神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ポテイダイア:目次

1:はじめに

エーゲ海の北西にあるフォークのような形をした地形はカルキディケー半島といいます。3本のフォークの刃のような半島は東から順に、アトス、トローネー、パレーネーという名前がついています。一番東のアトス半島にはギリシア正教の聖地であるアトス修道院アトス自治修道士共和国)があります。一番西のパレーネー半島の付け根あたり、一番くびれたところにポテイダイアという町がかつてありました。これら3つの半島を含めて全体をカルキディケー半島というのですが、カルキディケーという名前は・・・・


2:初期の歴史

ポテイダイアの創建の様子の想像を続けます。ポテイダイアへの植民団の団長には英雄ヘーラクレースの子孫とされる人物が任命されたと想像します。というのは、コリントスからの植民については、そのような例が多いからです。例えば上に述べたエピダムノスへの植民の際(再植民ではないほうです)には、ヘーラクレースの子孫とされるパリオスという人物が団長に任命されたということです。エピダムノスに植民したのはケルキューラ人であるが、その植民地開祖には、古くからの慣習にしたがって、ケルキューラ市の・・・・


3:ペルシアの支配のもとで

ポテイダイアがペルシアの支配下に入ったのは、イオーニアの反乱が鎮圧されたあとのBC 492年のことのようです。この年ペルシアは、イオーニアの反乱で影響力が落ちたトラーキア地方を再度征服しつつ西に進み、マケドニアを攻めて服属させました。彼ら(ペルシア人たち)はできる限り多くのギリシア都市を征服する心組みであったから、反撃の態勢すら示さなかったタソスを海軍によって征服するとともに、陸上部隊によってマケドニア人を討ち、すでにペルシアの隷属下にある民族にこれを加えたのである。・・・・


4:津波

ヘレースポントス(ダルダネス海峡)でペルシア王クセルクセースが無事アジア側に渡ったことを見届けた上で、ギリシア側に引き返したのはアルタバゾスという名前の将軍が率いるペルシアの陸上部隊でした。話を少し前に戻します。サラミースの海戦の敗北によってペルシア王クセルクセースが撤退を決意した時、ペルシアの将軍マルドニオスは再度の攻撃を意図してクセルクセースに軍勢を乞いました。彼はクセルクセース王にこう言ったのです。もし殿におかれてこの地にお留まりにはならぬ御決心ならば、・・・・


5:ペルシアの支配の終わり

まだポテイダイアがペルシア軍によって攻撃されている頃のことです。この時、ポテイダイアの市壁の中にはポテイダイア人だけでなくパレーネー半島のギリシア人都市からの援軍もいました。その中のスキオーネー人の部隊の指揮官がポテイダイアを裏切ろうとしたことがありました。(ペルシアの将軍)アルタバゾスは(ギリシア人都市)オリュントスを占領した後、ポテイダイアの攻撃に鋭意専念したが、その彼に内通し町の引き渡しを策したのが、スキオネ人部隊を率いるティモクセイノスであった。その内通が・・・・
6:開戦

アテーナイはポテイダイアに対して次の3つの要求を伝えました。1. パレーネー側(南側)の城壁を取壊すこと。2. アテーナイに人質を差出すこと。3. 毎年コリントスから派遣されてくる民政監督官を退去させ、今後は入国を拒否すること。パレーネー側の城壁を取壊すように要求したのは、南側、つまりアテーナイが船でポテイダイアに向う時に到達し易い方面を無防備にするためで、これによってポテイダイアはアテーナイに対する防衛能力が損なわれることになりました。また、コリントスからは・・・・


7:アリステウス

前回お話ししたようにアリステウスはコリントス人で、コリントスからの志願兵を率いてポテイダイアに援軍にやってきたのでした。攻め寄せるアテーナイに対する最初の戦いにおいてアリステウスが計画した作戦は以下のようなものでした。アリステウスの作戦計画は、アテーナイ勢が進軍してくれば、自分は配下の将士らとともに陸橋地帯の警備を担当し、カルキディケー人をはじめ陸峡の北側の同盟諸兵は(中略)オリュントス城内にて待機する。アテーナイ勢がさらに陸峡地帯に戦列をすすめたとき、オリュントスの伏兵は・・・・


8:開城

ポテイダイアの包囲が始まったのはBC 432年の夏でした。それから2年経ったBC 430年の夏もまだ包囲は続いていました。この頃、アテーナイ本国では流行病がはやっていました。流行病はポテイダイア攻略に援軍に来た部隊にも拡がってきて、アテーナイ軍を苦しめました。同夏、ペリクレースの同僚指揮官であった、ニーキアースの子ハグノーンとクレイニアースの子クレオポンポスは、先の遠征でペリクレースの麾下にあった軍勢を与えられて、ただちにトラーキア地方のカルキディケー人、ならびに当時なお籠城兵の立てこもっていた・・・・