神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

テーノス:目次

1:カライスとゼーテース

テーノスはキュクラデス諸島の中の1つの島で、アンドロス島、ミュコノス島、デーロス島のそばにあります。近現代ではこの島は奇跡の聖母マリアのイコン(聖なる絵)の伝説による巡礼の地として知られています。すなわち、1822年に修道女ペラギアの前に聖母マリアがその姿を現し、このイコンが埋められている場所を教えた、そしてその場所からイコンが発見された、という奇跡です。しかし、このブログは古代ギリシアの時代を話題にしていますので、この話はここまでとして、テーノスの古代を探っていきます。・・・・


2:極北人からの捧げもの

テーノス島が登場するもう一つの神話は、北の果ての国に住み、アポローン神を崇拝する極北人(ヒュペルボレオイ)という神話的な種族が、アポローン神の聖地であるデーロス島に捧げものを送る際に、その供物がテーノス島を通って送られた、というものです。この話は歴史家のヘーロドトスが伝えています。ところで極北人について、他と比較にならぬほど多くを語っているのはデロス人である。そのいうところによれば、麦藁に包んだ供物が極北人の国から運ばれてスキュティアに着き、スキュティアからは・・・・


3:カーリア人

テーノスが登場する神話として私が見つけることが出来たのは以上の2つだけでした。そこで次に、テーノス島の近くにあるデーロス島に関する伝説のなかにテーノスの姿が何か見えないかと思って、調べてみました。アニオスはデーロス島の伝説的な最初の王で、かつアポローンの神官でしたが、彼について英語版のWikipediaは以下のように記していました。アニオスには、オイノトロポイとして知られるオイノー、スペルモー、エライスという3人の娘と、アンドロス、ミコノス、タソスという3人の息子がいました。・・・・


4:レーラントス戦争

BC 8世紀頃、ギリシア世界の中で一番繁栄していたのは、エウボイア島のまん中あたりにある2つの都市、カルキスとエレトリアでした。ところで、このカルキスとエレトリアはBC 710年頃から戦争状態になります。原因は、両都市の間にあるレーラントス平野の領有権でした。現在この戦争はレーラントス戦争と呼ばれています。レーラントス戦争は、古い時代に起きたため文献資料が少なくて全容が分かっていません。歴史家ヘーロドトスは、ミーレートスがペルシアに対して反乱を起こした時にエレトリアが援軍を・・・・


5:ポリュクラテース

テーノスはBC 6世紀後半サモスの僭主ポリュクラテースの支配下にあったかもしれません。少なくともテーノス島のすぐ近くにあるデーロス島は一時期ポリュクラテースの支配下にありました。そのことからテーノスも同じようにポリュクラテースの支配下にあったのではないか、と推測しました。ポリュクラテースはエーゲ海全体の支配を目指していましたが、その途上でペルシア人オロイテスに騙されて殺されました。サモスを掌握した当初、ポリュクラテスは国を三分して兄弟のパンタグノスとシュロソンに・・・・


6:ペルシア軍の侵攻

この時のペルシア軍のナクソス侵攻は失敗しました。しかし、ペルシアは9年後(BC 490年)にまたナクソスに侵攻します。今回はナクソスだけでなく、アテーナイとエレトリアをも標的にしていました。というのは、BC 499年にペルシア支配下のイオーニアの諸都市が反乱を起こした(イオーニアの反乱)のですが、そのときにアテーナイとエレトリアはイオーニア側に援軍を送ったからです。ペルシア軍がナクソスを占領すると、テーノスにはデーロス島からの避難民がやってきました。彼ら(=ペルシア海軍)がイカロス海から・・・・


7:サラミースの海戦

この時のペルシア軍のギリシア侵攻は、アテーナイによってマラトーンの戦いで食い止められます。彼らはアテーナイに敗北してペルシアへ引き返していきました。とはいえ、テーノス人はペルシアの軍事力の大きさを印象付けられたのでした。10年後のBC 480年、ペルシアは再びギリシア本土に攻めてきました。新しく即位したペルシア王クセルクセースは、ギリシア本土全部を征服するつもりで、陸海の大軍を自ら率いて北から攻めてきました。このときペルシア王からの使者がテーノスに来て、軍船を派遣して・・・・