスは、ギリシア人にとっての聖地であり・・・・


18:リュコプローン(1)

前回のつづきです。年下の息子(=リュコプローン)を追い出した後、ペリアンドロスは兄息子(=キュプセロス)から、(母方の)祖父(=プロクレース)が彼らに何を話したのか聞き出そうとした。息子は祖父が親切にもてなしてくれたことは話したが、プロクレスが別れぎわに二人にいた言葉(=「お前たちの母親を殺したのは誰か、お前たちは知っているのかね。」)は、もともとその意味が彼には判らなかったので、思い出せなかった。しかしペリアンドロスは、祖父が彼らに何か入れ知恵をしなかったはずがないといって・・・・


19:リュコプローン(2)

リュコプローンの話を続けます。年月は流れてペリアンドロスも老い、自分にもはや政務を執る力のないことを悟ると、ケルキュラに使いをやり、リュコプロンを呼び寄せて僭主の地位につけようとした。兄息子の方は常人よりも魯鈍の性であることは彼の目にも明らかで、とうてい自分の後継者となる能力のないことを看取っていたからである。しかしリュコプロンはこの報知をもたらした使者に、反論することすら潔しとしなかった。しかしペリアンドロスはこの青年に執着を抱き、重ねて彼の許へ使いを出し、こんどは・・・・


20:ペルシア戦争まで

ペリアンドロスが死んだのがBC 585年です。ペリアンドロスのあとはその甥のプサンメティコスがコリントスの僭主となり3年間統治したのち暗殺されました。この後、コリントスは貴族制に戻ります。これ以降コリントスについての伝説は急に少なくなり、つまらなくなってしまいます。以下、断片的な話しかお見せ出来ません。BC 525年頃、一部のサモス人が、サモスの僭主ポリュクラテースの支配を嫌って脱出してスパルタに赴き、スパルタがサモスに介入してくれるように頼みました。それでスパルタはこれらのサモス人たちを援助して・・・・


21:アデイマントス

BC 480年のペルシア軍侵攻の時にコリントスの水軍の司令官は、アデイマントスという人物でした。歴史家ヘーロドトスはこのアデイマントスのことを、アテーナイの将軍テミストクレースを引き立てるためのの敵役として語っているようです。テミストクレースはサラミースの海戦を勝利に導いた智将でした。ヘーロドトスは、サラミースの海戦の前夜、この海域での決戦を主張するテミストクレースに対して、アデイマントスが反対する様子を描いています。指揮官たちが参集したとき、エウリュビアデス(=全軍の総司令官。スパルタ人)が・・・・


22:エピダムノスをめぐる戦い

BC 431年からBC 404年までだらだらと続いたペロポネーソス戦争は、アテーナイを盟主とするデーロス同盟とスパルタを盟主とするペロポネーソス同盟の戦いであり、その原因はアテーナイの勢力拡大をスパルタとその同盟諸国が恐れたことにありました。この戦争が始まるきっかけとなったのはコリントスの植民市ケルキューラとコリントスの間の紛争でした。この紛争でケルキューラがアテーナイに支援を頼んだことが、ペロポネーソス戦争を引き起こす要因になりました。ケルキューラはコリントスの植民市でしたが・・・・


23:ポテイダイア

コリントス人が先の事件(=ケルキューラとアテーナイの連合軍との海戦)の報復をとげようとして策動しはじめると、アテーナイ人はかれらの敵意の赴くところを察知して、つぎの手段をえらんだ。パレーネーの陸峡地帯にあるポテイダイア市はコリントスの植民地であったが、アテーナイと同盟をむすび、同名年賦金の支払国であった。アテーナイ人はこの国の市民らがペルディッカースとコリントス人らの指嗾に動かされて同盟から離叛し、残余のトラーキア地方の同盟諸国を連鎖的に離叛させはしないかと危惧して・・・・


24:アリステウス(1)

ポテイダイア人およびアリステウス麾下のペロポネーソスの諸兵は、アテーナイ勢の進撃を待ちもうけて、オリュントス寄りの陸峡地帯に陣地をもうけ、ポテイダイアの城郭の外側にアゴラ(=交易所)を設置した。さて同盟軍の将士らは、全陸上部隊の総指揮官にアリステウスを選挙し、また騎兵部隊の長には(マケドニア王)ペルディッカースをえらんだ。トゥーキュディデース著「戦史」巻1・62 から 全陸上部隊の総指揮官に選ばれたというのですから、アリステウスの軍事的な才能はすでに広く知られていたのでしょう。・・・・


25:アリステウス(2)

ポテイダイアの件だけが理由ではありませんでしたが、スパルタの民議会は開戦を決定しました。(スパルタの監督官ステネラーイダースは)監督官の職権を発動して、ラケダイモーン人(スパルタ人)の民議会に決議を要求した。(中略)(彼は)「ラケダイモーンの諸君、和約はすでに破られ、アテーナイ人の侵略は事実であると思うものは、こちら側に立て」、と一方を指示し、「これと反対意見のものはそちら側に」、と示した。(スパルタ)市民らは立って二つの組に分かれたが、こうしてみると和約がすでに破られたと考える者がはるかに・・・・