神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エリュトライ:目次

1:エリュトライのシビュラ

エリュトライはイオーニア12都市の1つで、海を挟んでキオスの島と対峙しています。エリュトライについてはあまり情報がありません。それでも後世、ルネッサンスになってから有名になった伝説があります。それは「エリュトライのシビュラ(女予言者)」の伝説です。ルネッサンス期の画家、彫刻家だったミケランジェロの描いた「システィーナ礼拝堂天井画」の中にはシビュラと呼ばれる5人の女性の予言者が描かれています。それらは、ペルシアのシビュラ、エリュトライのシビュラ、デルポイのシビュラ・・・・


2:町の起源

エリュトライのシビュラが生れたのはトロイア戦争より前でしたが、イオーニア人がエリュトライに植民したのは、トロイア戦争よりあとのことでした。すると、イオーニア人が来る前にはエリュトライはどうなっていたのでしょうか? パウサニアースが伝えるところによると、エリュトライは、クレータ島から来たエリュトロスという男によって建設されたということです。エリュトライ人はいうには、彼らは元来ラダマンテュスの子エリュトスとともにクレータ島から来た者であり、このエリュトスが自分たちの町の建設者であった・・・・


3:イオーニア人の到来

前回ご紹介したパウサニアースの記事の中でパンピュリア人についての記事だけはトロイア戦争後の話です。エリュトライ人はいうには、彼らは元来ラダマンテュスの子エリュトスとともにクレータ島から来た者であり、このエリュトスが自分たちの町の建設者であったということです。クレータ人とともにこの町にはリュキア人やカーリア人やパンピュリア人も住んでいました。というのは、(中略)パンピュリア人は彼らもまたギリシア民族に属するからで、というのは、彼らはトロイア陥落ののちカルカースとともに放浪した人々に属していたからです。・・・・


4:レーラントス戦争

非常に断片的な情報なのですが、BC 7世紀かそれ以前にエリュトライがキオスと戦ったという記事があります。これはBC 5世紀の歴史家ヘーロドトスが記述したものです。彼はBC 7世紀の終り頃のリュディア王国によるミーレートス侵略のことを叙述するなかで、この時ミーレートスを助けたのはキオスであり、それはかつてエリュトライとキオスが戦争になった時に、ミーレートスがキオスを助けたことの返礼であった、と書いています。この十一年の内、最初の六年間はアルデュスの子サデュアッテスがリュディアの王位に在り・・・・


5:テュロスから来た神像

AD 2世紀の著作家パウサニアースは、エリュトライのヘーラクレースの神域にまつわる由来譚を記していますが、その由来の出来事がどの時代に位置するのか、はっきりしません。私は、この由来の話をここに位置付けようと思います。パウサニアースは以下のように記しています。あなたは、エリュトライにあるヘーラクレースの聖域や、プリエーネーにあるアテーナーの神殿にも、後者はその神像のゆえに、前者はその年代のゆえに。喜ぶことでしょう。(中略)木製のいかだがあり、それに乗って神(=ヘーラクレース)はフェニキアの・・・・


6:リュディア王国

その後、小アジアの内陸からリュディア王国が隆盛してきました。このリュディア王国がイオーニアのギリシア人都市を攻略し始めるのですが、ヘーロドトスによれば、リュディアの初代の王ギュゲースは、ミーレートスとスミュルナに軍を進め、コロポーンを一時的に占領しました。2代目のアルデュスはプリエーネーを占領し、ミーレートスを攻めました。3代目のサデュアッテスはミーレートス攻略を重点的に行ない、この戦争を4代目のアリュアッテスも引き継ぎました。「(4):レーラントス戦争」で引用したヘーロドトスの記述は・・・・


7:イオーニアの反乱

翌年(BC 545年)、ペルシアの将軍ハルパゴスがイオーニアの町々を攻略し始めました。ハルパゴスはこの時キュロスから司令官に任命され、イオニアに着任するや、彼は盛り土作戦によって次々に町を攻略していった。つまり相手を城壁内に追いつめておいては、敵の城壁の前に土を盛り上げて攻略したのである。ヘロドトス著 歴史 巻1、162 から そしてイオーニア諸市は ハルバゴスと戦い、いずれも救国の戦いに武勇を輝かしたが、結局戦い敗れ占領されて、それぞれ祖国に留まり、ペルシアの命に服することになった・・・・


8:ペルシア戦争

その後、ペルシアはギリシア本土に侵攻します。BC 490年の1回目の侵攻にエリュトライが従軍を強いられたかどうかよく分かりませんが、BC 480年の2回目の侵攻にはおそらく従軍を強いられたと想像します。北から侵入してきたペルシア水軍とギリシア諸都市の連合水軍は、エウボイア島の北端アルテミシオンでにらみ合いました。しかし、陸戦でペルシアがテルモピュライの峠を突破したため、ギリシア連合水軍はアテーナイ沿岸近くのサラミース島まで撤退することになりました。この撤退にあたってギリシアの智将テミストクレースは・・・・