神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ケオース:目次

1:ケオースのライオン

ケオース島はアテーナイの近くにあり、住民もアテーナイに由来すると伝えられています。そのことについては歴史家ヘーロドトスも アテナイ人の分れでイオニア族であるケオス人が・・・・ ヘロドトス著「歴史」巻8、46 から と書いています。アテーナイ人もイオーニア人と考えられていたので、ケオース人もイオーニア人とされていました。ケオース島は現代ではケア島と呼ばれています。BC 500年頃、この小さな島には4つもポリス(=都市国家)がありました。それらはイウーリス、カルタイア、ポイエーエッサ、・・・・


2:起源

ケオースの起源伝説を探してみましたが、私は、前回ご紹介したカリマコスの「アコンティオスとキュディッペ」の中の記述しか見つけることが出来ませんでした。しかもこの記述がとても難解です。それでも岩波文庫の注の助けを得ながら、何とか意味を探っていきましょう。発端は、巨大なライオンにパルナッソスを遂(お)われて、この島に住んでいた、コリュキオンのニンフらのこと、島が、ヒュドルサと・・・・


3:アリスタイオス

ケオース島にまつわる神話の1つは、古典時代のケオース島住民が「おおいぬ座」の一等星シリウスに犠牲を捧げるという風習の起源を説いています。英語版Wikipediaの「ケア島」の項には以下のように書かれていました。(ケオース島の)住民は、夏に犬の星シリウスが再び現れるのを待つ間、涼しい風をもたらすようにとシリウスとゼウスに犠牲を捧げることで知られていました。星がきれいに昇れば、それは幸運の前兆となりました。それに霧がかかっていたり、かすかであったりした場合、それは疫病を予告した(または発散した)ことを意味します。・・・・


4:イーカリオス

古代のケオースの人々が夏にシリウス星に犠牲を捧げる風習の由来は以上のものですが、この伝説がイーカリオスという男にまつわる別の伝説と融合しました。イーカリオスの伝説はケオース島とは直接関係ありませんが、その内容を、呉茂一氏の「ギリシア神話(上)」からの引用でご紹介します。アッティケー州の中で、ディオニューソスの信仰をいちばん早く受け入れたのはイーカリアであった。イーカリアは、アテーナイの北に連なるペンテリコン丘陵の北側にあり、地味の肥沃な土地で、マラトーンの原野にも遠くない・・・・


5:デーロス島の祭礼まで

次に紹介するケオースに関する伝説「アコンティオスとキューディッペー」では、デーロス島でのアルテミス女神の祭礼の話が出てきます。デーロス島アポローンとアルテミスの誕生の地としてイオーニア人たちから神聖視されたのは、イオーニア人が小アジアへ植民した時代よりあとの時代ですので、私はこの伝説の舞台となった時代は、今までご紹介した伝説よりもずっとあとの時代だと想像します。つまりいわゆる英雄時代ではなく、その次の「鉄の時代」のことだと思います。一方、今までご紹介したアリスタイオスの話やキュパリッソスの話は・・・・


6:アコンティオスとキューディッペー

次にご紹介するケオースにまつわる伝説は、ケオース生れの美少年アコンティオスとアテーナイ生れの美少女キューディッペーの物語です。アルテミスのことを歌おう。その矢は黄金作りで、御神は猟犬を励まし給う。けがれなき乙女、鹿を射る者、弓矢の術を悦ぶ、黄金の剣を持つアポローンの妹神よ。影多い丘や風の強い峰を越えて、御神は黄金の弓を引き、追跡を喜び、そして痛ましい矢を放ち給う。高い山の頂は震え、絡み合った木々は獣たちの叫び声で激しく響く。大地は揺れ、魚群れる海もまた揺れる。・・・・


7:シモーニデース(1)

今までは伝説上の人物の話でしたが、ここからは実在の人物の話になります。シモーニデースはケオース島の町イウーリスに生れ、のちに競技会の優勝者への頌歌や戦死者の墓碑銘の作者として有名になりました。しかし彼の生涯は相互に矛盾する伝説に包まれており、実態はなかなか捉えることが出来ません。たとえば、シモーニデースの作としてよく引用される墓碑銘  旅人よ、ラケダイモーンに行きて告げよ 我ら汝らの掟のままに、ここに横たわれり、と は、実はシモーニデースの作ではない、という説があります。・・・・


8:シモーニデース(2)

BC 480年のテルモピュライの戦いの時シモーニデースは何歳だったでしょうか? 当時の人々の誕生年はなかなかはっきりしないのですが、多くの学者の説ではシモーニデースの誕生年はBC 556年だそうです。それを元に計算すると、テルモピュライの戦いの時彼は76歳という高齢になります。このあとシモーニデースはシケリア島のシュラクーサイ(現代名シラクサ)に移住し、シュラクーサイの僭主ヒエローンの庇護を受けました。そしてその地で亡くなっています。では、シモーニデースの生涯をたどっていきます。・・・・


9:シモーニデース(3)

しかし当時のテッサリアの宮廷では文芸への理解があまりありませんでした。こんな話が伝わっています。スコパスという名のスコパス家の当主はシモーニデースに、ある拳闘家の勝利を祝する讃歌を書くよう依頼してきました。シモーニデースはその讃歌を作ってスパコスに披露しました。その讃歌では神話上の双子の英雄カストールとポリュデウケース(星座のふたご座はこの2人のことだと言います)を歌いあげました。というのはポリュデウケースは伝説では最強の拳闘家だったからです。このようにまず神話上の英雄たちを歌って・・・・


10:ペルシア戦争

今までシモーニデースの生涯を追ったところでペルシア戦争が登場しましたので、ペルシア戦争とケオースの関わりを調べていきます。ギリシア本土がペルシアとの戦争に巻き込まれた原因は、BC 499~493年のイオーニアの反乱でした。これ以前にイオーニア地方を含む小アジアエーゲ海沿岸のギリシア人植民市は皆、ペルシアの支配下にありましたが、イオーニアの都市ミーレートスが中心になって、イオーニアとアイオリスの諸都市がペルシアの支配に対して反乱を起こしました。これに加担したのがアテーナイとエレトリア・・・・


11:バッキュリデース

ケオース生まれの詩人シモーニデースには妹がいました。その妹は自分の生まれた町であるイウーリスに住む男性と結婚し、息子が生まれました。その息子は祖父(父親の父親)の名をとってバッキュリデースと名付けられました。祖父のバッキュリデースはイウーリスでは有名なアスリートでした。バッキュリデースの生まれた年については諸説あり、はっきりしません。ここでは、一般的な説に従ってBC 518年とします。伯父のシモーニデースはこの頃はアテーナイの僭主の弟ピッタコスの許にいましたので、ケオースには・・・・


12:プロディコス(1)

ケオース島は、シモーニデース、バッキュリデースという詩人を生み出した以外にも、ソフィスト(知恵者)と言われる人も生み出しています。ソフィストと呼ばれたプロディコスはケオース島のイウーリスの出身だと言います。例によってプロディコスの生年も没年もはっきりしません。ここでは英語版Wikipediaの「プロディコス」の項の記事に従ってBC 465~BC 395年としておきます。哲学者ソークラテースのほぼ同年代ということになります。ソフィストという人々がどんな人々だったのかを知るには、哲学者プラトーンの書いた「ソクラテスの弁明」の・・・・


13:プロディコス(2)

ここまで書いたところで、ネットで「ソフィスト・プロディコスの宗教思想」(中澤務 関西大学教授 著)という面白い論文を見つけました。読んでみて、学者はさすがだな、と思いました。この論文の主題は、古代の書物に引用されたプロディコスの、神々についての発言をどのように解釈するか、というものです。たとえば、AD2, 3世紀の哲学者兼医者であったセクストス・エンペイリコスが書いている以下の文章についてです。さらに、ケオスのプロディコスは、次のようい述べている。「太陽や、月や、河や、泉など、概して・・・・


14:ケオースの宗教風土

前回の「(13):プロディコス(2)」で季節の女神たちホーライや農業の神アリスタイオスが登場したので、ホーライやアリスタイオスに関する記述を調べてみました。まずはホーライについてです。さてヘーレーは鞭を執(と)り、手ばやく馬を促し立てれば、おのずから 天(あま)つみ空(そら)の大門の扉(と)は 軋(きし)んで開いた、それを守るは季節の神女(ホーライ)とて、久方の空、またオリュンポスを司(つかさど)り、群がる雲をあるいは闢(ひら)き、あるいは鎖(とざ)す役をあずかる。ホメーロス・・・・


15:その後のケオース

ケオースはアテーナイを盟主とするデーロス同盟に参加していました。そのためBC 431年にペロポネーソス戦争が始まると、ケオースはアテーナイに兵力を提供しました。この頃までにアテーナイは同盟諸国を自分の都合で動かせるほど強大になっていましたので、ケオースとしては提供を拒否したくても拒否出来ませんでした。BC 415年からのアテーナイによるシケリア遠征にケオースの兵が参加していることをトゥーキュディデースが記しています。そして、隷属国として年賦金を課せられている諸国からは、エレトリア、カルキス・・・・