神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

タソス:目次

1:フェニキア人のタソス

タソス島はエーゲ海の北の端に浮かぶ島です。タソスがギリシア人のものになったのは、BC 650年頃と比較的遅いです。では、それまではこの島にどの民族が住んでいたかといいますと、それはフェニキア人だったということです。こんなところにまでフェニキア人が来ていたか、と思うと意外な気がします。・・・・


2:テュロスのヘーラクレース

前回ご紹介したように、タソス島にその名を与えたというフェニキア人タソスは、ギリシア神話において、ゼウスに誘拐されたエウローペーを捜索する人の中に加えられました。そしてカドモスの兄弟または甥とされることもありました。ギリシア神話にはそのほかにもタソス島が登場する話があります。あまり重要な・・・・


3:タソス植民

BC 650年かその少し前、パロス島の住民テレシクレースがデルポイの神託に従って、パロス島の植民希望者を率いてタソス島へ植民しました。このことについて分かっていることはほとんどありません。若干の学者の説によれば、テレクシレースは女神デーメーテールの神官の家系に生まれた、ということです。この植民の・・・・


4:アルキロコス(1)

タソス市の建設者であったテレシクレースにはアルキロコスという名の息子がいました。彼はのちに古代ギリシアで有名な詩人になりました。もっとも彼はテレクシレースの正妻の子ではなかったようです。彼の生涯に関する伝承はいくつかありますが、英語版のWikipediaアルキロコスの項の記述によれば、どれもほとんど・・・・


5:アルキロコス(2)

前にも述べましたように、アルキロコスの生涯についての伝承はほとんど信憑性がないとのことですが、それでも彼の生涯をたどる努力をしてみましょう。彼は、タソスの植民市創立者であったパロス人の貴族テレシクレースの子としてパロス島で生まれました。母親の名前はエニポーといい奴隷であったといいます。・・・・


6:150年の空白

詩人アルキロコスが死んだのがBC 645年頃と推定されています。タソスについて次に書くことが出来るネタが、ミレトス人ヒスティアイオスによるBC 493年のタソス攻撃ですが、この間、約150年もあります。ここを何も書かずに次に進むのは何か気が引けます。とは言っても、私にはネタがないですし、どうしたものかと思います。・・・・


7:ペルシアの支配

BC 498年、小アジアに位置するギリシア人の諸都市、いわゆるイオーニア地方と、その北にあるアイオリス地方はペルシア王国の支配に対して反乱を起しました。これが後世、イオーニアの反乱と呼ばれることになる事件です。イオーニア地方やアイオリス地方から離れてしたタソスには、当初、この反乱の影響はありませんでした。・・・・


8:大軍の通過

タソスを占領したフェニキアの艦隊はその後西へアテーナイを目指して進みましたが、途中で嵐にあって艦船や兵士の多数を失ったため、遠征を中止して撤収しました。その後BC 490年に再度、遠征軍が組織されましたが、前回の嵐に懲りて今度はエーゲ海北岸に沿って進むことを避けて、エーゲ海の真ん中を島伝いに進むことにしました。・・・・


9:戦時下の古代オリンピック

この回では、このクセルクセスがギリシア本土に侵攻した年(BC 480年)のオリンピックでボクシングで優勝したタソス人テアゲネースのことを書くつもりでいました。しかし、書こうとした時に「あれ、ギリシア本土が丸ごとペルシアの支配下にされるかどうかという、この危急存亡の時に、オリンピックなんか・・・・


10:テアゲネース

このBC 480年の古代オリンピックで、ボクシングで優勝したのがタソスの人テアゲネースでした。テアゲネースについては周藤芳幸氏の「物語 古代ギリシア人の歴史」のひとつの章に、テアゲネースの一代記の形で紹介されています。ですから、それをそのままここに引用すればここでの記述は間に合うのですが・・・・


11:その後のタソス

格闘家テアゲネースの晩年は、自身の華々しい活躍にもかかわらず、タソスの衰退期にあたっていました。タソスはペルシア戦争後、アテーナイを盟主とするデーロス同盟に参加したのですが、アテーナイは自身の勢力が増大するにつれてタソスの内政に干渉し始め、タソスの命綱であった金鉱を明け渡すように圧力をかけてきたのでした。・・・・