神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メーテュムナ:目次

1:起源

ギリシアの古典期(BC 5世紀ごろ)、レスボス島には5つの都市国家(ポリス)がありました。ミュティレーネー、アンティッサ、ピュラ、エレソス、メーテュムナの5つです。この中でミュティレーネーについては以前記事をアップしました。今回はメーテュムナについて調べて行きたいと思います。メーテュムナはレスボス島の北岸沿いの小高い山にあります。現在も町は存続していて、現代はミテュムナ、あるいはモリヴォスと呼ばれています。山の頂にはかつてはアクロポリスがあったのですが、今では中世の城壁が・・・・


2:オルペウス

ところで「(1):起源」で引用したイーリアスの一節「上(かみ)はマカルの住居というレスボスから、陸(みち)の奥(く)はプリュギエー、涯(はてし)を知らぬヘレースポントスが仕切る限りの国々」は、前後の文脈からトロイアの勢力圏を表しているように私には思えます。するとこのイーリアスという作品の中でのレスボス島はギリシア人のものではなく、トロイア人のもの、そうでなかったとしてもトロイアの勢力下のある民族のものであるように見えます。そうしたわけで私は、マカルというのは・・・・


3:レスボス島植民

伝説によれば、レスボス島にギリシア人(その一派であるアイオリス人)がやって来たのはトロイア戦争が終わってかなり経ってからになります。BC 1世紀の地誌学者ストラボーンは以下のように書いています。実際、アイオリス人の植民活動はイオーニア人の植民活動よりも4世代前に行われたが、遅れが生じ、より長い時間がかかったと言われています。なぜなら、オレステースが遠征の最初の指導者だったと言われていますが、彼はアルカディアで亡くなり、息子のペンティロスが彼の後を継いでトロイア戦争の60年後・・・・


4:アリオーン

アリオーンはBC 7世紀末か6世紀初頭に竪琴奏者として活躍したメーテュムナの人です。アリオンは当時彼に比肩するものなしとされた竪琴(キタラ)弾きの歌い手で、われわれの知る限りではディテュランボスの創始者命名者であり、コリントスでこれを上演した人物である。ヘロドトス著「歴史」巻1、23 から ディテュランボスというのは酒の神ディオニューソスに捧げる讃歌のことです。コリントス人の話では、アリオンは多年ペリアンドロスの許にいたが、イタリアとシケリアへ渡る気を起し、渡航後その地で多額の金を儲け・・・・


5:ディオニューソス神の顕現

前回の「(4):アリオーン」について英語版のWikipediaにちょっと面白い記事があったのでご紹介します。そこでは、このアリオーンの伝説に関連があると思われる神話としてホメーロス風讃歌の中の「ディオニューソスへの讃歌」の神話を挙げていました。「ディオニューソスへの讃歌」は、沓掛 良彦訳の「ホメーロスの諸神讃歌」に載っていますが、高価な本なので買っていません。今回は古代ギリシアの文献の英訳を公開しているPerseus Digital Libraryからの引用を適宜使用して、この話の概要をご紹介しようと思います。・・・・


6:ダフニスとクロエー

前回の「(5):ディオニューソス神の顕現」では、小説「ダフニスとクロエー」の中でメーテュムナに関係して、前回紹介したディオニューソスと海賊たちの話と似たような情景が登場することを述べましたが、それは以下のようなものです。メーテュムナの艦隊はミュティレーネー領に侵入し、羊飼いの少女クロエーと彼女が世話をしている羊たち、それから山羊飼いの少年ダフニスの世話している山羊たちを奪い取って船に収容したのですが、これが牧畜の神パーンの怒りに触れたのでした。メーテュムナの艦隊がやってきた時・・・・


7:イオーニアの反乱

ペルシアの初代の王キューロスの時にペルシアに服属したメーテュムナでしたが、キューロスの次にペルシア王になったカンビュセースがエジプトを征服する時、その軍の中に、レスボス島のミュティレーネーの船があったことをヘーロドトスは記しています。おそらくメーテュムナの船もあったことでしょう。3代目の王ダーレイオス1世の治世の頃にはペルシア王国はバビロニアとエジプトを含む巨大な帝国に成長していました。ペルシア支配下のイオーニア、アイオリスの町々はペルシアの軍事行動に兵を提供しなければなりませんでした。・・・・


8:デーロス同盟

BC 490年、ペルシア王ダーレイオスは軍を派遣してギリシア本土のアテーナイを攻撃しましたが、撃退されました。BC 480年にはダーレイオスの跡を継いだクセルクセース王が自ら陸海軍を率いて再度ギリシア本土に侵攻しました。しかし、これもアテーナイ沖で起きたサラミースの海戦でギリシア連合軍に大敗北を喫しました。ギリシア本土から撤退したペルシアの海軍部隊は翌年サモス島に集結して、イオーニア地方のギリシア人が再度反乱するのを警戒していました。一方クセルクセスの水軍の残存部隊は・・・・


9:ミテュレーネーの反乱(1)

ペロポネーソス戦争は、アテーナイを中心とするデーロス同盟諸国とスパルタを中心とするペロポネーソス同盟諸国の間で戦われた戦争です。この戦争はBC 431年から404年まで30年近くにわたって続きました。メーテュムナはレスボス島の他の都市とともにデーロス同盟に参加しており、戦争ではアテーナイに協力していました。ところが、ペロポネーソス戦争が始まって3年目のBC 428年のこと、メーテュムナは、同じレスボス島にある都市ミュティレーネーがアテーナイに対する反乱を計画していることを察知しました。・・・・


10:ミテュレーネーの反乱(2)

その後メーテュムナはアンティッサを逆に攻めましたが、アンティッサに迎撃され撤退しました。かれらが撤兵すると、対してメーテュムネー人も兵を繰りだしてアンティッサを攻撃した。だが城内からの迎撃に遭い、アンティッサ人と傭兵のために打ち破られて多数の戦死者を出し、残りは蒼惶として引き上げた。トゥーキュディデース「戦史」 巻3・18より アテーナイ政府は、この年の秋に増援部隊をレスボス島に派遣しました。この増援部隊は到着するとミュティレーネーの周囲に城壁を築いて包囲しました。一方・・・・


11:両陣営の狭間で(1)

その後もペロポネーソス戦争は続きます。アテーナイはシケリア島(今のシシリー島)の都市シュラクーサイ(今のシラクサ)を攻撃するために大軍を派遣しましたが、メーテュムナもこの攻撃に参加しました。しかしこの大軍が全滅し、アテーナイの戦闘能力は大幅に減少しました。このシケリア遠征の敗北の報は、ギリシア世界に激震をもたらしました。次の冬がやって来る頃には、全ギリシア諸邦の人々はやくもシケリアにおけるアテーナイ側の徹底的敗北を耳にして、みな興奮状態に陥った。それまではいずれの陣営にも・・・・


12:両陣営の狭間で(2)

国外追放された人々は富裕な人々であったので、その富で兵士を募集したのち、翌年、主導権奪回のためにメーテュムナへ攻めてきました。メーテュムネー市民の中で、追放刑に附されて町を追われていた、とりわけ富裕な一派の者たちは、キューメーから同派に属する腹心の重装兵約五十名を島に迎え、また大陸方面から傭兵を徴募して、総数約三百を揃えると、古来の血縁にすがってテーバイ人、アナクサンドロスを頭領に頂き、先ず手始めにメーテュムネーに対して攻撃をおこなった。トゥーキュディデース著「戦史」巻8・100 から・・・・


13:メーテュムナのワイン

アテーナイが降伏したあとのメーテュムナについてはよく分かっていないようです。英語版のWikipediaにはこう書かれていました。BC 4世紀のメーテュムナの歴史に関する私たちの知識は限られていますが、都市としてのその名声は、町が鋳造した銀貨と銅貨によってしっかりと証明されています。少なくともBC 340年代までに、僭主クレオミスは市の民主派を追放し、その後10年間権力を保持しました。 この後、クレオミスに何が起こったのかはわかりませんが、336年に島がフィリップ2世の将軍パルメニオンとアッタロスの手に・・・・