神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

カリュストス:目次

1:ロイオー

カリュストスはギリシア本土の東に長く伸びた形で浮かぶエウボイア島の南端にある町です。カリュストスの名は、英語版のWikipediaによればケンタウロス(半人半馬の神話上の種族)の賢者ケイローンとニンフ(妖精)カリクロの間に生まれた、カリュストスという男にちなんで付けられたということなので、このカリュストスが町の建設者のようです。しかし、具体的な建設の伝説を見つけることは出来ませんでした。カリュストスその人についても、ほとんど情報がありませんが・・・・


2:極北人からの捧げもの

カリュストスとデーロス島の関係を示すと思われる伝説がもうひとつあります。それは、北の果ての国に住み、アポローン神を崇拝する極北人(ヒュペルボレオイ)という神話的な種族が、デーロス島に捧げものを送る際に、その供物がカリュストスを通って送られた、というものです。ところで極北人について、他と比較にならぬほど多くを語っているのはデロス人である。そのいうところによれば、麦藁に包んだ供物が極北人の国から運ばれてスキュティアに着き、スキュティアからは・・・・


3:トロイア戦争

トロイア戦争が起こると、カリュストスの人々はエウボイアの王であったエレペーノールに率いられて戦争に参加しました。ホメーロスイーリアスでは、次のように歌われています。さてエウボイアを領するは、その勢いも猛くはげしいアバンテスたち、カルキスにエレトリア、さては葡萄の房に饒(ゆた)かなヒスティアイア また海に臨んだケーリントスや、ディオスの嶮しい城塞(とりで)を保ち、またカリュストスを領する人々、あるいはステュラに住まうものら・・・・


4:レーラントス戦争

トロイア戦争後のギリシアについて、トゥーキュディデースは以下のように述べています。トロイア戦争後にいたっても、まだギリシアでは国を離れるもの、国を建てるものがつづいたために、平和のうちに国力を充実させることができなかった。その訳は、トロイアからのギリシア勢の帰還がおくれたことによって、広範囲な社会的変動が生じ、ほとんどすべてのポリスでは内乱が起り、またその内乱によって国を追われた者たちがあらたに国を建てる、という事態がくりかえされたためである。・・・・


5:グラウコス

レーラントス戦争からさらに100年ほど時代を下ったBC 6世紀に、カリュストスにグラウコスという少年がいました。彼は農家の息子でした。その生活は、きっと詩人ヘーシオドスが「仕事と日」に歌った様子に近いものだったでしょう。耕耘(こううん)を始めるに当たっては、地の神ゼウス、浄(きよら)かなるデーメーテールにむかって、デーメーテールの聖なる穀物が、健やかに育ち、重き穂を垂らしめたまえと祈れ――犂(すき)の把手の端を片手に握り、革紐の留め釘に力をかけて犂(すき)を曳く牛の・・・・


6:ペルシア軍の包囲攻撃

カリュストスのグラウコスが活躍した時代は、ペルシア王国がエーゲ海東岸まで領土を拡大した時代でした。そしてエーゲ海東岸にあったギリシア人都市はペルシアの支配を受けました(BC 545年)。そのことはグラウコスも耳にしたことだと思います。しかし、そのペルシアがやがてカリュストスを襲うことになるとまでは、当時は思わなかったことでしょう。しかしその後ペルシア王国はゆっくりとですが着実に領土を西に拡げてきました。BC 499年エーゲ海東岸のイオーニア系および・・・・


7:ペルシア軍への協力

ペルシア王ダーレイオスは、アテーナイに負けた遠征の雪辱戦を計画しました。しかしその遠征の準備中に死去し、後を継いだ息子のクセルクセース王が父親の遺志を引き継いで、ギリシアに攻め込むことになりました。前回のペルシア軍のギリシア本土侵攻から10年後のBC 480年のことです。今回の進軍路は前回とは異なり、エーゲ海の北岸に沿ってギリシア本土に達しようとするものでした。よって、今回はペルシア軍は北からやってきました。今回、ギリシア側のいくつかの都市国家は・・・・


8:サラミースの海戦

夜の内に、ペルシア側の船隊は、ギリシア連合軍が集結しているサラミース港を包囲するように東から西へと延びる長い船列を敷きました。そして兵士たちは、港のギリシア艦隊を睨んだまま一睡もせず、夜明けを待ちました。カリュストスの船がこの船列のどこに位置していたかは、ヘーロドトスの記述からは分かりません。ただ、イオーニア部隊が東側に待機し、フェニキア部隊が西側に待機していたとのことですから、一般にイオーニア系と見なされていたカリュストス人の船は・・・・


9:デーロス同盟

このあと、ギリシア側はペルシア軍をエーゲ海から駆逐していきます。その過程でアテーナイが中心になってギリシア諸都市からなる対ペルシア軍事同盟が結ばれました。これがデーロス同盟です。同盟参加国は軍船と軍隊を提供するか、その代わりとして年賦金を提供することになりました。アテーナイはカリュストスに対してもデーロス同盟に参加するよう要請してきました。しかし、今までのアテーナイのやり方に反感を持っているカリュストスはそれを断りました。・・・・


10:その後のカリュストス

マケドニア王ピリッポス2世は、BC 338年カイローネイアの戦いでアテーナイ・テーバイ連合軍を破り、スパルタを除くギリシア本土全体の覇権を握りました。これによってカリュストスもマケドニア支配下に入ることになりました。このピリッポス2世はある戦いで右目に矢が刺さって失明したのですが、その矢を抜いて治療したと伝えられるカリュストス出身の医者がいました。彼の名はディオクレースといい、有名な医者ヒポクラテースの学派に属していました。・・・・