神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

テーノス(7):サラミースの海戦

この時のペルシア軍のギリシア侵攻は、アテーナイによってマラトーンの戦いで食い止められます。彼らはアテーナイに敗北してペルシアへ引き返していきました。とはいえ、テーノス人はペルシアの軍事力の大きさを印象付けられたのでした。


10年後のBC 480年、ペルシアは再びギリシア本土に攻めてきました。新しく即位したペルシア王クセルクセースは、ギリシア本土全部を征服するつもりで、陸海の大軍を自ら率いて北から攻めてきました。このときペルシア王からの使者がテーノスに来て、軍船を派遣して従軍するように要求してきました。テーノスは王の命令に従いました。このような使者は他の多くの島々にも派遣されていたのでした。

大陸の水際にそうて、
しぶきをあげる島々も、
レスボスも、
オリーブゆたかなサモスの島も、
キオスパロスも、
ナクソスもミュコノスも、
テノスとその隣り島アンドロスも、
われら(=ペルシア人たち)の王にしたがった。


アイスキュロスの悲劇「ペルシアの人々」 久保正彰訳より


ギリシア諸都市の連合艦隊はペルシアと幾度か戦いを交えたのち、追い詰められてアテーナイ沖にあるサラミース島に集結し、そこでペルシア艦隊を迎え撃つことになりました。一方ペルシア船隊は、夜の内に進出してサラミース港を包囲するように東から西へと延びる長い船列を敷きました。そしてその兵士たちは、港のギリシア艦隊を睨んだまま一睡もせず、夜明けを待ちました。

(上:サラミースの海戦の図。英語版Wikipediaの「第二次ペルシア戦争」の項より)


ところがギリシア側は夜のうちに自分たちが包囲されていることに気付いておらず、大多数の町の指揮官たちはサラミースを捨ててペロポネーソス半島に向ってそこでペルシア軍に抗戦することを主張しておりました。これに対して、最大数の軍船を供出したアテーナイや、アイギーナなどの指揮官たちは、そんなことをされては自分たちの都市は見捨てられることになるといって反対していました。こうして夜の間ずっと指揮官たちの論戦が続いていましたが、そこへ陶片追放にあってアテーナイを離れていた政治家アリステイデースがペルシア軍の包囲をかいくぐってサラミースのギリシア軍陣地にやってきて、彼らがすでにペルシア軍に包囲されていることを指揮官たちに告げたのでした。しかし指揮官の多くは彼の言葉を信じませんでした。この時、テーノスが派遣した一隻の軍船がペルシア艦隊から脱走し、サラミース港にやってきました。

彼ら(=ギリシアの指揮官たち)が疑念を懐いていた折しも、テノス人の乗り込んだ三段橈船が一隻、敵方から脱走してきた。その艦長はテノス人でソシメネスの子パナイティオスという男であったが、この船が真相をあますことなく伝えたのである。(中略)
 ギリシア軍はテノス人の確言したところを信ずるに至り、ようやく海戦の準備にかかった。夜の白むとともに指揮官たちは艦上戦闘員を集合させた(中略)。ここにおいてギリシア軍は全艦船をもって外海に乗り出したが、それと同時にペルシア軍はただちに彼らに迫ってきた。


ヘロドトス著「歴史」巻8、82~83 から


テーノスがペルシア王の求めに応じてこの海戦に派遣した軍船がこの一隻だけだったのか、それとも何隻か派遣したなかでこの一隻だけが脱走してきたのか、よく分かりません。ギリシア側に走ったこのテーノス人たちは何を思ってこの思い切った行動に出たのでしょうか? やはり異民族に協力して同族を攻撃することを不正と感じたからなのでしょうか?(とはいえこの時代のギリシア諸都市は、しょっちゅうお互いに争っている状況で、今回のようにギリシア諸都市が連合するというのはめずらしいことでした。)それともこのテーノス人の艦長パナイティオスは目端が利く男で、ギリシア側の勝利を予想したのでしょうか?


サラミースの海戦は奇跡的にギリシア側の快勝になりました。ペルシア王クセルクセースは海戦の結果を見極めると、慌ててギリシア本土を発ち、小アジアに退却しました。海戦の翌日、ギリシア軍はペルシアの軍船を求めて海上を探索しましたが見つけることは出来ませんでした。


その後ギリシア諸都市は勝利を神に感謝しかつ記念するために、鼎を作り、そこにペルシア人を打倒した諸国(=諸都市)の名前を刻んで聖地デルポイアポローン神殿に奉納しましたが、そこにはテーノスの名前も刻まれていたということです。その後のテーノスについてはあまり華々しい話はないので、ここでテーノスの話を終わりにします。読んで下さり、ありがとうございます。

(上:テーノスの現在の町(ティノス))