神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

トロイア:目次

1:トロイの木馬

ギリシア神話英雄伝説の中でトロイア戦争の物語は大きな位置を占めています。今までこのブログでも何回かトロイア戦争について言及してきました。そこで、いつかはトロイアを取り上げないといけないな、と、ずっと思ってきていました。トロイア戦争について聞いたことのない人でも、「トロイの木馬」という言葉を聞いたことがある人は多いかもしれません。大きな木馬の中にギリシアの兵士を隠しておき、その木馬をトロイアの人々が城の中に入れてしまったために、トロイアが陥落した、という話です。ちょっと考えると、そんな危ない物を何で城壁の中に入れてしまったんだよ・・・・


2:トロイア戦争の原因

(伝説の中で)トロイアは滅亡しました。しかし、それが人々の印象に残るような話であるためには、滅亡前のトロイアが栄華を極めているほうがよいでしょう。そのためか知りませんが、ギリシア人は伝説の中で、滅亡前のトロイアを繁栄した都市として描いていました。例えば悲劇詩人エウリーピデースの悲劇「トロイアの女」では、ギリシア将兵に捕虜にされたトロイアの王族たちの悲惨なありさまを描いていますが、その中で、年老いたトロイアの王妃ヘカベーに、以下のようなセリフを吐かせています。このセリフは、すでにトロイア将兵は殺され、女性だけが捕えられ、さらに・・・・


3:伝説における初期のトロイア

現実のトロイアについてお話しする前に、伝説上のトロイアについて、その起源から、それぞれの時代にどのようなことがあったと伝えられているかを、ご紹介したいと思います。トロイアの伝説の範囲は、単にトロイア戦争に留まらないことが分かると思います。ある時、トロイア戦争の合戦の中で、トロイア側の将アイネイアースは、ギリシア第一の勇士アキレウスと対決する際に、彼に向って自分の素性を長々と述べています。日本の中世の合戦で「我こそは何々」と名乗りを挙げる習慣と似た習慣なのでしょう。だがもし御身が、我らの世系を詳しく訊ねたまおうとて、委細を知ろうと・・・・


4:ラーオメドーン

ガニュメーデースの兄でエリクトニオスの息子であるイーロスがトロイアの王位を継ぎました。このイーロスがトロイアの中心になる城を作ったため、その城はイーロスにちなんでイーリオンと呼ばれるようになりました。イーロスがイーリオン建設時に神に祈ったところ、女神アテーナーの像が天から降りてきました。これはイーリオンを守護する力を持つ神像でパラディオンと呼ばれました。以後、パラディオンはトロイアの聖物としてアテーナー神殿の奥に安置されました。イーロスの跡を継いだのが息子のラーオメドーンで、この王は信義を守らない人物だったと伝えられています。・・・・


5:ティートーノス

トロイアにまつわる伝説はまだまだあって、曙の女神エーオースにさらわれたティートーノスもトロイアの王族で、ラーオメドーン王の息子でした。ホメーロスの「イーリアス」では、朝が来たことを表すところで以下のようなフレーズが登場します。いま暁(あかつき)(の女神)は閨(ねや)から、誇りも高いティートーノスの傍(かたわ)らより身を起した。不死の神々、また人間らに 光をもたらそうとて。ホメーロスイーリアス」第11書 呉茂一訳 より。「オデュッセイアー」の第5書でもほぼ同じフレーズが登場します。これは暁の女神エーオースの夫がティートーノスである・・・・


6:現実のトロイア

今まで伝説上のトロイアについてご紹介してきました。では、現実のトロイアはどのようなものだったのでしょう。トロイアを発掘したのは、有名なシュリーマンで、1872年のことです。私の子供の頃(50年も前のことですが)は、シュリーマンは偉人の扱いでした。シュリーマンについては、子供の頃本で読んだトロイアの陥落についての記述から強い印象を受け、いつか必ずこのトロイアを探し出して見せる、と決意したことや、そのために一生懸命働いて大金持ちになったこと、そしてその金を使ってトロイアを探し出し、当時の学者たちがトロイアは詩人ホメーロスの想像の産物に過ぎないと・・・


7:トロイア人はギリシア人か?

ギリシア神話に登場するトロイア人ですが、彼らは何人だったのでしょうか? ギリシア人だったのでしょうか? イーリアスでは、対戦する武将たちは互いに相手を威嚇する言葉を投げつけていたりしており、ギリシア人とトロイア人は言葉が通じていたように描写しています。たとえばギリシア側の勇士アキレウストロイア側の将アイネイアースは戦場で以下のようにやり取りをしています。さても二人が 互いに対(むか)って進み寄り、いよいよ間近になったおり、先を越して、勇ましく脚の迅(はや)いアキレウスが話しかけるよう、「アイネイアースよ、どうして御身は、これほど遠く・・・・


8:ヒッタイト王国の動乱

トロイア戦争をBC 1200年頃と考えて、その頃のヒッタイト王国ヒッタイト帝国と書かれる場合もあります)の歴史を調べたところ、この頃にヒッタイト王国が滅亡していることに気づきました。トロイアの滅亡とヒッタイト王国の滅亡の間には、それほど年代差がないようです。トロイアヒッタイトも同じ原因で滅亡したのでしょうか? あるいは、トロイアには今までヒッタイトという強力な後ろ盾があったのが、ヒッタイトが滅んでしまったためにその後ろ盾がなくなり、ギリシア人がそれをチャンスと見てトロイアに攻め込んだのでしょうか? ヒッタイト語の文書には、ウィルサ(Wilusa)という・・・・


9:ヒッタイト文書におけるウィルサ(1)

ヒッタイトの文書に登場するウィルサという国がどうやら当時のトロイアのことを指しているらしい、ということはお話ししました。では、その文書にはウィルサについてどのようなことが書かれているのでしょうか? USAのWikipedaにはこれに関連する多数の項目があるようですが、まだ全体像をつかめるほど読み切れていません。それに各項目の内容で同じ事柄について少しずつ相違があったりするので、どちらが正しいのか迷ってしまうこともあります。それでも、今まで読んだところから分かることをご紹介したいと思います。USAのWkipediaの「ウィルサ」の項には・・・・


10:ヒッタイト文書におけるウィルサ(2)

昨日の記事は、私が最近知ったことを整理出来ないままに載せてしまいました。今日は昨日の記事を見直して、結局ヒッタイトの諸文書からウィルサ(=トロイア)について何が分かったのかを、まとめてみたいと思います。昨日の4つの文書の内容をまとめると、以下のようになると思います。ここではウィルサのことをあえてトロイアと置換えて書いてみます。トロイアは少なくともBC 1320年頃からヒッタイトに服属する国であった。(「アラクサンドゥ条約」より) トロイアがピヤマ・ラドゥに攻撃された際、ヒッタイトの軍勢がその救援に赴いた。(「マナパ・タルフンタ書簡」より)・・・・


11:遺跡の層(IからVIIbまで)

今度は遺跡の層からどのようなことが分かっているのか調べてみます。一番下の層はトロイアIです。この遺跡はコルフマン教授によればBC 2920年からBC 2550年頃のものであるということです。BC 2920年というとエジプトでも古王国が始まる前で、初期王朝の時代です。エジプトのギザの大ピラミッドで有名なクフ王が活躍したのがBC 2570年頃で、このトロイアIの終り近くになります。トロイアIの住民が、のちのトロイア戦争の頃の住民と同じ民族だったかどうかは分かりません。この頃にはヒッタイト王国もまだありません。この頃のトロイアの城壁で囲まれた部分は直径100メートル程度の・・・・


12:遺跡の層(VIIbからVIIIまで)

伝説によれば、トロイア戦争後のトロイア無人になったのでした。トロイアの人々は殺されたか、トロイアを脱出したか、捕虜としてギリシア兵に連行されたかのいずれかで、トロイアに残る人々はいなかったことになっていました。しかし、考古学が明らかにするところでは、BC 1190年頃のトロイア陥落ののちしばらくしてトロイアは再建されたそうです。これは現代ではトロイアVIIb1と呼ばれています。このトロイアVIIb1はトロイアVIIaの文化を引き継いでいるので、トロイア戦争の生き残りによって建設されたものと推定されています。しかしトロイアVIIb1は50年ほどで終わりを告げます。・・・・


13:パラディオンの行方

前回の記事で、天から降りて来たという聖像パラディオンのことに少し触れたので、この聖像の行方についてお話しします。考古学から急に伝説の話に戻ってすみません。パラディオンは、それを保持している町を守る力があると考えられていました。それはかつてトロイアにあったと伝説は述べています。そしてトロイアは滅びたのでした。そうするとパラディオンはどこに行ったのでしょうか? これについてはいろいろな説があります。一番古い説と思われるのは、トロイア戦争のさ中に、ギリシアの将ディオメーデースがトロイアに忍び込んで奪い取り、それを自分の故郷のアルゴスに持ち帰った・・・・


14:アテーナー神殿

それでは、ペルシア王クセルクセースがトロイアアテーナー神殿に千頭の牛を捧げたところに戻ります。このあとクセルクセース率いる大軍はアテーナイ沖のサラミースでギリシア連合軍に惨敗します。そのことを踏まえた上で先に引用したヘーロドトスの記事を見直してみると、それの予兆らしきものが書かれていることに気づきます。まず、トロイアに到着したとたんにペルシア軍は「雷を伴った旋風」に襲われています。・・・・やがてイダの山に到着すると、そこから道を左手にとってイリオン(トロイア)の地に入った。遠征軍はここで先ず、イダ山麓に夜営中、雷を伴った旋風に襲われ・・・・


15:ローマ都市としてのトロイア

遺跡の層のトロイアVIIIはBC 85年に終わり、この年からはトロイアIXが始まります。では、BC 85年に何があったのでしょうか? 実は、この年にトロイア共和制ローマの将軍フィンブリアによって破壊されたのでした。この時ローマは、黒海沿岸にあったポントス王国のミトリダテース6世と戦争中でした。ローマは、BC 146年にギリシア本土を併合しアカエア属州とマケドニア属州とし、BC 133年に小アジアの一部を支配していたペルガモン王国をその国王から寄贈されアジア属州として編入していましたが、これらの領土を奪おうとミトリダテースが軍を小アジアに進め、ローマとの・・・・


16:伝説と歴史の間

私はいつもならエーゲ海に面したある町について、神話・伝説から始めて徐々に歴史につなげるように記述をしていくのですが、このトロイアの回は途中でヒッタイトの文書を取り上げたために、ある時代について一方は伝説としての記述、もう一方は同時代の文書から推定される歴史としての記述、の両方が出て来ることになってしまいました。その伝説と歴史がある程度似た内容であれば混乱はしないのですが、今回のトロイアの場合、私には両者がかなり異なって見えてしまったため戸惑っています。何よりも異なっているのはヒッタイトの扱いです。・・・・


17:気になること

トロイアについては、書き残した気になることが多いですが、整理がついていません。その中で2つほどお話したいと思います。一つはトロイア戦争以前にトロイアギリシア本土の近くまで攻めて来たという伝説があることです。ヘーロドトスの「歴史」の中にそのような記述が、断片的ではありますが、ありました。以下は、BC 480年ペルシア王クセルクセースがギリシア本土を征服するために編成した軍の規模の巨大さを説明する文章ですが、その中にトロイアに関する記述がありました。以下の文中でテウクロイ人と書かれているのがトロイア人のことです。まことにこの遠征軍は・・・・