神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

クノッソス(26):BC 1200年の謎

BC 1200年からあとの数百年のクノッソスの様子はやはり分かりません。この頃になるとギリシア本土でも次々と宮殿が破壊され、ミュケーナイ文明は滅亡してしまいました。この滅亡の原因はいまだに明らかになっていません。かつては北からドーリス人が侵入してきたことが原因とされていましたが、現代ではその説に反対する説も有力になっています。かといってどれかの説が定説になったわけでもありません。

古代ギリシアの伝説で知られるように、ミュケーナイ・ギリシアの終焉をもたらしたドーリス人の侵入という仮説は、新しい埋葬方式、特にシスト墓や、新しいギリシア語の方言、つまりドーリス方言の使用などの散発的な考古学的証拠によって裏付けられています。ドーリス人は何年にもわたって徐々に南下し、領土を荒廃させ、最終的にミュケーナイ文明の諸々の中心地に定着したようです。


英語版Wikipediaの「ミュケーナイ文明」の項より


一方、エジプト人が「海の民」と呼んだ諸民族の集団が、ミュケーナイ文明のギリシアを襲ったためにミュケーナイ文明は滅亡した、という説もあります。

一方、ミュケーナイ・ギリシアの崩壊は、東地中海における海の民の活動と時を同じくしています。彼らはアナトリアとレバントに広範な破壊を引き起こし、最終的にはBC 1175年頃にファラオのラムセス3世によって打ち負かされました。これらの人々を構成する民族の1つはエクウェシュであり、この名前はヒッタイトの碑文のアヒヤワと関連していると思われます。


同上

この説明の最後のところには補足説明が要りそうです。ヒッタイトの碑文に登場するアヒヤワは、ギリシア人の一派であるアカイア人のことを指しているという説が有力です。ホメーロスは神話の英雄たちのことをアカイア人またはダナオイ人と呼んでいます。上の説明は、海の民の構成民族の一つとしたエクウェシュを、アカイア人に同定しようとするものです。しかし、私にはこの説明は混乱を引き起こすように思えます。ミュケーナイ文明のギリシア人たちがアカイア人と自称していたのは私には確からしく思えます。なのにミュケエーナイ文明を滅ぼした人々もアカイア人と呼ばれていたのでしょうか? 私には事態がよく理解できません。もし、攻撃するほうもされるほうも同じアカイア人だったとすると、あるいは、次の内輪もめ説に近い事態だったのかもしれません。

(上:海の民を迎え撃つエジプト王ラムセス3世

別のシナリオでは、ミュケーナイ・ギリシアの崩壊は内部の混乱の結果であり、それは厳格な階層社会システムとワナックス(=王)のイデオロギーの結果としてミュケーナイ諸国間の内輪もめや多くの国での内乱を引き起こした、と提案されました。一般に、BC 12 世紀から 11 世紀のギリシアの考古学的状況が不明瞭であるため、ミュケーナイの宮殿国家を引き継いだ貧しい社会集団が新参者だったのか、それともすでにミュケーナイ・ギリシアに住んでいた集団なのかについて、学者の間で論争が続いています。最近の考古学的発見は後者のシナリオを支持する傾向があります。


同上

上の引用の最後の部分は、プラトーンが「法律」で以下のように書いていた(「(20):プラトーンが再構成した先史時代(4): 再びドーリス人について」参照)のを思い起こさせるような説です。

ところで、そのイリオン(=トロイア)の包囲されていた期間が10年ともなると、その間に、包囲していた者それぞれの母国では、若者たちの内紛のために、多くの不幸がもち上がっていました。というのも若者たちは、兵士たちが自分の国や家に帰還したとき、立派なふさわしい仕かたで彼らを受けいれず、むしろその結果、おびただしい死刑や虐殺や追放が生じてくるありさまでした。その追放された者たちは、その後、名前をかえて再び戻ってきましたが、彼らは、アカイア人と呼ばれるかわりに、ドリア人(=ドーリス人)と呼ばれました。その理由は、追放されたその者たちを糾合したのが、ドリエウスという人だったからです。


プラトーン「法律」第3巻第4章 森進一・池田美恵・加来彰俊訳 より

プラトーンは、内乱の結果、アカイア人の一部がドーリス人になったのだ、と書いています。では、海の民はミュケーナイ文明滅亡には関係なかったのでしょうか? 私は海の民も関係しているような気がします。私は、内乱で国を追い出された人々が海の民に合流したということを想像しています。そして彼らの拠点がクレータ島ではなかったのか、とも・・・・。