神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

キラ(2):ギリシア人到来以前の町


紀元前後に活躍したストラボーンの「地理誌」によればキラの町とクリューセーの町は近くにあったということです。

アドラミュッティオン地方にはクリューセーとキラがあります。現在テーベーの近くにはキラという場所があり、そこにはアポローン・キラエウスの神殿があります。そのそばをイーダ山から発する川が流れています。


ストラボーン「地理誌」13.1.62 より



(上:アガメムノーンに懇願するクリューセース)


クリューセーの祭司クリューセース(「クリューセーの男」という意味で、いい加減に作った名前のように思えます)にはクリューセーイス(「クリューセースの娘」という意味で、これもいい加減に作った名前のように思えます)という娘がいましたが、娘はアガメムノーンの許に拉致されてしまいました。それはギリシア軍がテーベーの町を攻めたからで、クリューセーイスは折悪しくその時テーベーに滞在していたのでした。その時にクリューセーイスのような若い娘たちギリシア軍によって連れ去られたのでした。テーベーの町からの略奪品の分配の会議で、クリューセーイスはギリシア軍総大将のアガメムノーンのものと決まりました。クリューセーイスはアガメムノーンの奴隷で、かつ妾となる運命になったのでした。父親のクリューセースはアガメムノーンの許に、さまざまな高価な品々を持って行き、それらを身代金として娘のクリューセーイスを解放してくれるように懇願しました。しかしアガメムノーンはこれを聞き入れず、クリューセースを追い返しました。そこでクリューセースはアポローン神に、ギリシア軍に疫病を起こしてもらうように祈りました。

「聞こし召せ、銀弓神(=アポローン神のこと)よ、クリューセーの町を敷き護りたまい、
またいとも聖(とうと)いキルラやテネドスまでを、あらたかに統(す)べます御神、
スミンテウス(=アポローン神の異名の一つ。ただし、その意味ははっきりしない。ネズミを追い払う神か?)よ、もしいつか私の葺いてまつった御社が、心に適い、
またはそれこそ一度でも、焼いて献げた牡牛や山羊の肥えたる腿の
供物を嘉納したもうたならば、この願いだけはお叶え下さい、
ダナオイ勢(=ギリシア軍のこと)が、御神の箭(や)の力によって、私の涙をつぐのいますよう。


ホメーロス 「イーリアス 第1書」 呉茂一訳 より


アポローン神はそれを聞き届けて、トロイアと戦うために海岸に作られたギリシア軍の陣屋の中に疫病の矢を何本も何本も射込んだので、ギリシア軍の馬や兵士たちはバタバタと倒れて死んでいったのでした。兵士たちが倒れ始めてから10日目になって、アガメムノーンは折れて、クリューセーイスをクリューセースの許に送り返します。しかし、自分がクリューセーイスを手放した代償として、アキレウスのところに同じように捕われていた美女ブリーセーイスを奪っていったのでした。これに怒ったアキレウスストライキを起こし、戦場から身を引いた、というのが長い長い「イーリアス」の物語の発端になります。


このようなことをご紹介したのは、クリューセーの町がギリシア軍に敵対していたことを示したかったからです。また、クリューセーイスが捕えられたテーベーの町は、トロイア側の総大将ヘクトールの妻アンドロマケーの出身地でした。アンドロマケーはテーベーの王女だったのです。ここからもクリューセーがトロイア方であったことが分かります。このことから、クリューセーやテーベーに近いキラの町もギリシア軍に敵対していた、つまりはトロイア方であったことが推測されます。ここから、キラの町にはかつてギリシア人以外の民族が住んでいたと推測出来ます。もちろん、ヘーロドトスが生きていたBC 5世紀にはキラはギリシア人(そのなかでものアイオリス人)の町でした。しかし、トロイア戦争の頃は別の民族の町だったようです。そしてその町はアポローン神の聖地なのでした。



ここで興味深いのは、ホメーロスの「イーリアス」の中ではアポローン神は一貫してトロイアの味方をしていることです。一方、ギリシア側の味方をしていたのはゼウスの妃ヘーラーとゼウスの娘アテーナーでした。ここで考古学を参照すると、ヒッタイト語で書かれた、ヒッタイトとウィルサの間の条約文書が注目されます。ここでウィルサという国が登場しましたが、研究者によればこれはトロイアのことであると認められています。ウィルサとトロイアでは、とても両者の名前が似ているとは思えませんが、ホメーロストロイアのことをイーリオンとかイーリオスとも呼んでいます。言語学上の知見によって、古くはこの言葉はウィリオンまたはウィリオスと呼ばれていたと推測されます。ここから、ウィルサとウィリオスが同じ町であると推定されたのです。この条約文書に、ウィルサ側の神々の名が3つ登場して条約の内容を保証するのでしたが、その中の1柱の神の名前が「アパリウナス」というものでした。学者たちはこの神がアポローンの原型(の1つ)ではないか、と推測しています。キラのアポローン神も、この「アパリウナス」神のことであったと私は推測します。