ドーリス人がクレータ島を征服してからのクノッソスの情報はほとんどありません。考古学から言えることは、クレータ島全体を支配するような広域の政治権力がこの時代には消滅し、代わりにもっと小さな範囲を支配する権力が島中に乱立したらしい、ということです。ドーリス人のクレータ島到来について何か記述が残っていないか調べたところ、以下の2つの記事を見つけました。ひとつはホメーロスの「オデュッセイアー」で、そこではドーリス人がすでにクレータ島に住んでいることを述べています。これはすでに「(3):ミーノース王」で紹介しました。
クレーテーという国があります、ぶどう酒色の大海のさ中にして、
いつくしくもまた饒(ゆた)かに、潮をめぐらすうちに人々
数限りなく多勢住まい、九十の都邑をかまえる、
それがいちいち言語が違い、たがいに混じりあったうちに、アカイア族(=イードメネウスが属していた英雄時代に活躍したギリシアの部族)も
あれば意気の旺んなエテオクレーテス(=「真のクレータ人」という意味。おそらくミーノース王が属していた非ギリシア系の民族)もあり、またキュドーネス族(=おそらく非ギリシア系の民族)や、三部に別かれたドーリス族や、古参のペラスゴイ人(=ギリシア世界のあちこちに住んでいた謎の民族。ギリシア人より以前にギリシア世界に広く居住していたらしい)らも住まって
いる間にもクノーソスは大きな城市(しろまち)とて・・・・
オデュッセイアーのこの場面はトロイア戦争終結の10年後の場面です。この時点でまだヘーラクレースの子孫とドーリス人はペロポネーソス半島を占拠していないので、この時点ですでにクレータ島にドーリス人がいるのはおかしな話です。これは、時代錯誤の記述であると解釈しておきます。ただ、クレータ島にはいろいろな言語が話されていたという情報(「それがいちいち言語が違い、たがいに混じりあったうちに」)は重要だと思いました。この中でエテオクレータ人というのが登場しますが、クレータ島にはギリシア語のアルファベットで書かれてはいるが明らかにギリシア語ではない碑文が残っており、この言語のことを学者はエテオクレータ語と呼んでいます。エテオクレータ語はまだ解読されていません。
もう一つの記事は哲学者アリストテレースの「政治学」の中で見つけたもので、スパルタ人(彼らはドーリス人でした)がクレータ島のリュクトスという町に植民したという記事です。その記事から、彼らが先住民を征服したことが推定できます。
人の話によると、(スパルタ人)リュクルゴスはカリラオス王の後見役をやめて外遊した当時、クレテ人たちがラケダイモン(=スパルタ)人たちと親族関係になっていたので、そこで大部分の時を過ごした。親族関係になっていたというのは、クレテのリュクトス人たちはラケダイモン(=スパルタ)人の植民者であったからであるが、この植民地に来た人々はその時そこに定住していた人々の間に法律の体系が存しているのを見出した。だからクレテの隷属民であるペリオイコイは、ミノスが法律の初めて定めたのだと信じて、今でもそれを昔と同じように使用している。
スパルタ人リュクルーゴスについては別の箇所で述べることにします。この記事から、リュクトス人がスパルタからの植民者であったことが分かります(「クレテのリュクトス人たちはラケダイモン(=スパルタ)人の植民者であった」)。それから、スパルタ人がリュクトスにやってきた時にすでにそこに人が住んでいたことも分かります(「この植民地に来た人々はその時そこに定住していた人々の間に法律の体系が存しているのを見出した。」)。これらの人々はドーリス人に征服されてペリオイコイと呼ばれていました。彼らペリオイコイがこの法律の体系を伝えていたのですが、彼らはそれを太古のクレータ王ミーノースが定めたものと信じていたのでした(「クレテの隷属民であるペリオイコイは、ミノスが法律の初めて定めたのだと信じて、今でもそれを昔と同じように使用している。」)。植民といっても無人の地に新たに町を建設するのではなくて、すでにあった町を占領して元からの住民を服属させてしまっていたのでした。リュクトスは古い町で、ホメーロスの「イーリアス」にもクレータ王イードメネウスの支配下の町の一つとして名が挙がっていました。
さてクレーテー人らを引具(ひきぐ)したのは槍に名だたるイードメネウス、
この面々はクノーソスや、塁壁(とりで)をめぐらすゴルチュース、またリュクトス
さてはミーレートス、あるは白亜に富めるリュカストスを保つ者ども、
またパイストスやリュティオンなど、いずれも構えよろしき邑々、
またその他にも百の邑あるクレーテー島の 一帯に住まう者ども、
残念ながらクノッソスの町についての情報は見つけられませんでした。