神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ナクソス:目次

1:町の起源

ナクソスエーゲ海の真ん中にある島です。その首邑ナクソスの町は、小高い山が港のすぐ近くに迫り、その山の周りを白い建物群が取り巻く姿をしています。今回ナクソスのことを調べるためにGoogle Mapを見たところ、ナクソスの町が3次元で表示されているのを見つけました。この山の頂上付近がかつてのアクロポリスだったことでしょう。今は、後世に建てられた中世の城が残っています。この画像の奥側の左の方には海上を渡る細い道が続き、その先には小島があります。その上にはかつてナクソスの僭主リュグダミスが作らせた巨大なアポローン神殿が・・・・


2:アローアダイ

アローアダイというのは、アローエウスという男の息子たちという意味で、具体的にはオートスとエピアルテースという名前の2人です。このオートスとエピアルデースがギリシア本土のアカイア地方からナクソスにやって来て、そこにいたトラーキア人たちを追い出して島の支配者になった、という伝説があります。それは、こんな話です。オートスとエピアルテースには妹のパンクラティスがいました。ある時、アカイアのドリオス山で葡萄とワインの神ディオニューソスの祭があったということですが、それはたぶん女だけの祭でした。その祭に・・・・


3:イーピメデイア

ナクソスから話が離れてしまいますが、アローアダイが神々に対して挑戦した物語は、現存するギリシア文学の中で一番目か二番目かに古い「オデュッセイアー」の中でも登場するので、ご紹介します。これは主人公のオデュッセウスが冥界巡りをした時に、当時より過去の時代に地上に生きた神話上名高い女性たちに出会った場面の一部です。その次にはアローエウスの奥方、イーピメデイアの姿を見ました。この婦人はしんじつポセイダーオーンに添寝をしたと申すことで、それで儲けた二人の息子が、まあ寿命はほんの短い間(ま)ながら、神にもひとしいオートスと・・・・


4:アリアドネー(1)

ギリシア神話の世界ではナクソスは、テーセウスがアリアドネーを置き去りにしたところとして、また、そのアリアドネーがディオニューソス神と出会って神の后となったところとして有名です。(イーヴリン・ド・モーガン作「ナクソスアリアドネー」1877年)しかし、この物語の筋書きは混乱していてはっきりしません。アテーナイの代表的な英雄テーセウスが、自分の苦境を助けた恩人であり自分の妻になるはずのアリアドネーをナクソス島に置き去りにしたのはなぜか、そんな忘恩の行為をするとは、アテーナイ人の尊崇を集めるテーセウスには似つかわしくない・・・・


5:アリアドネー(2)

前回はアリアドネーが神になる、という結末で話を終えました。ところがこの伝説の元々の姿は随分違うようです。古い伝説を伝えるホメーロスの「オデュッセイアー」では以下のように述べられています。またパイドレーやプロクリスや、姿(なり)きよらかなアリアドネーにも会ったのでした、これはよからぬ意図をもつミーノースの息女とて、テーセウスがもとクレーテー島から、神聖なアテーナイ市の丘の高みへ連れていこうといながらも果たさなかった、着く前にアルテミスさまが、波のとりまくディエーの島で、ディオニューソスが照覧のもとにお討ちということ。・・・・


6:歴史時代とのはざま

アリアドネーの出来事以降、ナクソスはでは何が起きたでしょうか? 私はそれについての物語を見つけることは出来ませんでした。そこでナクソスに関係のある神話を広く調べてみると、海の神ポセイドーンが、のちにお妃になるアムピトリーテーを見初めたのがナクソス島近海だったとか、ポセイドーンがディオニューソスナクソス島の所有を争って負けた、という話が見つかりました。この後者の話から、ナクソス島とディオニューソス神の間に深い関係があることが分かります。ディオニューソスはブドウとワインの神ですので、当然、ナクソス島のブドウの産地です。・・・・


7:BC 10世紀からBC 7世紀まで

イオーニア人はBC 1000年頃にナクソスに住みついたようです。おそらく、当初は王制をとっていて、それがやがて貴族制に代わっていったと推測します。その後のことで分かっているのは、BC 735年、北のエウボイア島にあるカルキスと共同で、シシリー島に植民市を建設したことです。これはシシリー島(当時の言い方では「シケリア島」)での初めてのギリシア人都市でした。この植民市は母市と同じナクソスという名前をつけられました。下に引用するトゥーキュディデースの記事には、ナクソス人のことは出ておらず、カルキス人が単独で・・・・


8:リュグダミス

BC 6世紀の中頃まで時代を下ります。この頃ナクソスは貴族制の都市国家でしたが、その貴族の中にどうも民衆に対して不正を働いた者、あるいは一族がいたようです。民衆はそのことで貴族に対して憤っていました。その時、リュグダミスという人物がいて、彼は貴族の出身なのですが、民衆の味方をして彼らの指導者になりました。彼に多くの支持者が出来た時、たまたまアテーナイの僭主ペイシストラトスが政変でエレトリアに亡命するという事件が起こりました。ペイシストラトスは自分に対して策謀がめぐらされているのを知るや、綺麗さっぱりと国を退散し、エレトリアへ行き・・・・


9:ペルシアの侵攻(1)

BC 500年頃、ナクソスに政変が起り、資産階級の幾人かが、民衆派によって国を追われるという事件がありました、彼らはミーレートスの僭主ヒスティアイオスと面識があったので、ヒスティアイオスを頼ってミーレートスに亡命してきました。当時、ミーレートスはペルシアの支配下にあり、僭主のヒスティアイオスはペルシア王ダーレイオスの求めによりペルシアの首都スーサに移住していました。そのためナクソスからの亡命者たちはヒスティアイオスにではなく、その代理を務めていたアリスタゴラスという者に面会したのでした。ミレトスへ亡命してきたナクソス人たちは、軍隊を貸してもらい・・・・


10:ペルシアの侵攻(2)

BC 499年、ナクソスはペルシア海軍(その中にはイオーニアのギリシア軍も含まれる)の侵攻を撃退しましたが、この侵攻を主導したミーレートスの僭主アリスタゴラスは自分の責任が問われることが心配になってきました。そして心配のあまりペルシアに対して叛乱を起こすという挙に出てしまいました。これがイオーニアの反乱です。このイオーニアの反乱はミーレートスのみならず、全イオーニア、カリア、キュプロス島に拡がり、5年間も続きました。その経過については、以下をご覧ください。ミーレートス(19):イオーニアの反乱のきっかけ・・・・


11:ペルシアからの離脱

ペルシア軍はナクソスを破壊したあと、エウボイア島のエレトリアを攻略し、次にアテーナイに向いました。アテーナイ軍はアテーナイ近郊のマラトーンでの戦いでペルシア軍を破ります。ペルシア軍はそのまま撤退しました(第一次ペルシア戦争)。しかし、アテーナイが勝ったからといってナクソスが独立を取り戻したわけではありません。ナクソスはまだペルシアの支配下のままでした。こうして10年が経ちます。BC 480年、新たにペルシアの王位に就いたクセルクセース(ダーレイオスの息子)は、さらに大規模な海陸両軍を自ら率いてギリシア全土を制圧しようとします(第二次ペルシア戦争)。・・・・


12:イオーニア人(1)

アルカイック期、古典期のエーゲ海の話を書いていくと、どうしてもイオーニア人が主体になります。それで、イオーニア人の来歴を一度、ゆっくり調べてみたいとずっと考えていました。もやもやと考えているだけでは先に進まないので、一度、今の自分が知っていることを書いてみて、頭の中を整理しようと思いました。別にナクソスだけがイオーニア人の都市なのではないのですが、このナクソスの回にイオーニア人について書くことにしました。イオーニア人というのは、古代のギリシア人の中でイオーニア方言を話す人々を指します。・・・・


13:イオーニア人(2)

しかしヘーロドトスの記事を考慮すると、前回の最後に述べたようなすっきりした推測になりません。まずヘーロドトスはイオーニア人は混成種族だと主張します。彼ら(=イオーニア人)の重要な構成要素を成しているエウボイアのアバンテス人は、名前からいってもイオニアとは何の関係もない種族であるし、またオルコメノスのミニュアイ人も彼らに混入しており、さらにカドメイオイ人、ドリュオペス人、ポキス人の一分派、モロッシア人、アルカディアのペラスゴイ人、エピダウロスのドーリス人、その他さらに多くの、種族が混り合っているのである。ヘロドトス著 歴史 巻1、148 から・・・・