神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

クノッソス(1):エウローペー


クレータ島はエーゲ海で一番大きな島で、この島より北側がエーゲ海、南側がリビア海と呼ばれています。つまりエーゲ海の南の境になっているのがクレータ島です。クノッソスはこのクレータ島の北岸の真ん中あたりに位置しています。伝説によればクノッソスにはミーノースという権勢のある王がかつて存在し、ミーノースはクレータ島全域のみならずエーゲ海のほとんどを支配していたということです。ギリシア神話ではミーノースは神々の王ゼウスの息子であり、立法者であり、死んでからは冥界の裁判官、いわば閻魔様のような役割も引き受けています。一方、アテーナイの英雄テーセウスを巡る物語では終始悪役として語られ、後世アテーナイの勢力が増大するとともにミーノースの評判は落ちていきました。


このテーセウスの物語に出てくるのがミーノースの義理の息子ミーノータウロス(「ミーノースの牛」という意味)という牛の頭に人の身体という怪物で、この怪物を隠して養うために当時の有名な建築家ダイダロスに迷宮を建てさせ、ミーノータウロスをその中に入れた、といいます。この迷宮と怪物の組み合わせに、私は何か奥深いものを感じます。それをうまく言葉に出来るといいのですが、文才がなくて、なかなかそれが出来ません。神話学者のケレーニイの本で読んだような気がするのですが、迷宮というのは一度入ったら二度と出て来れない、という意味があるので、それは死後の世界を意味しているのだそうです。

この迷宮の物語は人間の心の深層には関係するものの現実世界からはかけ離れしているもののように思われます。それにも関わらず、20世紀の初めにクノッソスから巨大な迷宮を思わせる複雑な構造の建物が発掘されました。この遺跡はクノッソス宮殿と名付けられ、今では著名な観光地になっています。この遺跡を通して神話の世界につながっていきそうな気がするので、まさに神話と歴史の間をさ迷うにはクノッソスはよい舞台だと思います。


ところが、歴史時代に入ったところ(BC 8~5世紀)ではクノッソスの情報はあまりありません。クノッソスだけでなくクレータ島全体を見ても、この期間の情報は少ないです。そのため、クノッソスについて、神話の世界から歴史へと話をうまく接続することが出来ないような気もしています。ともかく、まずはギリシア神話が述べるクノッソスの由来を述べていくことにします。クノッソスの王ミーノースの父親はゼウス神ですが、母親はエウローペーという人間の女性でした。エウローペーがミーノースを産むに至った話から始めます。


エウローペーは元々クレータではなくフェニキアの王女でした。父親はフェニキア王アゲーノールで、エウローペーにはポイニクス、キリクス、カドモスという3人の兄がいました。エウローペーは美しい少女へと成長していったのですが、そんなある時に神々の王ゼウスは、オリュンポス山の頂から地上を眺め渡していて、彼女に目が止まったのでした。ゼウスというのは(ゼウスに限らず他の男神たちもですが)ちょくちょく人間の女に手を出すのでした。しかもたちが悪いことに、ゼウスはこの宇宙の最高権力者なので、一旦、行動を起こすと誰も止めることが出来ません。せいぜいお妃のヘーラーが小言を言ったり、陰で嫌がらせをしたりするぐらいのものです。さて、この時ゼウスは、エウローペーに警戒されないためにおとなしい牡牛に姿を変えて、フェニキアへ赴いたのでした。そして、怖がるエウローペーに優しくじゃれて安心させ、その背中に乗ってみたいという気を起こさせました。

エウローペーがその背中に乗ると、しめたとばかりこの牛は海の中に入っていくのでエウローペーは恐ろしくて牛にしがみつくしかありませんでした。牛は海を泳いてクレータ島にたどり着き、そこで正体をエウローペーに示しました。エウローペーはゼウスによって二人の男の子を生みました。二人の子供はミーノースとラダマンテュスと名付けられ、やがてミーノースがクノッソスで王位につきました。


星座の「おうし座」は、ゼウスが化けた牡牛の姿を記念して天空に飾ったものだといいます。また、エウローペーがたどり着いたクレータ島はエウローペーとも呼ばれるようになり、この地名の指す範囲が拡大してギリシア本土がエウローペーと呼ばれ、さらにはギリシア本土につながる大陸全体がエウローペーと呼ばれるようになりました。つまりこれがヨーロッパ(古代ギリシア語でエウローペー)の語源です。どうやら、ヨーロッパというのは最初はクレータ島のことを指していたようです。そうするとそれに対するアジアというのは元々はフェニキアのことを指していたのでしょうか? このあたりは気になります。


さて娘の失踪を知った父親アゲーノールはどうしたかと言いますと、

 エウローペーの失踪後、国王アゲーノールは大いに怒りかつ心配して、三人の息子に命じて妹の行方を捜索させた。世界の隅々までいって、くまなく探して来い、見つからぬうちは、帰国を許すまいぞ、といった頑固さである。しかし大神ゼウスの秘したもうたものが、人間に見つけられるはずはないので、三人とも父を畏れてついに帰国せず、それぞれ赴いた土地に国を建てて住まった。ポイニクスはポイニキア人の、キリクスはキリキア人の祖というわけである。


呉茂一著「ギリシア神話(下)」より