神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

キューメー:目次

1:はじめに

キューメーはアイオリス地方の町々のうちで一番大きな町でした。アイオリス地方を下の地図で示します。ギリシア人の一派にアイオリス人というがあり、ギリシアの古典時代にはギリシア本土の東北と小アジアエーゲ海沿いの北側に分布していました。小アジア側のアイオリス人はギリシア本土からの植民と推測されています。下の地図で黄色に塗られている地域がアイオリス方言を話す人々、つまりアイオリス人の分布していた地域です。この地域のうち、小アジア側の地域がアイオリス地方と呼ばれていました。アイオリス地方の町々の位置を以下に示します。ヘーロドトスは、アイオリス地方の、大陸側の町々・・・・


2:2つのキューメー

キューメーについて私が不思議に思っていることは、キューメーというギリシア人植民市がもう一つある、ということです。もう一つのキューメーはエーゲ海域ではなく、イタリアにあります。そこでキューメーという町の名は、やがてクーマエというふうに変わって、ギリシアよりもむしろローマにとって重要な町のひとつになりました。ローマ人にとってその町は、シビュレーという女性の予言者がかつていた、という理由で関心がありました。2つのキューメーの位置を以下に示します。イタリアにあるキューメーは、ナポリのすぐ近くにあります。ナポリ自体がかつてはギリシア人の植民市ネアポリスでした。・・・・


3:ホメーロスとヘーシオドス

キューメーの建設についてネットをいろいろ検索していたところMuzaffer Demirという方(どうもトルコ人の教授らしいです)の英語の論文「Making sense of the myths behind aiolian colonisation(アイオリス人の植民活動の背後にある神話を理解する)」を見つけました。その論文の中にBC 1世紀の地誌学者ストラボーンからの引用がありました。それを以下に引用します。実際、アイオリス人の植民活動はイオーニア人の植民活動よりも4世代前に行われたが、遅れが生じ、より長い時間がかかったと言われています。なぜなら、オレステースが遠征の最初の指導者だったと言われていますが、彼は・・・・


4:ヘルモディケー

この頃(BC 8世紀頃)の出来事の年代を判断するのは難しいのですが、おそらくヘーシオドスが活躍した時代のキューメーの王女と思われるヘルモディケーについて紹介します。ヘルモディケーのことはBC 4世紀の哲学者アリストテレースの著作とされるものの断片に登場します。今回、英語版のWikipediaでヘルモディケーについて調べたのですが、その記事がどうも信頼できないので、ネットでいろいろ調べたところ、「Archaeology, Artifacts and Antiquities of the Ancient Near East: Sites, Cultures, and Proveniences, Oscar White Muscarella, BRILL, 2013」という書籍にアリストテレースの断片の訳が・・・・


5:アガメムノーン

ヘルモディケーの父親でキューメーの王であった者の名前がアガメムノーンである、という伝承は「(3):ホメーロスとヘーシオドスの最初に述べたストラボーンの記述に結びつきます。つまり、ミュケーナイのアガメムノーン王、トロイア戦争ギリシア側総大将であったアガメムノーン王、の子孫がロクリスにいたアイオリス人を率いてエーゲ海を渡り、キューメーを建設したという記述です。ミュケーナイとアイオリス人の結びつきがよく分からないのですが、ストラボーンの記述によればアイオリス人の植民活動の指導者たちはアガメムノーン王の子孫たちということになっています。・・・・


6:BC 7世紀と6世紀

BC 7世紀のキューメーの動向はよく分かりません。キューメーの周囲に目を向けますと、まずキューメーの西側ではレーラントス戦争がBC 650年頃まで断続的に続いていました。これはエウボイア島にある2つの町、カルキスとエレトリアの間の戦争ですが、ギリシアの多くの町々がこの戦争に巻き込まれたと言われています。この戦争にキューメーが巻き込まれたのかどうかは分かりません。ただ、この戦争によって、それまで貿易活動で先頭を走っていたカルキスとエレトリアは共に勢力を落とし、ミーレートスやサモスのような小アジア沿岸の町々が代わって台頭するようになりました。このような・・・・


7:パクテュエス

小アジアの覇者となったリュディアですが、滅亡は突然やってきました。リュディアから見て遥かな東、イラン高原にいたペルシア人たちはメディア王国の支配下にありましたが、ここにキューロスという指導者を得て反乱を起し、メディアを滅ぼしてしまいました。リュディア王クロイソスにとって、ペルシアに討たれたメディア王アステュアゲスは義理の兄弟に当たっていました。クロイソスは義兄弟の敵討ちという名目を挙げ、キューロス率いるペルシアの領土に攻め込みました。しかし、逆にペルシアによってリュディア領内に攻め込まれることになり、リュディア王国の首都サルディスは14日間の・・・・


8:アリスタゴラス

ペルシア王キューロスによってキューメーはペルシア支配下に置かれましたが、その後、ペルシア王はカンビュセース、ダーレイオスと王位が継がれていきます。3代目のダーレイオスの治世下でキューメーはギリシア人の僭主ヘーラクレイデースの子アリスタゴラスの支配下にありました。この頃のペルシア支配下ギリシア人の町々はキューメーに限らず僭主制を採っていました。そしてその僭主をペルシア王が支配するというように間接支配を行なっていました。さてこのアリスタゴラスについてですが、あまり大したことは分かっていません。BC 513年のダーレイオスのスキュティア・・・・


9:その後のキューメー

その後のBC 490年、ダーレイオスによる最初のペルシア戦争が起こりますが、そこでキューメーがどのようになったのか記録を見つけることが出来ませんでした。BC 480年のクセルクセース王による2回目のペルシア戦争の時に、キューメーにはペルシア政府の総督がいたことが分かっています。アルテミシオンの海戦の際に、その総督の率いる艦隊はペルシア海軍本体から離れてしまい、その上ギリシアの軍船を味方の艦船と思い違えてしまい、ギリシア軍に捕えられています。ペルシア艦隊の中で十五隻がたまたま本体から遥かに遅れていたが、彼らはアルテミシオンに布陣したギリシア艦隊の船影を認め・・・・