神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

パロス:目次

1:はじめに

ロス島エーゲ海の中ほどにある島です。その東側にはすぐのところにナクソス島が迫っています。地図を拡大するとこのようになっています。すぐ東隣のナクソス島はパロス島より大きく、また人口も多かったのでした。そして、パロス島ナクソス島との間は8kmぐらいしかありません。このことは古代においてナクソスがパロスにとって脅威だったことを示しています。パロス島の西には小さなアンティパロス島があります。アンティというのは日本語でいう「アンチ(=反)」ということですので、この島は「反パロス島」という意味なのでしょうか? おそらくは「アンティ」というのは単に・・・


2:ミノア文明下のパロス

ロス島はキュクラデス諸島に属しています。キュクラデス(Kykládes)というのは、英語のcircleと同じ語源で、「円」を意味します。神聖なデーロス島をめぐって島々が円をなして配置されている、という意味で古代からキュクラデスと名付けられています。でも地図で見るとデロス島はけっして中心に位置しておらず、それを取り囲む島々も「円」ではなくて、かなり縦に細長い感じに並んでいます。このキュクラデス諸島には、BC 3000年からBC 2000年の間、キュクラデス文明という独自の文明が栄えていました。キュクラデス文明で特徴的なのは、大理石を彫って作られた抽象的な・・・・


3:ヘーラクレースの来攻

ロス島が登場する数少ない伝説のひとつは、英雄ヘーラクレースが、十二の功業のひとつ、アマゾーン族の女王ヒッポリュテーの帯を持ってくる話の中の、エピソードになっているものです。(ヘーラクレース)そのエピソードを紹介する前に、(パロスから話が離れてしまいますが)ヘーラクレースの十二の功業とはどういうものなのかをお話しします。ある時、ヘーラクレースは女神ヘーラーから送られた狂気によって自分の子供たちを殺してしまったのでした。その罪を償う方法をデルポイの神託に彼が尋ねたところ神託は、ミュケーナイ王エウリュステウスに12年間奉仕し・・・・


4:イオーニア人の到来

BC 1500年頃にはエーゲ海の覇権はクレータ島からギリシア本土に移ったらしいことが考古学的な証拠から推測されるのですが、その時にパロス島に本土のギリシア人が到来したのかどうか私は知りたいと思っています。しかし調べても、それに関する情報を得ることが出来ませんでした。その後BC 1190年頃にはトロイアの陥落があったと推定されています。そしてその後、数十年の内にギリシア本土の各地の宮殿が破壊されたのでした。これら一連の出来事は、考古学ではBC 1200年のカタストロフと呼ばれる現象で、それはエーゲ海に留まらず、今のイスラエルあたりまで広がる大規模な・・・・


5:アルキロコス(1)

パロスの女神デーメーテールの神官にしてタソス市の建設者であったテレシクレースには、アルキロコスという名の息子がいました。この息子には次のような伝説が、パロス出土の碑文に残っています。人々の語るところによれば、アルキロコスがまだ若かった頃、レイモーネス Leimones という田舎の村へ牛を売りに引いてゆくように、父テレシクレスによって使いに出された。彼は、月の輝く夜の間に早起きして、その牝牛を町へ引いて行った。そしてリッシデス Lissides という場所で来たとき、女たちの群を見たように思った。この女たちは仕事を終えて町へ戻るのだろうと彼は考えて、近づきながら・・・・


6:ギュゲース

このギュゲスの話は、同じ頃の人であるパロスの詩人アルキロコスも、そのイアンボス六脚詩に歌っている。ヘロドトス著 歴史 巻1、12 から とヘーロドトスが書き残してくれたのですが、アルキロコスのこの詩は残っていません。代わりにヘーロドトスがこの話を伝えています。パロスから話が横道にそれますが、ヘーロドトスの伝えるこの話は面白いので、ここでご紹介します。この話は小アジアの内陸にあるリュディア王国の首都サルディスを舞台にしています。元よりこれは伝説であって真実ではないでしょう。この話が始まる時点でリュディアの王はカンダウレスという・・・・


7:アルキロコス(2)

話をアルキロコスに戻します。彼は戦士であることを誇りに思っていました。しかし、名誉の戦死という概念は彼にはありませんでした。誰でも死んでしまえば、市民の間で尊敬もされず、有名にもならぬであろう。吾々生きている者は、むしろ生者の好意を追い求める。死者には常に最悪の分け前が当る。 (64D)「アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」藤縄謙三著 より だから戦場では生き延びなければなりませんでした。これは彼がタソスに植民してからの話ですが、原住民のトラーキアのサイオイ族と戦った際、彼は自分の楯を捨てて逃げたのでした。・・・・


8:ナクソスとの抗争

晩年のアルキロコスについて述べた碑文が今も残っています。それはBC 1世紀に作成されたと推定される碑文なので、アルキロコスの時代から600年ほどのちのことです。ですのでどこまで信用してよいか分かりませんが、そこにアルコーン(=執政官)という言葉が登場します。このことはBC 650年頃のパロスが王制ではなく、貴族制か民主制であったことを示しています。時代的に民主制は早過ぎると思うので、たぶん貴族制だったと思います。1900年に発見された石碑(A)の第一欄では、まずタソス植民に関係した事実を述べた上で、次にナクソスとの戦争に話題を転じて、次のように述べ・・・・


9:リュサゴラス(1)

ここからは、単なる私の想像の話であり、少しでも反証が出てきたら、たちまち崩れてしまうようなお話です。そんなお話ですが、お付き合い下さい。私の想像はヘーロドトスの次の記事を元にしたものです。ミルティアデスはテイシアスの子リュサゴラスのことにからみ、パロスに対して怨恨を抱いていたのであった。リュサゴラスはパロスの出身で、ミルティアデスのことをペルシア人ヒュダルネスに讒訴したのである。ヘロドトス「歴史」巻6 133 より。ヘーロドトスの「歴史」にはこの人物テイシアスの子リュサゴラスは1回しか登場しません。上の記事がその登場箇所です。ミルティアデースは・・・・


10:リュサゴラス(2)

では、想像を交えてリュサゴラスの活動を見ていきます。ミルティアデースがペルシア王からの離叛をペルシア支配下ギリシア人僭主たちに勧めたのは、BC 513年頃のことでした。それはドナウ河の河口付近でのことです。この時、ペルシア王ダーレイオスはドナウ河を越えてスキュティア人の国に攻め込んでいました。そしてギリシア人僭主たちには、ここで残って、ドナウ河に懸けた船橋を守るように王から命ぜられておりました。そこへ遊牧民のスキュティア人たちがやってきて、彼らに船橋を破壊することを勧めました。そうすればダーレイオスおよびペルシア軍はドナウ河を渡ることが出来なくなり・・・


11:籠城

そうこうするうちにミルティアデースがアテーナイ軍を率いてパロスに攻めてきました。ミルティアデスは軍勢を手中にするとパロス島に向って出帆した。攻撃の理由として掲げたのはパロスが三段橈船一隻を出し、ペルシア軍に従ってマラトンに来攻し、先立って敵対行為に出た、というものであった。これが表向きの理由であったが、実をいえばミルティアデスはテイシアスの子リュサゴラスのことにからみ、パロスに対して怨恨を抱いていたのであった。リュサゴラスはパロスの出身で、ミルティアデスのことをペルシア人ヒュダルネスに讒訴したのである。目指す島に着いたミルティアデスは・・・・


12:パロスとナクソス

マラトーンの敗戦から10年後、ダーレイオスの息子でペルシアの王位を継いだクセルクセースは、ギリシアへの再度の侵攻を行ないました。今度は王自らが陸軍と海軍を率いての侵攻でした。クセルクセースが軍を進発する前にギリシア各地に服属を要求する使者を派遣したところ、エーゲ海のほとんどの島々はペルシアの武力を怖れ、服属する旨を使者に回答しました。ペルシア軍はギリシアを北から攻め、ギリシア本土をどんどん南下して、ついにアテーナイも占領されました。アテーナイ人はといえば、非戦闘員は各地に疎開し、戦闘員はアテーナイ沖のサラミース島に軍船を集めて待機していました。・・・・


13:彫刻家たち

パロスの大理石が古代ギリシアで珍重されていたことは、前にも述べました。USAのWikipediaの「パロスの大理石」の項を見ると、パロスの大理石で作られた有名な美術品が紹介されています。その中には、以下のものがあります。ミロのヴィーナス。サモトラケのニケパルテノン神殿の屋根のタイル。初代ローマ皇帝アウグストゥスの像。ずっと現代に近い時代のものには、「ナポレオンの墓」というのもありました。「ナポレオンの墓」というのは、これのこと(アンヴァリッド)でしょうか? 大理石で有名なパロスですが、パロス出身の彫刻家がいないか調べたところ・・・・


14:パロスの年代記

USAのWikipediaでパロスの大理石を調べようとして検索の窓にParian marbleと打つと、候補としてParian marbleとParian Marbleの2つが表示されます。Parian marbleは普通の意味でのパロスの大理石を指しますが、Parian Marbleのほうを選択するとParian Chronicle(=パロスの年代記)の項に飛びます。このパロスの年代記というのは大理石に彫られた碑文で、BC 1582年からBC 299年までの出来事について年代順に書かれているものだということです。このパロスの年代記の別名がParian Marble、つまりパロスの大理石、だったわけです。この碑文の存在を知った時に私は・・・・