神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メーロス:目次

1:メーロス島植民

今回はミロのヴィーナスが出土したことで有名なメーロス島(現在名ミロス島)を取り上げます。ミロのヴィーナスの「ミロ」というのは「ミロス島(メーロス島)」のことです。メーロス島はキュクラデス諸島の中に位置し、その大きさは日本でいうと小豆島ぐらいです。メーロス島は、漢字の「凹」の字のような形をしていて、この形が波の穏やかな良港を作っています。メーロス島ギリシアの古典時代にはドーリス人の島であり、スパルタからの植民による建設であると伝えられていました。メロス人はスパルタからの移住民であるが・・・ヘロドトス著「歴史」巻8、48・・・・


2:フィラコピ遺跡

考古学のほうに目を向けてみますと、メーロス島にはフィラコピ遺跡というBC 2300年までさかのぼることが出来る遺跡があります。この遺跡から分かる最初の時代はBC 2300年からBC 2000年までの時代で、キュクラデス文明の中の一時期と位置付けられ、この時期のことをフィラコピで典型的に出土される物の文化という意味で、フィラコピ文化と呼んでいます。その後もこの遺跡には人が連続して住み続けたということです。BC 1550年頃には、下の画像にあるようなトビウオの生き生きとした壁画が作られました。このトビウオの壁画は、同時代のテーラ島の壁画を思い起させます。・・・・


3:リンゴのマーク

ギリシア本土が動乱を迎えるBC 1200年頃になると、フィラコピは住民から放棄されてしまいます。おそらく本土での動乱の影響なのでしょう。その頃のことについて伝説は何も語ってくれません。その後、メーロス島にドーリス人がやってきます。フェニキア人も一時期メーロス島に住んでいたようです。どちらが先にメーロス島にやってきたのか、調べてもよく分かりませんでした。この頃、フェニキア人とカリア人は、エーゲ海の島々に広く植民していたのでした。トゥーキュデュデースは「戦史」の中で「当時島嶼にいた住民は殆どカーリア人ないしはポイニキア人(=フェニキア人)であ」った(巻1、8)と述べています・・・・


4:メーロス対話(1)

メーロス対話というのは、ペロポネーソス戦争のさなか、メーロスに侵攻してきたアテーナイ軍からやってきた使者とメーロス島の代表者たちの間でなされた、とトゥーキュディデースが自著「戦史」の第5巻で描いた対話です。その対話は詳細なものであり、どうしてこのような対話の詳細を当事者でもないトゥーキュデュデースが知ることが出来たのか、という疑問が生じます。そのため、この対話が本当になされたのかどうかを疑問視する説も多いです。しかしたとえこれがトゥーキュディデースの創作であったとしても、強国が弱小国に対して主張する強圧的な論理を活写したものとして、そして今日においても・・・・


5:メーロス対話(2)

しかしアテーナイ側は、メーロス側が抱く希望というものは根拠がないと反論します。希望とは死地の慰め、それも余力を残しながら希望にすがるものならば、損をしても破滅にまで落ちることはない。だが、手の中にあるものを最後の一物まで希望に賭けるものたちは(希望は金を喰うものだ)、夢破れてから希望のなんたるかを知るが、いったんその本性を悟ったうえでなお用心しようとしても、もはや希望はどこにもない。諸君は微力、あまつさえ機会は一度しかないのだから、そのような愚かな目にあおうとせぬがよい。また人間として取りうる手段にすがれば助かるものを・・・・


6:メーロスのディアゴラス

メーロス島がアテーナイ軍によって包囲された頃、アテーナイで活躍していた一人のメーロス人がいました。彼の名はディアゴラスといい、最初は詩人だったのですが、のちに哲学者になりました。彼は古代では珍しいことに「無神論者」と呼ばれて非難されていました。しかし「無神論者」という言葉は往々にして非難のために使うレッテルであったので、本当に彼が無神論者だったのかどうかは分かりません。BC 1世紀のローマの政治家、弁論家、著作家であったキケロがディアゴラスについて、こんな話を伝えているそうです。ある時、ディアゴラスの友人はディアゴラスに神々の存在を納得してもらいたくて・・・・


7:メラニッピデース

哲学者(メーロスの)ディアゴラスがアテーナイで活躍していた頃、もう一人のメーロス人もアテーナイで活躍していました。その人の名はメラニッピデースといい、ディテュランボスというジャンルの歌を作詩し、演奏する人でした。つまり、詩人であり音楽家であったのです。古代では、詩人は同時に歌手、演奏家でもありました。ディテュランボスというのは、酒の神ディオニューソスに捧げる舞踊で、その起源は宗教儀式にありました。日本語版のウィキペディアは以下のように説明しています。ディテュランボス、酒神讃歌は、古代ギリシアの讃歌の一種。元々はディオニューソス神を・・・・


8:ミロのヴィーナス

メーロスは、BC 416年のアテーナイ軍によるメーロス島占領の際、成人男子全員が処刑され、女性と子供は奴隷にされる、というむごい目に会いました。そしてメーロス島にはアテーナイ市民による入植者500名がやってきました。その後、ペロポネーソス戦争末期のBC 405年、スパルタの将軍リューサンドロスはアテーナイ人入植者をメーロス島から追放し、かつてのメーロス人の生き残りに島の支配権を取り戻させました。しかし、メーロスは独立を失い、スパルタの支配の下に入りました。その後、スパルタの覇権も破れ、新興のマケドニア王国のフィリップ2世によってギリシア本土の・・・・