神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

クノッソス(12):リュクールゴスのクレータ島訪問

前回少し登場したスパルタ人リュクールゴスは半ば伝説的な人物であり、彼の生きていた時代を特定することは難しいですが、プルータルコスの記事を元に述べてみます。


ドーリス人がスパルタを占拠した時にそこの王となったのがアリストデーモスですが、この説には異論もあり、アリストデーモスの子供のプロクレースとエウリュステネースという双子が一緒に王位についた、ともいいます。スパルタには彼らを始祖としてプロクレース家とエウリュステネース家という2つの王家が代々王位を伝えてきました。つまりスパルタは2王制という珍しい国制を採用していたのでした。プルータルコスによれば、リュクールゴスはスパルタの一方の王家の初代プロクレースから6代目に当たるということです。これでリュクールゴスの生きていた時代を大まかに述べたことにします。あまり当てになる数字ではありませんが英語版Wikipediaの「リュクールゴス」の項では、彼の活躍した年代をBC 820年頃としています。


リュクールゴスは王族でしたが、王位には臨時的に就任したもののすぐに前王の息子に譲り、その後見人に就任しました。この頃のスパルタの政治は大変不安定でしたので、リュクールゴスは政治改革を企画し、クレータの国制を取り入れました。

スパルタ人自身の伝承によれば、これ(=スパルタの国制)はリュクルゴスが、彼の甥で当時スパルタの王であったレオボテスの後見役となった後、クレタ島からもたらしたものであるという。すなわち彼は甥の後見役になるとすぐ、法律をことごとく変改し、新法の違反を厳重に取締ったのである。リュクルゴスはその後さらに、兵制を改めて血盟隊(エノモティア)、三十人隊(トリアカス)、共同食事(シュッシティア)などの制度を定め、また監督官(エポロイ)や長老会(ゲロンテス)を創設したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻1、65 松平千秋訳 から


これらの制度はクレータに由来するものでした。そして、前回見たようにこれらの制度は元々ド-リス人到来以前のギリシア人(おそらくアカイア人)が昔から伝えていたものであり、彼らはこれらの制度をいにしえのミーノース王が定めたと信じていたのでした。上のヘーロドトスの記事では彼がクレータ島を訪問したかどうかははっきりしませんが、下のアリストテレースの記事によれば、彼は甥のレオーボテース王の後見人を止めたあとにクレータに向ったということが書かれています。

クレテの国制はラケダイモン(=スパルタ)の国制に非常に近い、(中略)クレテの国制をラケダイモンの(国制)は模倣したようであるし、また実際そうも言われている(中略)。というのは、人の話によると、リュクルゴスはカリラオス王の後見役をやめて外遊した当時、クレテ人たちがラケダイモン人たちと親族関係になっていたので、そこで大部分の時を過ごした。親族関係になっていたというのは、クレテのリュクトス人たちはラケダイモン(=スパルタ)人の植民者であったからである・・・・


アリストテレス政治学」第2巻 第10章 山本光雄訳 より

上の引用記事によればリュクールゴスはクレータ島のリュクトスの町を訪問したようですが、クノッソスへは行ったのでしょうか? 行ったとしたら、かつての宮殿が放棄されたまま廃墟になっていたのを見たと思います。その時彼は何を思ったのか、私は想像したくなります。私はリュクールゴスの目から当時のクノッソスの様子を探ろうとしてここまで書いてきましたが、結局何も分かりませんでした。

(上:クノッソス宮殿


さて、日本語版ウィキペディアの「クレタ島の歴史」の項にはこう書かれています。

文字記録が失われ、考古学的痕跡も希薄になり情報が得られなくなることから、前1200年から前750年頃までの時代はギリシア史では伝統的に「暗黒時代」とも呼ばれている。近年では文化的な「断絶」よりミケーネ時代の文化との継続的要素が指摘されるなどし、この呼称は見直されつつあるが、それでもこの時代は学術的な分水嶺を為している。
クレタ島のクノッソスではこの時代には安定的な集落が構築されており、前1200年のカタストロフの時期からの文化的変容も連続的であったことが知られている。むしろクノッソスの状況が把握できなくなるのは前7世紀末から前6世紀にかけてのことであり、この時代にはクノッソス自体が一時滅亡した可能性もある。


日本語版ウィキペディアの「クレタ島の歴史」の項より

この記事には「むしろクノッソスの状況が把握できなくなるのは前7世紀末から前6世紀にかけてのこと」と書かれているので、それ以前のBC 1200年からBC 750年頃までの時代についての情報が欲しいです。