神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

テオース:目次

1:テオース建設

テオースはイオーニア地方の町で、イオーニアの主要な12の町の一つです。イオーニア地方の真ん中に位置しているので、かつて哲学者ターレスが、イオーニア諸都市は団結してひとつの国を作り、テオースを首都とすることを提案しました。しかし、団結が不得意な古代のギリシア人たちであるところのイオーニア人たちは、ターレスのこの建言を実行しようとはしませんでした。テオースの起源についてですが、AD 2世紀の地理学者パウサニアースの著書「ギリシア案内記」によれば、最初にテオースにやってきたのはボイオーティアの古都オルコメノスからの人々で・・・・


2:アタマース

テオースへの最初の植民団を率いたアタマースの祖先である、オルコメノス王アタマースにまつわる物語をご紹介します。アタマースの父親アイオロスは、ギリシア人の一派であるアイオロス人の祖先ということになっていますので、そこから考えるとアタマースもアイオリス人ということになりそうです。一方、オルコメノスの住民はミニュアイ人と呼ばれていました。私はミニュアイ人はアイオロス人の一派と理解したのですが、どうなのでしょうか。それはともかく、アタマースは雲の精であるネペレーを妻として、プリクソスとヘレーという一男一女を得ました。その後・・・・


3:初期の出来事

テオースへの最初の植民団を率いたアタマースの先祖であるアタマースの物語を紹介しました。先祖のアタマースには物語が豊富に存在していました。しかし植民団を率いたアタマースについては、調べた限りでは以下の短い物語しか見つかりませんでした。アタマースが植民市を建設するのに適した場所を探している間、彼の娘アレアを残しておきました。幼いアレアは小石を集めて家を作りました。アタマースが戻ってきて娘に何をしているの、と聞くと、アレアはこう答えました。「お父様が探している間に、お父様が町を建てることが出来るようにと私はこれを見つけました。」・・・・


4:ペルシアの侵攻

その後の数百年のテオースの歴史を私はたどることが出来ませんでした。いろいろなことが疑問のままです。テオースの王制はいつまで存続したでしょう? ホメーロスが活躍した時代、テオースはホメーロスと何か関りがあったでしょうか? 東にプリュギア王国が勢力を伸ばしていた時、テオースはどう関わったでしょうか? 凶暴な遊牧民族のキンメリア人が東からやってきてプリュギア王国を滅ぼし、その後イオーニアにやって来た時、テオースはどう対処したでしょうか? さて、時代は下ってリュディア王クロイソスが王位に就いたBC 560年まで進みます。この頃までにテオースはエジプトとの・・・・


5:アナクレオーン

BC 525年のペルシア軍によるテオース包囲から逃れ出た市民の中に詩人のアナクレオーンがいました。彼はその頃30代でしたのでおそらくそれまで町を守って戦っていたと思われます。市民と一緒に彼はテオースを逃れ船に乗って北に向い、トラーキアの地にアブデーラの町を建設することに参加しました。この町は、かつて同じイオーニアのクラゾメナイ人が先に建設した町でしたが、その住民はその後原住民のトラーキア人によって町から追い出されてしまいました。テオース市民は再びトラーキア人を追い出して、そこに住みついたのでした。アナクレオーンが詩人として有名になったのは・・・・


6:イオーニアの反乱

アナクレオーンが故郷のテオースに帰国した頃、テオースはおそらくギリシア人の僭主の支配下にあったはずです。この頃のペルシアはイオーニアの町々の僭主を支援して、彼らによってイオーニアを間接統治していたからです。イオーニアの僭主の中の一人、ミーレートスのアリスタゴラスはBC 499年にペルシアに対して反乱します。アリスタゴラスは、自分も僭主であるのにもかかわらず、今回の反乱を各都市の僭主打倒の動きにリンクさせ、全イオニア、さらにはその周辺までが反乱に参加するように画策しました。アリスタルコスはまず、ミレトス人が進んで自分の謀反に・・・・


7:その後のテオース

テオースはペルシアの支配下に戻りました。ペルシア王ダーレイオスは、イオーニアの反乱に加担したアテーナイとエレトリアに報復するために、BC 490年海軍を派遣しました。この時にテオースは従軍を強いられたかどうかよく分かりません。この時点では反乱終結から4年しかたっていないので、ペルシアにとって信頼できる兵力とは見なされず、従軍しなかったと想像します。この軍はエレトリアを陥落させ市民を捕虜にしますが、アテーナイの攻略には失敗し、帰国します。ダーレイオス王は再度の出兵を準備しますが、その途中で死んでしまいました。後を継いだ息子クセルクセース王が・・・・