神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

クノッソス(13):エピメニデース(1)

BC 640年頃のクノッソスにエピメニデースという名の男の子がいました。


エピメニデスは、テオポンポスその他多くの人たちが述べているところによると、パイスティオスの子であった。(中略)彼はクレタ人でクノソスの生まれであった。(中略)彼はある日、父親の言いつけで羊を探すために原へやられたが、昼頃、道からそれてある洞穴のなかで眠りこみ、そのまま57年間眠りつづけた。そのあと、彼は起き上がって羊を探しに行ったが、自分ではほんの短時間眠ったつもりだった。しかし羊は見つからないまま原へ行ってみると、何もかもが変っており、その土地も他人の手にわたっているのを知った。そこで彼はすっかり困惑して町へ引き返した。そしてそれから自分の家へ入って行くと、彼が誰であるかを知りたがっている人たちに出会ったが、ついに彼は、いまはもう老人になっている弟を見つけて、その弟から事の真相をすべて知らされたのであった。


しかし彼はギリシア人の間で評判となり、神に特別に愛されている者とみなされるようになったのである。


ディオゲネース・ラーエルティオス「ギリシア哲学者列伝」の第1巻 第10章「エピメニデス」 加来 彰俊訳 より

日本でいうところの浦島太郎みたいな話です。ただし、57年間を無駄にしまった代わりに、神々はエピメニデースに神的な智慧を与えてくれたのでした。


こういう評判があったので、アテーナイ人たちは自分たちの町に呪いがかかっていると思われた時に、エピメニデースに助けを求めたのでした。

 さてその頃、アテナイ人に疫病が襲いかかり、ピュティア(アポロンの巫女)は彼らに対して町を浄めるようにとの神託を伝えたとき、彼らアテナイ人はニケラトスの子ニキアスに率いられた船をクレタに派遣して、エピメニデスの助けを求めさせた。そこで彼は第46回オリンピック大会期(前596—593年)の頃にアテナイに来て、町を浄めて疫病を食い止めたが、それは次のようなやり方によってであった。つまり彼は、黒い羊と白い羊とを手に入れてアレイオス・パゴスへ連れて行き、そこから羊が横になった場所で、その土地の神に犠牲を捧げるようにと命じた。このようにして彼はその災禍を止めたのであった。そのゆえに今日でもなお、アテナイの諸地方には名前の刻まれていない祭壇が見られるのであるが、それらはそのときに行われた罪の償いの名残だとのことである。


同上


この呪いはアテーナイの政争が原因だったといいます。つまりキュローンという人物がクーデタを起してアテーナイのアクロポリスを占拠したのですが、それに対して人々はアクロポリスを包囲したために失敗したのでした。キュローンとその弟はこの包囲を脱出することが出来たのですが、あとの人々は包囲から逃れることが出来ず、最後には餓死者が出るに及んで、神殿の祭壇にすがって助命の嘆願を行ないました。この時筆頭のアルコーン(執政官)メガクレースは、彼らに危害を加えないと約束して彼らを祭壇から立たせました。しかし彼らを神殿の外に連れ出すと約束を破って、彼らを処刑してしまいました。神々の祭壇にすがった者たちを殺したということでメガクレースとその一族であるアルクマイオーン家の人々には穢れがついた、とアテーナイの人々は見なしました。その後も政争は続き、今度はアルクマイオーン家の人々が裁判にかけられて、アテーナイから追放の判決を受けました。アルクマイオーン家の人々はアテーナイを離れ、彼らの一族ですでに死んでいた者たちは、掘り起こされて国境の外に捨てられました。エピメニデースが浄めたのはこのような穢れでした。

ミュロンが(告訴したので)名門の間から選ばれた(300人は)犠牲を供え誓いをした後(審理した)。瀆神と判決されたので、彼ら(=アルクマイオーン家の人々)は墓場から掘り出され、彼らの氏族は永久の追放者となった。それにつきクレテの人エピメニデスが市を祓い浄めた。


アリストテレース「アテーナイ人の国制」1 村川 堅太郎 訳より。

さてエピメニデースは非常に尊敬を受けたが、アテーナイの人々が多くの金と大きな名誉を与えようとしたのに、オリーブの神木の枝を一つ求めただけで、それを持って帰国した。


プルータルコス著「ソローン伝」 12 河野与一訳 より。 (旧漢字、旧かなづかいを改めました。)

アテーナイのオリーブの神木に何か大きな価値が秘められていたのでしょうか。どこまでも不思議な人物です。