神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エレトリア:目次

1:エレトリア建設

エレトリアはエウボイア島(現代名:エヴィア島)にある都市です。このエウボイア島というのは大きな島で、日本でいえば佐渡島よりも大きく、四国よりも小さいという感じです。この島のおもしろいところは、大陸に、ほぼ、くっつきそうに見えながら、わずかに(40mほど)離れているので島になっている、というところです。この海峡をエウリポス海峡といいます。エレトリアはこのエウリポス海峡のすぐ東に位置します。今回、エレトリアの建設について調べていたところ、高津春繁氏の「ギリシアローマ神話辞典」に、次のような記述を見つけました。メラネウス。アルケシラーオスの子。・・・・


2:母市レフカンディ

一方、考古学からはエレトリアの起源がBC 825年頃と推定されています。これはトロイア戦争がもしあったとした場合の推定年代であるBC 13世紀またはBC 12世紀に比べると、随分新しい年代で、トロイア戦争よりも約400年のちのことになります。このような考古学による推定を、ご紹介したいと思います。エレトリアの北西には、レーラントス平野という肥沃な平野が広がっています。このレーラントス平野の真ん中を流れているのがレラス川で、このレラス川の河口近くに古代の遺跡があります。この遺跡であった町が活動していた古代に、この町が何と呼ばれていたのか、現代では分からないままです。・・・・


3:ゲピュライオイ

エレトリアの建設はBC 9世紀ということになりそうですが、それ以前のことと思われる伝説もあるので、ご紹介したいと思います。エウボイア島の西海岸に面した大陸側はボイオーティア地方というのですが、そこに北からボイオーティア人が侵入してきて、元から住んでいたゲピュライオイ人を追い出す、という事件が起きています。ゲピュライオイ族というのは、本来エレトリアに発した部族であると自称しているが、私が調査して明らかにしたところでは、今日ボイオティアと称されている地方に、カドモスとともに移住してきたフェニキア人であり、この地方のタナグラ地区に・・・・


4:レーラントス戦争

このように当時のギリシアのなかでも飛びぬけて繁栄していたらしいエレトリアとカルキスですが、BC 710年頃、この両者が互いに戦うことになります。戦争の原因はレーラントス平野の領有権でした。それまで両者が共同で使用していたレーラントス平野が急に争点になったのは、干ばつによる饑饉が原因だったと推定されています。この戦争が起きたのが古い時代のため、文献資料が少なくて全容が分かりません。では、その少ない文献資料にこの戦争のことがどのように書かれていたかを、ご紹介していきます。まずトゥーキュディデースは、ペロポネーソス戦争を「今次大戦」・・・・


5:クレイステネースの婿選び

BC 572年にペロポーネソス半島のシキュオーンの僭主であったクレイステネースが、自分の娘アガリステの婿を全ギリシアから募集したことがありました。その時にエレトリアからはリュサニアスという人物が応募しました。当時隆盛のエレトリアからはリュサニアスがきたが、エウボイアからの参加者は彼独りであった。ヘロドトス著「歴史」巻6、127 から この文章から察するに、BC 572年時点のエレトリアは国力が盛んだったようです。残念ながらヘーロドトスはこのリュサニアスについてこれ以上のことは書いていません。それでも何か雰囲気が分かるかもしれないので、・・・・


6:イオーニアの反乱

BC 572年、リュサニアスがシキュオーンに向った時から11年後、エレトリアは亡命してきたアテーナイのペイシストラトスとその一族を迎え入れます。ペイシストラトスはアテーナイの僭主でしたが、政変によりアテーナイから亡命してきたのでした。彼はすぐに諸都市の援助を受けてアテーナイに進攻し、再び僭主に返り咲きました。エレトリアがなぜペイシストラトスの亡命先として選ばれたのか、興味がありますが、まだ調べがついていません。これに関しては、ギリシア神話でアテーナイ王テーセウスがメネステウスによって追放され、テーセウスがスキューロス島へ、テーセウスの息子たちが・・・・


7:第一次ペルシア戦争

イオーニアの反乱は6年続きました。しかし結局反乱はペルシアによって鎮圧され、イオーニア諸都市には罰が下されました。イオーニアの反乱の後始末をつけた後、ペルシア王ダーレイオスは、エレトリアとアテーナイに報復の軍を進めることを計画しました。ダーレイオスの言い分では、エレトリアとアテーナイはペルシア側から何も害を加えられていないのに、ペルシアを攻撃した、これは報復の正当な理由になる、というものでした。その役目を言い渡されたのはマルドニオスという若いペルシアの貴族でダーレイオスの娘と結婚する栄誉を得た者でした。しかし、マルドニオスの遠征軍はエレトリアに・・・・


8:エレトリアの陥落

とうとうペルシア軍はエレトリア領に上陸し、町を包囲攻撃します。ペルシア軍は来航して船をエレトリア領内のタミュナイ、コイレアイおよびアイギリアに着けた。これらの場所に船を着けるとただちに馬を船からおろし、敵軍攻撃の準備にかかった。しかしエレトリア側はもとより迎撃する意図もなく、町を放棄せぬ説が大勢を制してからは、何とかして城壁を守ることのみに専念していた。やがて城壁に対して激しい突撃が行なわれ、六日間にわたる間に双方とも多数の死者を出した。七日目に入って町の有力者であったアルキマコスの子エウポルポスとキュネアスの子ピラグロスの二人が・・・・


9:アルテミシオンの海戦

BC 480年、新しくペルシア王に即位したクセルクセースが大軍を率いてギリシア本土に進攻してきます。今回はダーダネルス海峡(当時の呼び方ではヘレースポントス海峡)を渡り、今のブルガリア経由で、北から海陸2つの部隊が歩を揃えて南下してきました。ギリシア軍は陸上部隊テルモピュライの隘路で、海上部隊をエウボイア島の北端アルテミシオンでペルシア軍を迎えました。水軍に配置されたギリシア諸国を次に列挙すれば、先ず百二十七隻の船を出したアテナイ人があり(中略)カルキス人はアテナイの提供した船二十隻に乗り組み、アイギナ人は十八隻、シキュオン人は十二隻・・・・


10:サラミースの海戦

アテーナイ沖にサラミースという名前の島があります。トロイア戦争の英雄の一人アイアースの出身地と伝えられる島です。このサラミースとアテーナイの間の海域にギリシアの水軍は集結しておりました。エレトリアが派遣した7隻の軍船もそこに参加していました。ここでギリシア軍は奇跡的な勝利を得るのですが、このサラミースの海戦でエレトリア軍がどのように活躍したかについては記録がないようです。以下、ギリシアの水軍全体にどのような出来事があったかをご紹介して、その中でエレトリアの人々がどう振る舞ったかを想像していきたいと思います。・・・・


11:エウボイアの反乱(1)

その後エレトリアは、アテーナイ主導で組織されたデーロス同盟に参加します。しかしアテーナイはこの同盟を利用して勢力を伸ばし、他の同盟国を圧迫していきます。プラタイアの戦いから32年たったBC 447年、アテーナイはエウボイア島の南端の町カリュストスに1000名の植民者を送り込みました。このことはエレトリアをはじめとするエウボイアの諸都市にアテーナイへの警戒心を植えつけました。さらにはエウボイアの富裕階級で当時亡命していた者たちが、ボイオーティアのアテーナイからの離叛に加担して成功するという事件がありました。これらのことが要因になってBC 446年・・・・


12:エウボイアの反乱(2)

エレトリアの対岸のオーローポスからアテーナイ側警備隊が追放されてから半年後、(スパルタが中心になっている)ペロポネーソス海軍がようやくオーローポスに到着しました。これを知ったアテーナイは、まだ自分たちに服していると思い込んでいるエレトリアを防衛するために艦隊を送り出しました。ペロポネーソス側の船隊は、沿岸航路を進み、スーニオン岬を廻ると、トリコスとプラシアイの中間地点に投錨、後刻オーローポスに到着した。アテーナイ人は、本国は内乱寸前にあったけれども、一刻も早く、最重要の地を危険から守るべく(というのはエウボイアのことであり、アッティカの・・・・


13:画家ピロクセノスと哲学者メネデーモス

その後、北方のマケドニア王国が勢力を伸ばし、ギリシアのほとんどを支配しました。エレトリアは独立を失いましたが、マケドニア支配下で新たな繁栄を迎えました。この頃の著名なエレトリア人として、画家のピロクセノスと哲学者のメネデーモスがいます。マケドニアの王の中で一番有名なのが、アレクサンドロス大王アレクサンドロス3世)ですが、歴史の教科書などでよくアレクサンドロス大王の姿として出て来るモザイク画があります。下に示すような絵です。もっとズームアウトすると下のようになります。これは、イタリアのポンペイから出土したモザイク画で、ピロクセノスの時代よりだいぶ下る・・・・