神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

クノッソス(10):ドーリス人の来歴

ドーリス人というのは、もともとドーリス地方に住んでいたギリシア人の部族だとされています。

紀元前後に活躍したローマの地理学者ストラボーンは以下のように書いています。

アイトーリア人は西ロクリス人と国境を接しています。そしてオイタ山に住むアイニス人はエピクネーミディアのロクリア人と国境を接しています。そしてその中間にいるのがドーリス人です。さて、これらのドーリス人は、彼らの言によればすべてのドーリス人の母市であったというテトラポリス(=四つの町)に住んでいた人々であり、彼らが住んでいた町はエリーネオス、ボイオス、ピンドス、キューティニオンでした。ピンドスはエリーネオスの上にあります。そして同じ名前の川がそこを流れ、リライアからそれほど遠くないケーピソスに注いでいます。しかし、ピンドスをアーキュパスと呼ぶ人もいます。これらのドーリス人の王はアイギミオスで、彼は王位を追われましたが、物語によると、ヘーラクレースによって再び復位しました。その結果、ヘーラクレースがオイタで亡くなった後、アイギミオスはヘーラクレースに恩返しをしました。というのは、彼はヘーラクレースの息子たちの長男ヒュロスを養子にしたからです。そしてヒュロスとその子孫が彼の王位継承者となりました ここ(=ドーリス地方)から、ヘーラクレースの子孫はペロポネーソス半島への帰還に向けて出発しました。


ストラボーン「地理誌」 9.4.10より

最後に出てくる、ヘーラクレースの子孫の「ペロポネーソス半島への帰還」については、こういう物語があります。

もともとヘーラクレースの本拠地はペロポネーソス半島のティーリュンスでした。ヘーラクレースは神意によりミュケーナイ王エウリュステウスの課す12の難行を果さなければなりませんでした。見事すべての難行を果したあと、ヘーラクレースはオイタ山で死去します。その後、今までヘーラクレースを迫害していたミュケーナイ王エウリュステウスは、ヘーラクレースの子供たちを迫害し始めました、彼らはペロポネーソス半島を出て逃げ回っていましたが、最終的にアテーナイ王テーセウスの助力によってエウリュステウスの軍を破り、エウリュステウスを処刑しました。帰国の障害が取り除かれたのでヘーラクレースの子供たちはペロポネーソス半島の諸都市を攻略してこれらを奪い取りました。しかし彼らがペロポネーソスに戻って一年後、疫病が蔓延することになりました。これを神の怒りととらえた彼らはデルポイの神託に神意をたずねました。神託が言うには、彼らがペロポネーソスに戻る定めの時以前に彼らが戻ったことが原因である、ということでした。さらに神託は「三度目の収穫を待ってのちに帰るであろう」と告げていました。そこで、ヘーラクレースの子供たちは一旦アテーナイ近くのマラトーンに移住して、定めの時を待つことにしました。ヘーラクレースの長男ヒュロスは、3年後に軍を率いてペロポネーソスに向いました。ところがこの遠征は失敗し、ヒュロスは戦死してしまいます。神託の意味していたのは3年ではなく、人間の3世代なのでした。ヒュロスより3世代のちのテーメノス、アリストデーモス、クレスポンテースの兄弟がドーリス人たちを率いてペロポネーソス半島を攻略し、そこにいたアカイア人ギリシア神話で活躍する英雄たちの種族はアカイア人と呼ばれていました)たちを追い出しました。そして、テーメノスはアルゴスの王となり、アリストデーモスがスパルタの王となり、クレスポンテースがメッセーネーの王となりました。


以上が「ヘーラクレースの子孫のペロポネーソス帰還」という神話上の出来事です。


BC 5世紀の歴史家トゥーキュディデースは、この「ヘーラクレースの子孫のペロポネーソス帰還」の神話的な部分をそぎ落として、トロイア戦争後のギリシア世界の歴史を以下のように復元しています。

トロイア戦争後にいたっても、まだギリシアでは国を離れるもの、国を建てる者がつづいたために、平和のうちに国力を充実させることができなかった。その訳は、トロイアからのギリシア勢の帰還がおくれたことによって、広範囲な社会的変動が生じ、ほとんど全てのポリスでは内乱が起り、またその内乱によって国を追われた者たちがあらたに国を建てる、という事態がくりかえされたためである。また、現在のボイオーティア人の祖先たちは、もとはアルネーに住居していたが、トロイア陥落後60年目に、テッサリア人に圧迫されて故地をあとに、今のボイオーティア、古くはカドメイアといわれた地方に住みついた(中略)。また80年後には、ドーリス人がヘーラクレースの後裔らとともに、ペロポネーソス半島を占領した。こうして長年ののち、ようやくギリシアは永続性のある平和をとりもどした。そしてもはや住民の駆逐がおこなわれなくなってから、植民活動を開始した。アテーナイ人はイオーニアとエーゲ海の大部分の島嶼に植民を送り、ペロポネーソス人(=ドーリス人)はイタリア、とりわけシケリア島の多くの地方に植民地をひらき、またその他のギリシア諸地のいくつかにも植民した。これら植民地はいずれもみな、トロイア戦争後の建設になるものであった。


トゥーキュディデース「戦史 巻1 12」より

ところが、これらの伝説、記事を調べても、ドーリス人がどのようにしてクレータ島を占拠したのかについて、情報を得られません。