神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

イアーリュソス(4):トレーポレモス

さてトロイア戦争の時に、イアーリュソスはギリシア側に立って兵を出しました。それを率いるのはヘーラクレースの子といわれるトレーポレモスでした。ただし、これがイアーリュソスだけのことではなくて、リンドス、カメイロスの町からの兵も引き連れての話なのでした。トレーポレモスがイアーリュソスを本拠地にしていたら、この物語をイアーリュソスの話として自信をもってご紹介出来るのですが、彼が上の3つの町のうちどこを本拠地にしていたのか、よく分かりません。それでも、この物語をご紹介しましょう。

 またトレーポレモスはヘーラクレースの子で、性(さが)勇ましく丈高く、
ロドス島より九艘の船を率いて来た、この気象のすぐれたロドス人らは
三つの部族にわかたれて、ロドスの島一帯にならび住まうもの、
リンドスとイアーリュソスと、白亜に富めるカメイロスと(の三邑)に。


ホメーロスイーリアス」第2書 呉茂一訳 より


 さて、どうしてトレーポレモスはロドス島の領主に納まっているのでしょうか? それについてホメーロスは以下のように語ります。

さてトレーポレモスはというと、立派なつくりの館の中で
成人すると、たちまち父方の 伯父を殺してしまった、
もう年寄りかけたリキュムニオスとて 軍神アレースが伴侶(とも)なる者、
そこで直ぐ、船をいくつも造らせてから、者どもをあまた呼び寄せ、
祖国(くに)を逃れて海上に船出をしたのも、勇士ヘーラクレースの
他の息子ら、また孫たちが 仇を討とうと押しかけたため。


ホメーロスイーリアス」第2書 呉茂一訳 より

トレーポレモスはもともとはペロポネーソス半島のアルゴスに住んでいました。ある時、細かい事情は分からないのですが伯父(と上記の引用にはありますが、どうも祖父の弟らしい)のリキュムニオスを殺してしまったのでした。そのため、他のヘーラクレースの息子たちが復讐のためにトレーポレモスを襲うことになり、それから逃れるためにトレーポレモスは船で逃げたのでした。逃げたのはトレーポレモス一人ではなく妻と、郎党をつれての大移動でした。

ところで彼は所々を流浪し さまざまな苦労を重ねつ、ロドスに来てから、
人々と、部族にしたがい、三部に分れて住まい付き、またゼウスの
いつくしみにも預っていたが、神々や人間どもを見そなわしたもう
神、クロノスの御子は また莫大な富を 彼らに注ぎ与えた。


ホメーロスイーリアス」第2書 呉茂一訳 より

そしてあちこちを転々とした後にロドス島について、3つの町に分かれて住んだということです。上の引用を読むと、それまでロドスにはイアーリュソス、リンドス、カメイロスの町はなくて、彼らがそれらの町を建設したかのように読めます。そうすると太陽神ヘーリオスの孫たちがこれらの町々を作ったという伝承とどのように整合を取ったらよいのでしょうか? 要するにロドス島の3市の創建の伝承にはヘーリアダイによるものとトレーポレモスによるものの2種類の伝承がある、ということのようです。


さてトロイア戦争にこの3つの町から兵を率いたトレーポレモスですが、戦場でリュキア軍の大将サルペードーンと一騎打ちをすることになります。トレーポレモスはヘーラクレースの子であり、ヘーラクレースの父親は大神ゼウスですから、トレーポレモスはゼウスの孫です。一方、リュキアのサルペードーンはゼウスの息子でした。リュキア軍はトロイア側に援軍として参加していたのでした。

その間にきびしい運命(さだめ)は、ヘーラクレースの子で、勇ましく、丈の高い
トレーポレモスを 神にひとしいサルペードーンへ向い立たせた。
さてこの二人がたがいに進み寄り、いよいよ間近となった折しも――
この両人とも、雲を集めるゼウス大神の、息子に片やは孫であったが――


ホメーロスイーリアス」第5書 呉茂一訳 より


こういう対決の時、イーリアスの英雄たちは相手を貶める言葉、威嚇する言葉を言い合います。

まず先にトレーポレモスが、言葉をかけていうようには、
「サルペードーンよ、リュキエー軍の統領という君がまた何用あって、
戦のわざもわきまえぬ身で、此の処に 小さくなってすくんでいるのか。
君を、雲楯(アイギス)をたもつゼウスの息子だ、などいう者はみな嘘つきだな、
何故といって、昔のころにその世の中へ、ゼウスの子として
生れ出たという英雄たちに、君は及ばぬことが 甚だしい。
(中略)
これでは君がリュキエーからやって来たとていっこうトロイエー方の
防ぎ護りとなれはすまいよ、よしどんなに君が強かろうとて。
却って私の手にかかり、黄泉(よみ)の門をくぐるのが落ちであろうて。」
 それに対(むか)って、リュキエー軍の大将サルペードーンがいうようには、
「トレーポレモスよ、(中略)御身には、この私が受けあっておく、今日この場で私の手により
殺戮と、黒い死のさだめがもたらされよう、また私の槍にかかって
誉れを私にあげさせよう、魂は 駒に名を得た冥王にくれてやろうが。」


ホメーロスイーリアス」第5書 呉茂一訳 より

上の引用で「リュキエー」と言っているのは「リュキア」のことです。

そして二人は互いに相手目がけて槍を放ちます。

 こうサルペードーンが言うと、こなたのトレーポレモスも
とねりこの槍をふり上げた、そして同時に、二人の手から
長い手槍が奔り飛んだ、サルペードーンは、対手の頸の真中へと
打ち当てたので、その痛々しい穂先が ずっぷりつきとおった、
して、敵のまなこをすっかりと 暗黒の夜が蔽ってしまった。
トレーポレポスの方はというと、(対手(あいて)の)左の腿太(ももた)へ長い手槍を
うち当てたれば、はやりにはやるその穂先は、骨をかすめて
衝き入ったが、父なる神が まだまだと、禍いを防いでやられた。


ホメーロスイーリアス」第5書 呉茂一訳 より

つまり、トレーポレモスはサルペードーンに討たれたのでした。サルペードーン自身も重傷を負いましたが・・・。

イアーリュソス(3):ヘーリアダイ

今回も主要な情報源は、高津春繁著「ギリシアローマ神話辞典」です。


さて、テルキーネスたちには妹がいて、名をヘーリアーといいます。この名前、太陽(=ヘーリオス)の女性形です。そう考えると日本のアマテラスみたいな神格なのでしょうか・・・。ただ残念なことにヘーリアーについてはほとんど話が伝わっていません。ヘーリアーは海の神ポセイドーンとの間に子を儲けました。娘が1人と息子が6人です。テルキーネスたちが半人半魚だったことや、ヘーリアーがポセイドーンと結婚したことからヘーリアーも海に親しい姿をしていたのかもしれません。生れた娘はロドスといい、この娘の名にちなんでこの島はロドスと名付けられました。


いやいやそうではなくて、ポセイドーンと(ポセイドーンの正妃)アンピトリテーの娘ロデーにちなんでロドスと名付けられた、という人々もいます。このあたりははっきりしません。


このロドス、またはロデーが太陽神ヘーリオスと結婚してロドス島で生まれた子供たちを総称してヘーリアダイと言います。

(太陽神ヘーリオス


ヘーリアダイは7人の息子たちでした。彼らは太陽神の息子たちということで、優れた天文の知識を持っていました。なかでも長男のテナゲースは一番優れた知識を持っていました。それを4人の弟たちがねたんでテナゲースを殺してしまいます。そして彼らはロドス島から逃亡しました。弟のなかで殺人に加わらなかったのは2人で、オキモスとケルカポスといいます。兄のオキモスがロドス島の王となりました。のちにケルカポスはオキモスも娘キューディッペーと結婚し、オキモスからロドス島の王位を引き継ぎました。ケルカポスとキューディッペーの間には、イアーリュソス、リンドス、カメイロスの3人の息子が生れました。この3人はそれぞれ町を建設して、その町に自分の名を付けました。ということでイアーリュソスの町は、ケルカポスの子であり、太陽神ヘーリオスの孫であるイアーリュソスによって作られたことになります。


英語版Wikipediaの「イアーリュソス」の項を見ると、よく理解出来ない部分(アカイアの砦 the fort Achaeaに関する記述)があるのですが全体としては、ヘーリアダイは最初からイアーリュソスに住んでいたという説もあった、というふうに理解出来る記述がありました。この場合ですと、町は先にあって、あとで名前をケルカポスの息子イアーリュソスにちなんでイアーリュソスに変更した、ということになるようです。


また、英語版Wikipediaの「イアーリュソス(神話)」の項を見ると、イアーリュソスはケルカポスの息子ではなく、ダナオスという男のであると書かれていました。そうなるとイアーリュソスの性別まではっきりしなくなって困ってしまいます。ともかく、いろいろな伝説が存在するのだ、と私は理解することにしました。ダナオスについては、エジプトからペーロポネソス半島のアルゴスに向う途中でロドス島に上陸した、という伝説もあります。私はこの伝説も気になっています。もしこれが、エジプトからロドス島への文化的な影響を表しているとしたら、ロドス島の主神が太陽神であることの理由もエジプト宗教の影響と推定出来るからです。古代エジプトでは太陽神の崇拝が盛んだったからです。

イアーリュソス(2):テルキーネス

まずはイアリューソスに限定せずロドス島全体に関係する神話からご紹介します。神話の世界でロドス島に最初に登場するのはテルキーネスという種族です。この種族は人間ではありません。その姿は半人半魚とも半人半蛇とも言われています。彼らはとても古い種族で、優れた鍛冶屋であり、クロノスの鎌を作ったのは彼らだと伝えられています。

(テルキーネスの画像が見つからなかったのでトリトーンの画像で代わりにしました。ヘーラクレースとトリトーンの戦いの絵です。)


クロノスというのは神々の王ゼウスの父親で、ゼウスが天下を取る前は神々の王でした。古代ギリシアの神話では神々の王権伝授は平穏には進まず、最初の王ウーラノス(=天)が息子のクロノスに敗れ、次に王となったクロノスは息子のゼウスに敗れて、地中奥深くの世界タルタロスに閉じ込められているというふうになっています。それは心理学でいうエンディプス・コンプレックスそのもののような神話になっています。そしてクロノスがウーラノスから支配権を奪ったやり方というのが、ウーラノスの生殖器を鎌で切って、海に捨てた、というもので、この父子の抜き差しならぬ対立の話には辟易してしまいます。このクロノスの鎌を作ったのがテルキーネスたちということなので、彼らはゼウスが生れるより前から存在していたことになります。


また、テルキーネスたちは海を支配するポセイドーンがまだ幼児だったころ、その母親のレアーから命ぜられて、カペイラという海に住む女神と一緒にポセイドーンを養育したといいます。そこからもテルキーネスたちの古さが分かります。つまりはゼウスによる神界の秩序が確立される以前の世界の種族なのです。ポセイドーンの持ち物である三叉の鉾を作ったのもテルキーネスたちでした。神々の像を始めて作ったのも彼らでした。彼らはクレータ島からキュプロス島を経てロドス島にやってきたといいます。ロドス島は彼らにちなんでテルキーニスとも呼ばれました。やがて彼らは、(旧約聖書のノアの洪水の話に似た)デウカリオーンの洪水として知られる洪水がロドス島を襲うことを予見し、ロドス島を捨ててさまざまな地方に逃げていったのでした。(以上、高津春繁著「ギリシアローマ神話辞典」から情報を得ました。)

(三叉の鉾を持つポセイドーン)


幼いポセイドーンを養育したり、ポセイドーンに三叉の鉾を作ってやったりしたことから、私はテルキーネスがギリシア神話の中で肯定的な評価を得ているのかと思ったのですが、実際にはそうではなく彼らは災いをもたらす者と考えられていたそうです。そしてアポローンが矢で射て殺したとも、ゼウスが雷霆で撃って殺したとも伝えられています。おそらくゼウスの支配権が確立してからは、彼らに居場所がなかったのでしょう。古代のギリシア人はテルキーネスに善悪両方の存在を見ていたようです。


英語版のWikipediaのロドス島の項には、BC 16世紀頃ロドス島にはミノア人がやってきており、それはギリシア神話のテルキーネスを思わせる、と書いてありましたが、これは面白い見方だと思います。ギリシア人が到来する以前のミノア文明の人々の記憶が、このテルキーネスに反映されているのかもしれません。特に、洪水を恐れてロドス島から四散したという話は、BC 17世紀に起きたというテーラ島の大噴火とその後の津波の記憶なのかもしれないと想像します。

イアーリュソス(1):はじめに


ロドス島はエーゲ海の東側の南に浮ぶ島です。面積でいうと日本の沖縄本島に近い大きさですが、沖縄本島よりずんぐりとした形です。古代ここにはイアーリュソス、カメイロス、リンドスの3つの都市がありました。どれもドーリス系の都市です。

これら3つの都市についてはすでにホメーロスも「イーリアス」で歌っています。

 またトレーポレモスはヘーラクレースの子で、性(さが)勇ましく丈高く、
ロドス島より九艘の船を率いて来た、この気象のすぐれたロドス人らは
三つの部族にわかたれて、ロドスの島一帯にならび住まうもの、
リンドスとイアーリュソスと、白亜に富めるカメイロスと(の三邑)に。


ホメーロスイーリアス」第2書 呉茂一訳 より

今回は、その中でイアーリュソスを取り上げます。


さっそくですみませんが、この都市の名前について、細かい言い訳を書かせて下さい。私はこの都市の名前をイアーリュソスと書くのがよいのかイアリューソスと書くのがよいのか、判断がつきませんでした。呉茂一氏は上の引用にあるように「イアーリュソス」としていますが、高津春繁氏の「ギリシアローマ神話辞典」では「イアリューソス」となっています。また、久保正彰氏訳のトゥーキュディデース「戦史」では「イエーリュソス」で、河野与一氏訳の「プルターク英雄伝(二)テミストクレース」では「イアリューソス」となっています。それで判断がつかなったのです。私は、根拠は特にないのですがイアーリュソスで統一することにします。

古代のイアーリュソスの遺跡は、小高い山の上にありました。その山から海岸側の平地には現代のイアリュソスの町が広がっています。神話の世界ではこの町の創建者は町と同じ名前のイアーリュソスという人物で、太陽神ヘーリオスの孫にあたり、兄弟にはリンドス、カメイロスがいて、それぞれリンドス市、カメイロス市の創建者となったということです。太陽神ヘーリオス古代ギリシアではあまり人気のない神なのですが、例外的にロドス島では主神として崇められていました。イアーリュソスのあるロドス島は太陽神ヘーリオスの島だったのでした。そしてイアーリュソスは一説によるとヘーリオスの子供たちが最初に住んでいた場所だということです。

イアーリュソス:目次

1:はじめに

ロドス島はエーゲ海の東側の南に浮ぶ島です。面積でいうと日本の沖縄本島に近い大きさですが、沖縄本島よりずんぐりとした形です。古代ここにはイアーリュソス、カメイロス、リンドスの3つの都市がありました。どれもドーリス系の都市です。これら3つの都市についてはすでにホメーロスも「イーリアス」で歌っています。またトレーポレモスはヘーラクレースの子で、性(さが)勇ましく丈高く、ロドス島より九艘の船を率いて来た、この気象のすぐれたロドス人らは三つの部族にわかたれて、ロドスの島一帯にならび住まうもの・・・・


2:テルキーネス

まずはイアリューソスに限定せずロドス島全体に関係する神話からご紹介します。神話の世界でロドス島に最初に登場するのはテルキーネスという種族です。この種族は人間ではありません。その姿は半人半魚とも半人半蛇とも言われています。彼らはとても古い種族で、優れた鍛冶屋であり、クロノスの鎌を作ったのは彼らだと伝えられています。クロノスというのは神々の王ゼウスの父親で、ゼウスが天下を取る前は神々の王でした。古代ギリシアの神話では神々の王権伝授は平穏には進まず、最初の王ウーラノス(=天)が息子のクロノスに敗れ、次に王となったクロノスは・・・・


3:ヘーリアダイ

今回も主要な情報源は、高津春繁著「ギリシアローマ神話辞典」です。さて、テルキーネスたちには妹がいて、名をヘーリアーといいます。この名前、太陽(=ヘーリオス)の女性形です。そう考えると日本のアマテラスみたいな神格なのでしょうか・・・。ただ残念なことにヘーリアーについてはほとんど話が伝わっていません。ヘーリアーは海の神ポセイドーンとの間に子を儲けました。娘が1人と息子が6人です。テルキーネスたちが半人半魚だったことや、ヘーリアーがポセイドーンと結婚したことからヘーリアーも海に親しい姿をしていたのかもしれません。生れた娘はロドスといい・・・


4:トレーポレモス

さてトロイア戦争の時に、イアリューソスはギリシア側に立って兵を出しました。それを率いるのはヘーラクレースの子といわれるトレーポレモスでした。ただし、これがイアーリュソスだけのことではなくて、リンドス、カメイロスの町からの兵も引き連れての話なのでした。トレーポレモスがイアーリュソスを本拠地にしていたら、この物語をイアーリュソスの話として自信をもってご紹介出来るのですが、彼が上の3つの町のうちどこを本拠地にしていたのか、よく分かりません。それでも、この物語をご紹介しましょう。またトレーポレモスはヘーラクレースの子で、性(さが)勇ましく丈高く・・・・


5:ドーリス人の到来

古典時代、イアーリュソスはドーリス系の町でした。ドーリス人というのは英雄ヘーラクレースの子孫と称する人々に率いられた集団です。トロイア戦争のところで登場するトレーポレモスはヘーラクレースの息子なので、トレーポレモスのロドス島への移住は、ドーリス人のロドス島への到来の記憶が反映されているのかもしれないと、当初私は思いました。しかし、伝説によればヘーラクレースの子孫がドーリス人を率いてペロポネーソス半島を征服したのは、トロイア戦争のあとであり、ロドス島など海を越えた移住はさらにその後である、とされています。ですので・・・・


6:ドーリス6都市同盟

それではイアーリュソスに住みついたドーリス人はどこから来たのでしょうか? アメリカのWikipediaの「ロドス島」の項を見ても、それについての情報はありませんでした。私は、ペロポネーソス半島のアルゴスが、ロドス島のドーリス人の故郷ではないかと推定します。その根拠の一つは、伝説上でロドス島を支配していたというトレーポレモスの故郷がアルゴスである、ということです。もう一つは、ダナオスとその娘たちがエジプトから遁れて来てロドス島に立ち寄った、という伝説がありますが、その伝説によればこのダナオスはその後アルゴスの王になる、ということです。・・・・


7:ティーモクレオーン

BC 480年の「サラミースの海戦」まで時代を下ります。ペルシア王クセルクセースは陸海の大軍を率いてギリシア本土に攻め込み、アテーナイを占領し火を放って町を破壊しました。一方、ギリシア連合海軍はアテーナイ沖のサラミース島に集結し、その後両者が対戦しました。その結果、アテーナイの知将テミストクレースの貢献もあってギリシア軍はペルシア海軍を打ち負かしたのでした。このサラミースの海戦の後に、イアーリュソス出身の人物が歴史に、というか歴史の隅っこに登場します。それはティークレオーンという詩人で、宴会で歌う歌を作っていました。・・・・


8:ディアゴラス

ディアゴラスはイアーリュソス出身のボクサーで、前回登場したティークレオーンの同時代人でした。彼はオリュンピア競技(いわゆる古代オリンピック)でボクシングで2回優勝しました。そのほかに古代ギリシアの有名な競技会でも何回も優勝しています。具体的にはコリントスのイストミア大祭の競技会で4回、ネメア大祭で2回、デルポイのピューティア大祭での優勝回数は不明ですが少なくとも1回優勝しました。これらの競技会は古代ギリシア四大競技会と呼ばれています。イストミアとネメアの大祭は2年に1回、オリュンピア、ピューティアの大祭は4年に1回挙行されていました。・・・・


9:ロドス市の建設

BC 431年、ギリシア世界はアテーナイ側とスパルタ側に分かれ、ペロポネーソス戦争が始まります。イアーリュソスを含むロドスの町々はドーリス系でしたがもともとデーロス同盟に参加していることからアテーナイ側に付きました。BC 415年にアテーナイはシケリア(シシリー島)遠征を行ないますが、その際にロドスの軍勢が参加しています。とはいえ、ここまではロドス島は戦場からは遠く離れていたために、戦争の被害はあまりありませんでした。しかしBC 413年にアテーナイとその同盟国のシケリア遠征軍が壊滅すると事情が変りました。今度は小アジアエーゲ海側に戦場が移り・・・・


10:絵画イアーリュソス

ロドス市が建設されてから100年ほど経ったBC 305年、ロドス市はマケドニア王デーメートリオス1世の軍隊によって包囲攻撃を受けていました。デーメートリオスはロドス市に対して、エジプト王プトレマイオス1世との同盟を破棄するように要求し、ロドス市がその要求を拒絶したためにこの攻撃を受けることになりました。(コインに描かれたデーメートリオス) これは、有名なアレクサンドロス大王が広大な領域を征服したのち32歳の若さで急逝したために起きた混乱の1つでした。アレクサンドロスは死期の床で自分の後継者について「王たるにふさわしい者に・・・」とのみ遺言して・・・・


11:ロドス島の巨像

さて、デーメートリオスは軍をロドス島から撤退させましたが、それはエジプト王プトレマイオスの軍隊がロドス島に到着したからでした。デーメートリオスの軍勢の撤退が非常に慌ただしいものだったために、攻城櫓を始めいろいろな戦争機械がロドス市周辺に置き去りにされました。これらの戦争機械の巨大でメカニックな様子は、包囲されていたロドス市民らですら、思わず見とれてしまうものだったそうで、デーメートリオスはこういう機械を発案することに特異な才能を持っていたのでした。デーメートリオスの撤退後、ロドス市民はその勝利を祝い、これらの戦争機械を売り払いました。そして・・・・

ナクソス(13):イオーニア人(2)

しかしヘーロドトスの記事を考慮すると、前回の最後に述べたようなすっきりした推測になりません。まずヘーロドトスはイオーニア人は混成種族だと主張します。

彼ら(=イオーニア人)の重要な構成要素を成しているエウボイアのアバンテス人は、名前からいってもイオニアとは何の関係もない種族であるし、またオルコメノスのミニュアイ人も彼らに混入しており、さらにカドメイオイ人、ドリュオペス人、ポキス人の一分派、モロッシア人、アルカディアのペラスゴイ人、エピダウロスのドーリス人、その他さらに多くの、種族が混り合っているのである。


ヘロドトス著 歴史 巻1、148 から


また、イオーニア人の多くはイオーニア人と呼ばれることを好まないとも言っています。

アテナイをはじめ他のイオニア人も、イオニア人と呼ばれることを好まず、その名称を避けたのであったが、今日でもなお、多くのイオニア人はこの名称を恥じているように私には思われる。


ヘロドトス著 歴史 巻1、143 から


しかし、例外的にイオーニア人であることを積極的に主張する町々もあって、それが地方としてのイオーニアにある12の町々であるといいます。つまり、下の図で赤線で囲った地方の町々です。

ところが前に挙げた十二の町だけは、この名称に誇りをもち、自分たちだけで聖地を定め、これをパンイオニオンと名付けたが、他のイオニア人には一切この聖地にあずからせないことを議決した。


ヘロドトス著 歴史 巻1、143 から


ヘーロドトスは、これらの町の人々はかつては、ペロポネーソス半島の北側、古典時代はアカイアと呼ばれる地方に住んでいたと言います。そしてその頃も12の町に住んでいたので、イオーニアに移住しても12の町を作ったのだと言います。

さて、イオニア人は十二市の同盟を作って、それ以上の町の参加を受け入れようとしなかったのは、彼らがペロポネソスに住んでいた時にも、彼らをペロポネソスから追い出したアカイア人が現在そうであるように、十二の地区に分かれていたからであると私は思う。すなわちシキュオンの町に最も近くペレネが先ずあり、つづいてアイゲイラとアイガイ(中略)、ブラ、イオニア人アカイア人との戦いに敗れ逃げ込んだ町ヘリケ、さらにアイギオン、リュペス、パトレエス(パトライ)、ペレエス、大河ペイロスを擁するオレノス、デュメ、および唯一の内陸の町トリタイエエス(トリタイア)がそれである。
 これら十二の地区は、現在ではアカイアであるが、当時はイオニア人の土地であったのである。


ヘロドトス著 歴史 巻1、145~146 から

イオーニア人の故地を下の図で赤線で囲んで示します。左側の囲みの中がイオーニア人の故地であり、そこから右側のイオーニア地方に移住した、ということです。


以上の話は、いわゆるイオーニア地方に住むイオーニア人の起源の話でした。ナクソスパロスデーロスなどのエーゲ海の中ほどの島々に住むイオーニア人については述べられていません。それで、私の今の理解としては、これらエーゲ海の中ほどに住むイオーニア人については、イオーニアに移住したイオーニア人の移住よりもっと前に、前回述べたように、クレータ島からエーゲ海の支配権を奪ったアテーナイを中心とする勢力に起源を持つと考えています。


ただ、どちらのイオーニア人も、他のいろいろな種族を受け入れてきていたのでしょう。そのためにひとつに絞れるような起源はなかったとも言えるのだと思います。

ナクソス(12):イオーニア人(1)

アルカイック期、古典期のエーゲ海の話を書いていくと、どうしてもイオーニア人が主体になります。それで、イオーニア人の来歴を一度、ゆっくり調べてみたいとずっと考えていました。もやもやと考えているだけでは先に進まないので、一度、今の自分が知っていることを書いてみて、頭の中を整理しようと思いました。別にナクソスだけがイオーニア人の都市なのではないのですが、このナクソスの回にイオーニア人について書くことにしました。


イオーニア人というのは、古代のギリシア人の中でイオーニア方言を話す人々を指します。古代の伝統では、アテーナイを中心とするアッティカ方言を話す人々もイオーニア人に含めています。よく分からないのですが、アッティカ方言とイオーニア方言はきっと近いのでしょう。古典期のイオーニア方言の分布は下の地図での青紫色の部分になります。アッティカ方言はピンク色の部分になります。


ややこしいのですが、当時の地名としてのイオーニアは、このイオーニア方言の分布地域の一部でしかありません。イオーニア地方というのは下の図の赤線で囲った地域になります。

ここにはイオーニア12都市同盟に属する12の都市がありました。それらは、キオスエリュトライポーカイアクラゾメナイテオース、レベドス、コロポーンエペソス、-サモス、プリエーネー、ミュウス、ミーレートスです。イオーニア地方でないところにもイオーニア人はいました。アテーナイがそうですし、このナクソスもそうです。


私がずっと疑問に思っているのはイオーニア人はギリシア神話にほとんど登場しないということです。現存するギリシア最古の文学であるホメーロスの「イーリアス」と「オデュッセイアー」を見てみると、イオーニア人という言葉が登場するのは1回だけで、それは「イーリアス」に登場します。

その処は、アイアースの船勢と、またプローテシラーオスの船勢とが、
灰色の海の浜辺に 引き上げられて置かれた場所で、この上あたりが
囲い壁のこしらえ方の一番低いところである。そこで取りわけ
(トロイエー方は)勢い烈しく、自分らも馬車も 戦闘に加わっていた。
 この所で、ボイオーティア勢、また衣を引き摺るイオーニア勢など
またロクリス勢やプティーエーの勢や、誉れも高いエペイオイらが、
船をめがけて進み寄る(ヘクトールを)やっとのことで支えていたが、到底
火焔のように勇しいヘクトールをば、味方の陣から追い払いはできなかった。
こちらの方にはアテーナイ勢から、撰りすぐった者、その部隊には
大将としてペテオースの息子、メネステウスが加わり、つづいて
ペイダースやスティキオネスや、雄々しいビアースが附き従う、こなた
エペイオイ軍には、ピューレウスの子メゲースや、アンピーオーンやドラキオスが、
ティーエー軍には戦(いく)さに手剛いメドーンやポダルケースが先頭に立つ。


イーリアス 第13書 685行あたり


これだけでははっきりしませんが、「イオーニア勢」という言葉のあとに「アテーナイ勢」という言葉があり、ひょっとすると「イオーニア勢」というのは「アテーナイ勢」を言い換えたのかもしれません。しかし、そうと断言するには記述があいまいです。ところで、イオーニア地方の住民は「イーリアス」の世界ではトロイア側になっていて、ギリシア人が住んでいなかったように描かれています。


このように古い神話にはほとんど登場しないイオーニア人が、神話の世界とどのようにつながっているのかが、私の関心事です。それはイオーニア人の起源にも関係してきます。


ところでギリシアの先史時代の文字である線文字Bで書かれた、クレータ島のクノーソス出土の粘土板には、「イオーニア人」という言葉があるそうです(英語版Wikipediaの「イオーニア人」の項)。ただ、線文字Bというのは当時、物品の管理にのみ使われていたような文字なので、ここから詳しい情報を得るのは難しいです。英語版Wikipediaの「イオーニア人」の項では、「このクノーソスの粘土板はBC 1400年か1200年のものと推定され、よってもしその名前がクレータ人のことを指しているならば、それはクレータでのドーリス人の支配より以前である。」と書いていて、理由はよく分かりませんがこの「イオーニア人」をクレータの住民ではないか、と推測しているようです。もし、この頃イオーニア人がクレータに住んでいたとしたら、それはテーセウスのミノタウロス退治の伝説が暗示するように、この頃アテーナイの勢力がクレータ島に侵攻して住みついたのではないでしょうか? もしそうだとしたら、ナクソス島へのイオーニア人の到来もその頃のことなのかもしれません。


ただ、古典期のギリシアにおいてクレータ島の住民はイオーニア人ではなく、ドーリス人でした。ですので上記の説明は、こう言わなければなりません。以前クレータがエーゲ海全体を支配していたが、ある時アテーナイを中心とするイオーニア人がクレータの勢力に勝って、エーゲ海の支配権を奪ったばかりか、その一部はクレータ島に移り住んだ。しかし、その後ドーリス人がやってきてクレータ島の支配権をイオーニア人から奪った、と。