キラについてお話し出来ることは、これでほぼ尽きました。かつて、キラが影響力のある町だったことは、ストラボーンが以下に書いているように、かなり遠方の山がキラにちなんだ名前になっていることからも推測出来ます。
レスボス島のキライオンはこのキラにちなんで名づけられました。ガルガラとアンタンドロスの間にもキライオン山があります。
しかしそれはおそらくギリシア人がこの町を占拠する以前のことで、キラのアポローン・キラエウス神殿の近くにあった大きな塚というのも、先住民の支配者のものだったのでしょう。ギリシア神話ではキラースという名前で伝えられているこの人物が、本当は何という名前で、どの民族に属していたかは分かりません。場所から考えるとミュシア系、あるいはリュディア系の民族ではないか、と思います。それが、BC 1200年のカタストロフと現代の学者たちが呼ぶ広範囲の動乱によって、おそらくキラも荒廃し、その後やってきたギリシア人(アイオリス系)がこの町を襲って、乗っ取ったのでしょう。ストラボーンはアイオリス人の植民の様子を大まかに述べていますが、キラがどのような経緯で植民されたのかについては、情報がありません。ストラボーンが述べているのは以下のことです。
(アガメムノーン王の息子)オレステースは植民団のリーダーでしたが、アルカディアで亡くなりました。彼を引き継いだのは息子のペンティロスで、トロイア戦争の60年後、ヘーラクレースの子孫たちがペロポネーソスに帰還した頃に、トラーキアまで進出しました。その後、ペンティロスの息子アルケラーオスは、アイオリスの植民団を、海を越えてダスキュリオンの近くの現在のキュージコスまで導きました。彼の末の息子グラースはグラニコス川まで進み、より良い手段を与えられたので、遠征隊の人々の大部分をレスボス島に輸送して、そこを占領しました。
一方、ドーロスの息子クレウアスとマラオスはアガメムノーンの子孫で、彼らはペンティロスとほぼ同時期に遠征隊を編成しましたが、ペンティロスの部隊は彼らより先にトラーキアからアジアに渡りました。一方、残りの部隊はロクリス付近とプリキオス山で手間取っていました。しかし、最終的に彼らは海を渡り、キューメーを建設し、ロクリスの山プリキオスにちなんでプリコニス(=キューメーの別名)と名付けました。
そして、アイオリス人たちは、詩人(=ホメーロス)がトロイアの国と呼んでいる国全体に散らばっていきました。・・・・
ここから推測すると、キラに向った人々は、グラニコス川をさかのぼって峠を越えて海に達し、そこからレスボス島に渡った(グラースが率いる)一隊から分かれて東に向かったか、それとも、直接キューメーに向った人々から分かれて北に向ったか、のどちらかではないか、と思います。しかし、植民の経緯というのは往々にして複雑なものなので、もっと別の経路をたどったのかもしれません。
ギリシア人の町となってからのキラについても、ほとんど情報がありません。往年の「いとも聖(とうと)い」キラと呼ばれた盛名はなくなってしまったようです。情報がないので、その後の歴史は推測するしかありません。BC 8世紀には東のプリュギア王国の圧力にさらされ、BC 7世紀にプリュギアが滅んだのちは騎馬民族のキンメリア人たちの来襲を受けたのかもしれません。その後はリュディア王国が優勢になり、BC 550年頃にはリュディアの支配下に入り、BC 546年頃にはリュディアを滅ぼしたペルシア王国の支配下に入ったものと思われます。ギリシアがペルシア勢をエーゲ海から駆逐したあと、アテーナイを中心とする軍事同盟であるデーロス同盟にキラが参加していたことは、アテーナイから出土した碑文によって明らかになっている、ということです。なお、キラの正確な場所はいまだ分かっておらず、よってキラからの出土品とされるものもないそうです。
「分からない」とばかり書いた記事になってしまいました。すみません。これでキラについての話を終えます。