神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

クノッソス(24):歴史と伝説の狭間

 

BC 1450年頃にミノア文明の繁栄は終わりました。この頃、クレータ島の各地の宮殿が破壊され、クノッソス宮殿だけが残りました。この時に本土からミュケーナイ文明のギリシア人が攻めてきてクレータ島を占領した、と推定されていますが、詳しい経緯は分かっていません。


では、ギリシアに伝わる神話・伝説からこの事件について何かの示唆が得られるでしょうか。ここで注意すべきことは、ミュケーナイ文明のギリシア人といっても彼らがミュケーナイから来たとは限らない、ということです。というのは、この文明は、有名な遺跡がミュケーナイから発掘されたためにミュケーナイ文明と名付けられたのであって、ギリシア本土の多くの土地がミュケーナイ文明に属していたからです。

(上:ミューケーナイ文明の時代のギリシア語を話す人々の諸王国)


そう考えるとき、アテーナイの英雄がミーノータウロスを退治した伝説が、このBC 1450年頃の事件をうっすらと反映したものかもしれない、と思えてきます。当時のアテーナイもミュケーナイ文明に属していました。しかし、この伝説にはアテーナイからクノッソスに人々が移住したという話が欠けており、この点で考古学の推定する経緯と異なっています。


一方、ギリシア本土からクレータ島にギリシア人が移住したという伝説は「(9):民族の変遷」で紹介したようにヘーロドトスが伝えています。その伝説によれば、シケリア島の町カミーコスで横死したミーノース王の復讐のためにクレータの人々はカミーコスを包囲したが落とすことが出来なかった。そしてあきらめて帰国する際に途中で難破してイタリア半島の南端に打ち上げられ、彼らはそこに住みついてしまった。このためにクレータ島は無人になったのでギリシア人が移住した、というものです。この伝説によれば、クノッソスは征服されたのではなく、無人になってしまったところに(おそらくミュケーナイ文明の)ギリシア人を平和的に受け入れたことになります。しかしこれはBC 1450年頃クレータ島の各地の宮殿が破壊された、という考古学上の事実と合致しません。ということで、信憑性のある伝説はどうもなさそうです。


さて、ミュケーナイ文明のギリシア人支配者たちはクノッソス宮殿を自分たちの好みに改装して使用していました。しかし、約100年後のBC 1350年にはクノッソス宮殿も破壊され、二度と再建されることはありませんでした。この時も何が起きたのか、やはり不明です。

クレータはしばらくの間、強力な中央集権の下にあったが、これとても長くは続かなかった。というのも、クノーソスの崩壊は単に遅れただけで、回避されたわけではなかったからである。その時期については諸説あるが、おそらくは紀元前14世紀の前半に、またもや原因不明の大火に見舞われて、クノーソスの巨大な王宮は焼け落ち、二度と再び権力の中心地となることはなかった。むろんこのことは、これ以後クノーソスに王が存在しなかったということを意味するものではない。しかしたとえ王がいたとしても、まだ発見されていないどこか別の場所に新しい王宮を建設したものと考えられる。しかしそれは単に弱小国の君主にすぎず、おそらく威令をクレータ島内の他の支配者たちに及ぼすことはできなかったであろう。


チャドウィック著「ミュケーナイ世界」より

クノーソス出土の線文字Bが書かれた粘土板は、この時の大火によって焼き固められた結果、現代まで残ることが出来たと考えられています。線文字Bは解読されていて、古代ギリシア語で書かれていることが分かっていますが、線文字B粘土板を調べても、クノッソス宮殿の倒壊の原因は分かりません。

文書から明確にうかがえることは、全く正常に一年の半ばが過ぎようとしていたある時期にクノーソスは突如打撃を蒙ったということである。羊の刈り込みは済み、刈り込まれた羊毛は、布に織るために女たちの集団に支給されているし、また、少なくとも一部の地域では、刈り入れされた穀物の集荷も終っていたであろう。


同上


さらに私にとって驚くべきことがありました。それは、クノッソス宮殿崩壊の年代(BC 1350年頃)が、トロイア戦争があったとされるBC 1200年頃より以前だったということです。もしそうだとすると、ホメーロスが「イーリアス」で歌ったように、クレータの王イードメネウスがトロイア戦争に参加して活躍した、という話は全て空想の産物ということになってしまいます。これは、伝説を安易に信じてはいけない、ということを意味するのでしょうか?