神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ポーカイア:目次

1:ポーカイア建設

ポーカイアは、古代ギリシアの歴史家ヘーロドトスによれば遠洋航海のパイオニアだったということです。どこまで遠洋航海したかというと、ジブラルタル海峡を越えて今のスペインの大西洋岸まで交易網を拡げていました。しかし、そこにはすでにフェニキア人の交易網が存在しており、フェニキア人との抗争がポーカイアの歴史におけるひとつの特徴となっています。ファニキア人はギリシア人よりも早く遠洋航海貿易に乗り出しており、当時地中海はフェニキア人のものだったようです。そこに新参者として・・・・


2:故郷のポーキス

ポーカイアは、古代ギリシアの歴史家ヘーロドトスによれば遠洋航海のパイオニアだったということです。どこまで遠洋航海ポーカイアに植民した人々の故郷であったポーキスは、神話によればポーコスという人物が開発した(または征服した)とされており、このポーコスにちなんでこの地方をポーキスと呼ぶことになった、ということです。このポーコスの親については、アイギーナ島の領主アイアコスと海の女神プサマテーであるという説と、コリントスの領主オルニュトスの子(母親については不明)という説・・・・


3:マッサリア建設

ポーカイアが建設されてから200年ぐらいの歴史はよくわかりません。その後のことになりますが、信頼性の低い伝説として、「イーリアス」と「オデュッセイアー」を作ったと言われる伝説的な叙事詩ホメーロスが一時期、ポーカイアに住んでいた、という伝説があります。その伝説によればホメーロスはキューメーの市民権を得ようとしたのですが失敗したために、キューメーの近くのポーカイアに移住したということです。ホメーロスがなぜキューメーの市民権を得ようとしたのかといいますと・・・・


4:タルテッソスとの交易

ポカイア人はギリシア人の中では遠洋航海の先駆者であり、アドリア海、テュルセニア、イベリア、タルテッソスなどを発見したのもこのポカイア人である。彼らは航海には丸形の船を用いず、五十橈船を用いた。ヘロドトス著「歴史」巻1、163 から アドリア海イタリア半島の東側にある海で、イタリアと今でいうところのクロアチアとの間の海です。ギリシア本土の西側の海とつながっていますが、ギリシア本土の西側の海のことをギリシア人はイーオニア海と呼んでおり、その北に位置する「アドリア海」・・・・


5:ペルシア軍の包囲

さて、元々ポーカイアをはじめとするエーゲ海東岸のギリシア都市はリュディア王国の支配下にありました。しかしリュディア王国は、BC 546年にペルシアによって滅ぼされてしまいました。イオーニアのギリシア諸都市はペルシア王キューロスに、リュディアに服属していたのと同じ条件でペルシアに服属することを提案しましたが、キューロスによってその提案を拒否されました。ここでイオーニアのギリシア12都市が団結すればよかったのですが、自己主張の強い当時のギリシア人にとって、団結することが不得手でした。・・・・


6:コルシカ島への移住

ポーカイア人たちが国を捨てた行動は、後世の人々にも大きな印象を与えたようです。この事件の500年後、ローマの詩人ホラティウスは、自作の詩の中で、ポーカイアの人々が町を捨てたように、首都ローマを捨てるように人々に呼びかけています。なぜそんな呼びかけをしたかというと、ホラティウスは内乱が続く当時のローマの政情に絶望したからなのでした。ちょうどフォカイアの町全体が、呪詛を伴った誓いを立てて、田畑や祖国の家々を逃れ、神殿すらも、野猪や獰猛な狼どもの住処となれとばかりに・・・・


7:ディオニューシオス(1)

40年余り、ペルシアの支配下でおとなしくしていたポーカイアでしたが、BC 499年に南のミーレートスが首謀者になってペルシアに対して起こした反乱にはポーカイアも参加しました。後世イオーニアの反乱と呼ばれた反乱です。この反乱は6年間続きました。その間に、首謀者だったミーレートスのアリスタゴラースが逃亡する、という事件が起こっています。そして指導者不在になったところに、ペルシア軍が反乱の本拠地ミーレートスに攻めてくる事態になりました。これを知って、ポーカイアを含むイオーニア諸都市は・・・・


8:ディオニューシオス(2)

このようにイオーニア軍内で内輪もめが起ったのですが、この暗雲はさらに広がることになりました。イオーニア諸都市のひとつであるサモスの司令官はこの戦いは負けると踏んで、戦いが始まったならば戦場を放棄する決心をしたのです。サモスは60隻の戦闘船を出していました。さて戦端が開かれると、サモス艦隊はすぐに戦場から離脱してサモス島に向いました。ただし、離脱命令を拒否した11隻は・・・・


9:パルメニデース(1)

話を、BC 545年のペルシアによる最初のポーカイア侵攻に戻します。この時ポーカイアの町を捨てたポーカイア人たちは最初、コルシカ島の植民市アラリアに移住し、その後、カルキスが建てたイタリア半島のつま先にある植民市レーギオンに居候し、さらにその後、そこから出てイタリア半島を北上してヒュエレの町を建てたのでした。ヒュエレはその後名前をエレアと変えました。エレアは現在のイタリアのアシェーアという町で、以下に示す位置にあります。この町の建設について、コロポーン出身の哲学的詩人・・・・


10:パルメニデース(2)

「昼」(真実の世界)と「夜」(通常の人間の認識の世界。迷妄の世界)とを分かつ門を通って、パルメニデースを載せた馬車は「夜」の世界から「昼」の世界へ進みます。さてここに女神のいまして ねんごろに私を迎え わが右の手をその御手にとって 私に言葉をかけて次のように語りたもうた。「おお、若者よ、手綱とる不死の馭者たちにともなわれ馬たちに運ばれて わが館まで到り着いた汝よ、よくぞ来ました、この道を来るように汝を送り出したのは、けっして悪い運命(さだめ)ではない・・・・


11:パルメニデース(3)

前回、自分の理解の届く範囲内で何とかパルメニデースの思想を紹介したつもりでしたが、その後Wikipediaを読んでいて、プラトーンの「テアイテトス」の中でソークラテースがこんなことを言っていたのを知り、少し後悔しました。その本の中では、ソークラテースが少年テアイテートスに「知識とは何か」と問いかけ、ソークラテース得意の問答を進めていきます。その中でソークラテースはパルメニデースの学説をもち出してきたりするのですが、その説の妥当性を検討しようと提案するテアイテートスに対して・・・・