神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

イアーリュソス:目次

1:はじめに

ロドス島はエーゲ海の東側の南に浮ぶ島です。面積でいうと日本の沖縄本島に近い大きさですが、沖縄本島よりずんぐりとした形です。古代ここにはイアーリュソス、カメイロス、リンドスの3つの都市がありました。どれもドーリス系の都市です。これら3つの都市についてはすでにホメーロスも「イーリアス」で歌っています。またトレーポレモスはヘーラクレースの子で、性(さが)勇ましく丈高く、ロドス島より九艘の船を率いて来た、この気象のすぐれたロドス人らは三つの部族にわかたれて、ロドスの島一帯にならび住まうもの・・・・


2:テルキーネス

まずはイアリューソスに限定せずロドス島全体に関係する神話からご紹介します。神話の世界でロドス島に最初に登場するのはテルキーネスという種族です。この種族は人間ではありません。その姿は半人半魚とも半人半蛇とも言われています。彼らはとても古い種族で、優れた鍛冶屋であり、クロノスの鎌を作ったのは彼らだと伝えられています。クロノスというのは神々の王ゼウスの父親で、ゼウスが天下を取る前は神々の王でした。古代ギリシアの神話では神々の王権伝授は平穏には進まず、最初の王ウーラノス(=天)が息子のクロノスに敗れ、次に王となったクロノスは・・・・


3:ヘーリアダイ

今回も主要な情報源は、高津春繁著「ギリシアローマ神話辞典」です。さて、テルキーネスたちには妹がいて、名をヘーリアーといいます。この名前、太陽(=ヘーリオス)の女性形です。そう考えると日本のアマテラスみたいな神格なのでしょうか・・・。ただ残念なことにヘーリアーについてはほとんど話が伝わっていません。ヘーリアーは海の神ポセイドーンとの間に子を儲けました。娘が1人と息子が6人です。テルキーネスたちが半人半魚だったことや、ヘーリアーがポセイドーンと結婚したことからヘーリアーも海に親しい姿をしていたのかもしれません。生れた娘はロドスといい・・・


4:トレーポレモス

さてトロイア戦争の時に、イアリューソスはギリシア側に立って兵を出しました。それを率いるのはヘーラクレースの子といわれるトレーポレモスでした。ただし、これがイアーリュソスだけのことではなくて、リンドス、カメイロスの町からの兵も引き連れての話なのでした。トレーポレモスがイアーリュソスを本拠地にしていたら、この物語をイアーリュソスの話として自信をもってご紹介出来るのですが、彼が上の3つの町のうちどこを本拠地にしていたのか、よく分かりません。それでも、この物語をご紹介しましょう。またトレーポレモスはヘーラクレースの子で、性(さが)勇ましく丈高く・・・・


5:ドーリス人の到来

古典時代、イアーリュソスはドーリス系の町でした。ドーリス人というのは英雄ヘーラクレースの子孫と称する人々に率いられた集団です。トロイア戦争のところで登場するトレーポレモスはヘーラクレースの息子なので、トレーポレモスのロドス島への移住は、ドーリス人のロドス島への到来の記憶が反映されているのかもしれないと、当初私は思いました。しかし、伝説によればヘーラクレースの子孫がドーリス人を率いてペロポネーソス半島を征服したのは、トロイア戦争のあとであり、ロドス島など海を越えた移住はさらにその後である、とされています。ですので・・・・


6:ドーリス6都市同盟

それではイアーリュソスに住みついたドーリス人はどこから来たのでしょうか? アメリカのWikipediaの「ロドス島」の項を見ても、それについての情報はありませんでした。私は、ペロポネーソス半島のアルゴスが、ロドス島のドーリス人の故郷ではないかと推定します。その根拠の一つは、伝説上でロドス島を支配していたというトレーポレモスの故郷がアルゴスである、ということです。もう一つは、ダナオスとその娘たちがエジプトから遁れて来てロドス島に立ち寄った、という伝説がありますが、その伝説によればこのダナオスはその後アルゴスの王になる、ということです。・・・・


7:ティーモクレオーン

BC 480年の「サラミースの海戦」まで時代を下ります。ペルシア王クセルクセースは陸海の大軍を率いてギリシア本土に攻め込み、アテーナイを占領し火を放って町を破壊しました。一方、ギリシア連合海軍はアテーナイ沖のサラミース島に集結し、その後両者が対戦しました。その結果、アテーナイの知将テミストクレースの貢献もあってギリシア軍はペルシア海軍を打ち負かしたのでした。このサラミースの海戦の後に、イアーリュソス出身の人物が歴史に、というか歴史の隅っこに登場します。それはティークレオーンという詩人で、宴会で歌う歌を作っていました。・・・・


8:ディアゴラス

ディアゴラスはイアーリュソス出身のボクサーで、前回登場したティークレオーンの同時代人でした。彼はオリュンピア競技(いわゆる古代オリンピック)でボクシングで2回優勝しました。そのほかに古代ギリシアの有名な競技会でも何回も優勝しています。具体的にはコリントスのイストミア大祭の競技会で4回、ネメア大祭で2回、デルポイのピューティア大祭での優勝回数は不明ですが少なくとも1回優勝しました。これらの競技会は古代ギリシア四大競技会と呼ばれています。イストミアとネメアの大祭は2年に1回、オリュンピア、ピューティアの大祭は4年に1回挙行されていました。・・・・


9:ロドス市の建設

BC 431年、ギリシア世界はアテーナイ側とスパルタ側に分かれ、ペロポネーソス戦争が始まります。イアーリュソスを含むロドスの町々はドーリス系でしたがもともとデーロス同盟に参加していることからアテーナイ側に付きました。BC 415年にアテーナイはシケリア(シシリー島)遠征を行ないますが、その際にロドスの軍勢が参加しています。とはいえ、ここまではロドス島は戦場からは遠く離れていたために、戦争の被害はあまりありませんでした。しかしBC 413年にアテーナイとその同盟国のシケリア遠征軍が壊滅すると事情が変りました。今度は小アジアエーゲ海側に戦場が移り・・・・


10:絵画イアーリュソス

ロドス市が建設されてから100年ほど経ったBC 305年、ロドス市はマケドニア王デーメートリオス1世の軍隊によって包囲攻撃を受けていました。デーメートリオスはロドス市に対して、エジプト王プトレマイオス1世との同盟を破棄するように要求し、ロドス市がその要求を拒絶したためにこの攻撃を受けることになりました。(コインに描かれたデーメートリオス) これは、有名なアレクサンドロス大王が広大な領域を征服したのち32歳の若さで急逝したために起きた混乱の1つでした。アレクサンドロスは死期の床で自分の後継者について「王たるにふさわしい者に・・・」とのみ遺言して・・・・


11:ロドス島の巨像

さて、デーメートリオスは軍をロドス島から撤退させましたが、それはエジプト王プトレマイオスの軍隊がロドス島に到着したからでした。デーメートリオスの軍勢の撤退が非常に慌ただしいものだったために、攻城櫓を始めいろいろな戦争機械がロドス市周辺に置き去りにされました。これらの戦争機械の巨大でメカニックな様子は、包囲されていたロドス市民らですら、思わず見とれてしまうものだったそうで、デーメートリオスはこういう機械を発案することに特異な才能を持っていたのでした。デーメートリオスの撤退後、ロドス市民はその勝利を祝い、これらの戦争機械を売り払いました。そして・・・・