神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ナクソス(11):ペルシアからの離脱

ペルシア軍はナクソスを破壊したあと、エウボイア島のエレトリアを攻略し、次にアテーナイに向いました。アテーナイ軍はアテーナイ近郊のマラトーンでの戦いでペルシア軍を破ります。ペルシア軍はそのまま撤退しました(第一次ペルシア戦争)。しかし、アテーナイが勝ったからといってナクソスが独立を取り戻したわけではありません。ナクソスはまだペルシアの支配下のままでした。こうして10年が経ちます。


BC 480年、新たにペルシアの王位に就いたクセルクセース(ダーレイオスの息子)は、さらに大規模な海陸両軍を自ら率いてギリシア全土を制圧しようとします(第二次ペルシア戦争)。彼らはトラーキア(現在のブルガリア方面)を経由して北から南下してきました。ギリシア側は途中のテルモピュライでペルシア軍を食い止めることが出来ず、アテーナイ沖のサラミース島付近の海域に軍船を集結し、決戦を挑みました。この時、ナクソスはペルシア側で戦うために艦船の派遣をペルシアから命ぜられていました。しかし、ナクソスの艦船はその命令を無視してギリシア側に付いたのでした。

ナクソス人は船四隻を出した。彼らは本来他の島の住民と同様に、ペルシア軍に加わるべく国許から派遣されたものであったが、デモクリトスの熱心な勧めに従い、受けた指令を無視してギリシア陣営に走ったのである。このデモクリトスは町の名士で当時三段橈船の指揮官であった。


ヘロドトス著「歴史」巻8、46 から


このサラミースの海戦でギリシア側が勝利を収めました。上のナクソスの4隻がサラミースの海戦でどのように戦ったのかについてヘーロドトスは残念ながら伝えていません。きっと奮戦したことでしょう。ペルシア海軍はこの敗戦ののち、エーゲ海の東側のサモスまで撤退します。こうしてナクソスは独立を取り戻しました。BC 477年にアテーナイの主導で対ペルシア軍事同盟であるデーロス同盟が結成されるとナクソスはそれに参加しました。

(デーロス島の風景)


ここで話を終えれば、ナクソスの物語はハッピーエンドになるのですが・・・・歴史は続きます。


実はこのあと、ナクソスはデーロス同盟を離脱する最初の国になるのでした。BC 468年頃のことです。ナクソスがアテーナイから離反したのは、アテーナイが同盟内で段々強権的になっていったためです。離反したナクソスはアテーナイに攻められて攻城戦ののち降伏し、アテーナイの支配下に置かれました。そしてBC 447年にはアテーナイ人植民者を受け入れざるを得なくなり、従来のナクソス市民は新来のアテーナイ人に地代を払わなければならなくなったのでした。

同盟から離脱したナクソス人に対してアテーナイは兵を進め遂に城攻めにして降伏させた。これはかつて同盟国であったものがその権限を奪われてアテーナイの隷属国となった最初の例であるが、これと同じ運命は残余の同盟諸国をも次々に襲うこととなった。


トゥーキュディデース「戦史」 巻1・98より


トゥーキュディデースは、アテーナイに屈服した同盟諸国一般について以下のように述べていますが、これはナクソスにおいても同様だったのでしょう。

故国から離れることを嫌った多くの同盟諸国の市民らは、遠征軍に参加するのを躊躇し、賦課された軍船を供給する代りにこれに見合う年賦金の査定をうけて計上された費用を分担した。そのために、かれらが供給する資金を元にアテーナイ人はますます海軍を増強したが、同盟諸国側は、いざアテーナイから離叛しようとしても準備は不足し、戦闘訓練もおこなわれたことのない状態に陥っていた・・・


トゥーキュディデース「戦史」 巻1・99より

さて、その後ずっとナクソスがアテーナイの支配下にあったかといえばそうではなく、ペロポネーソス戦争末期(BC 404年)にはスパルタの将軍リューサンドーロスによってアテーナイ人入植者はアテーナイに追放されます。その後についてはあまりよく分かりませんので、ここで私のナクソスについてのお話は終わりにします。

ナクソス(10):ペルシアの侵攻(2)

BC 499年、ナクソスはペルシア海軍(その中にはイオーニアのギリシア軍も含まれる)の侵攻を撃退しましたが、この侵攻を主導したミーレートスの僭主アリスタゴラスは自分の責任が問われることが心配になってきました。そして心配のあまりペルシアに対して叛乱を起こすという挙に出てしまいました。これがイオーニアの反乱です。
 このイオーニアの反乱はミーレートスのみならず、全イオーニア、カリア、キュプロス島に拡がり、5年間も続きました。その経過については、以下をご覧ください。

 BC 494年、ミーレートスが陥落することでこの反乱は終息します。その間、ナクソスは反乱に参加せず、中立を保っていました。


当初、イオーニアの反乱には、ペルシア支配下にはなかったアテーナイとエレトリアの2国が参加していました。この2国の軍隊はペルシアに破られて早々に退散してしまったのですが、それでもペルシア王ダーレイオスはこの2国の介入に怒りました。イオーニアの反乱の知らせがダーレイオスに届いた時に、以下のような出来事があったとヘーロドトスは報告しています。

(ペルシアの小アジア支配の根拠地である)サルディスがアテナイイオニアの連合軍によって占領され焼け落ちたこと(中略)などがダレイオス王に報告されたが、伝えられるところによると、王はこの報告を聞いたとき、イオニア人については、やがて彼らが離反の報いをうけることをよく承知していたので、一向意にもとめなかったが、アテナイ人とは何者か、と訊ねたという。その答えをきくと、王は弓をとりよせ、それを手にとると矢を番(つが)え天に向って放った。そして天空を射ながら「ゼウスよ、アテナイ人に報復することを、われに得せしめ給え」といったという。そうしてから今度は、召使の一人に、食事の給仕をするたびに王に向って「殿よ、アテナイ人を忘れ給うな」と三回いえと命じたということである。


ヘロドトス著「歴史」巻5、105 から


イオニアの反乱が終息し、その善後処置も終わった時、ダーレイオスはアテーナイとエレトリアを攻撃する決心をしました。彼は、ダティスという者と自分の従兄弟に当るアルタプレネスの2人を遠征軍の司令官に任命し

この二人に、アテナイエレトリアを隷属せしめ、奴隷とした者たちを自分の面前に曳き立ててくるようにとの命を下し出発せしめたのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、94 から

これはBC 490年のことでした。今回準備された遠征軍の規模は、前回ナクソスを攻撃した時の200隻ではなく、600隻の規模でした。しかもこの艦隊はエレトリアを攻撃する前にナクソスに立ち寄って占領する予定でした。艦隊はエーゲ海を東から西へ、サモス島イカロス島ナクソス島のコースをたどりました。

 彼らがイカロス海からさらに進んでナクソスに接岸したとき――遠征の手始めにまずナクソスを討つのがペルシア軍の企図であった――、ナクソス人は先年の経験を覚えていて山中に逃避し、ペルシア軍を迎え撃とうとはしなかった。そこでペルシア軍は捕えただけのナクソス人を奴隷にし、聖域と市街に火を放って焼き、そうしてから他の島に向った。


ヘロドトス著「歴史」巻6、96 から

ナクソス人たちは、今回の大軍に立ち向かうのは無駄と考えて、山中に避難したのでした。こうしてナクソスの町は破壊され、ペルシアの支配下に入ったのでした。

ナクソス(9):ペルシアの侵攻(1)

BC 500年頃、ナクソスに政変が起り、資産階級の幾人かが、民衆派によって国を追われるという事件がありました、彼らはミーレートスの僭主ヒスティアイオスと面識があったので、ヒスティアイオスを頼ってミーレートスに亡命してきました。

当時、ミーレートスはペルシアの支配下にあり、僭主のヒスティアイオスはペルシア王ダーレイオスの求めによりペルシアの首都スーサに移住していました。そのためナクソスからの亡命者たちはヒスティアイオスにではなく、その代理を務めていたアリスタゴラスという者に面会したのでした。

 ミレトスへ亡命してきたナクソス人たちは、軍隊を貸してもらい、その力で祖国に帰りたいと思うが、なんとかならぬものか、とアリスタゴラスに頼んだ。


ヘロドトス著「歴史」巻5、30 から

この話を聞いてアリスタゴラスは、もし自分の力で彼らを帰国させてやることが出来たならば、ナクソスの支配権を得ることが出来るだろう、と考えました。

アリスタゴラスは、もし自分の尽力でこの者たちを帰国させてやることができれば、ナクソスの支配権を握れるものと思案して、彼らとヒスティアイオスとの旧情を口実にして、次のような提案をした。
「私としては、いまナクソスを牛耳っている一派の意志に反しても、諸君の帰国を強行するに足る強力な軍隊を、諸君に提供すると約束することはできぬ。ナクソスには八千の重装兵と、軍船多数があるときいているからだ。しかし、できる限りのことをして、諸君のために計らってあげよう。
 私の考えている策とはこうじゃ。幸いアルタプレネスと私は懇意な仲である。アルタプレネスというのは、よいかな、ヒュスタスペスの子で、つまりはダレイオスの兄弟に当る。この男はアジアの沿海地方一帯を支配し、大軍隊と艦船多数を掌握している。彼に頼れば、われらの必要とすることをやってくれるに違いない。」
 これをきいたナクソスの亡命者たちは、せいぜいよろしく取計らってほしいと、アリスタゴラスにたのみ、アルタプレネスへの謝礼と軍隊の必要経費は、いずれ自分たちが弁済するから、アリスタゴラスから相手方へ約束しておいてくれるように依頼した。


ヘロドトス著「歴史」巻5、30 から

ナクソスの亡命者たちが「必要経費は、いずれ自分たちが弁済するから」と請け負ったのは、彼らはナクソスにおける自分たちの権威を信じていたからでした。

というのも彼らは、自分たちがナクソスに姿を現わせば、ナクソス人は万事自分たちのいうがままになろうし、ナクソスのみか他の島々も同様になるという、満々たる自信をもっていたからである。


ヘロドトス著「歴史」巻5、30 から


アリスタゴラスはサルディスに行き、アルタプレネスに、ナクソスは地味肥え、財宝や奴隷も豊かな国である、彼らを帰国させたあかつきには、この島をダーレイオス王の版図に加えることが出来るでしょう、と説明して軍船を出すことを承知させました。アルタプレネスは、ダーレイオス王の許可をとったうえで、自分の従兄弟のメガバテスを総指揮官に任命し、200隻の三段櫂船とペルシア軍および同盟国軍よりなる遠征軍を率いさせてアリスタゴラスの許へ送りました。

(上:ナクソスの風景)

 

 メガバテスは、アリスタゴラスをはじめイオニア軍およびナクソスの亡命者たちを自軍に迎えると、あたかもヘレスポントスに向うかのごとく見せかけてミレトスを出帆し、キオス島に着くや、船団をカウカサ港に停泊させ、北風が吹き次第、ナクソスに向う手筈を整えていた。


ヘロドトス著「歴史」巻5、33 から


これに対してナクソス側は、これらの軍隊が自分たちを攻めるための軍隊であるとは夢にも思っていませんでした。これらの軍勢は北のヘレースポントスに向うものとばかり思っていたのです。ところが、アリスタゴラスがひょんなことで総指揮官メガバテスを怒らせてしまい、それが原因でナクソスはようやく、この軍隊が自国を目指してくるものであることを知ったのでした。

 メガバテスが艦隊の警備状況を巡察していた時のこと、たまたまミュンドスからの船に、一人も警備兵がいなかった。メガバテスは激怒し、自分の親衛隊の兵士たちに命じて、その船の艦長であるスキュラクスという男を探し出して縛り上げ、頭は船外、胴体は船内、というふうにして、船の橈孔に押し込んだ。
 スキュラクスが縛られた後、アリスタゴラスの許へ、彼には親しいミュンドス人の艦長を、メガバテスが縛って手荒な仕置きをしている、と告げたものがあった。アリスタゴラスは出向いていって、メガバテスに釈放方を頼んだが、相手がきき入れぬので、自分で行って艦長の縛(いまし)めを解いてしまった。
 これを知ったメガバテスは大いに怒り、アリスタゴラスに向っていきり立ったが、アリスタゴラスがいうには、
「これはそなたとなんの関係もないことじゃ。そもそもアルタプレネスがそなたを派遣したのは、私の命令に服し、私の命ずるままに船を動かすためではなかったのか。要らざる節介は止めにするがいい。」
 アリスタゴラスはこういったが、相手はこの言葉に腹を立て、日の暮れるのを待って小船で人をナクソスへ送り、ナクソス人に迫っている事態をことごとく告げさせたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻5、33 から


このことを知ったナクソスは、あわてて籠城の準備を整えたのでした。

 実際ナクソス人は、今度の遠征が自分たちを目指しているものであるとは、夢にも考えていなかった。しかしそうと知るや、すぐに城外にある物資を城壁の内へ移し、籠城の覚悟をきめて食糧と飲料を用意し、城壁の補修を行なった。
 ナクソス側はこのように、戦争必至とみて準備を怠らなかったので、遠征軍が船隊をキオスからナクソスに進めたときには、すでに防備を整えた相手に立ち向かわねばならなかったわけで、かくて包囲戦は四カ月にわたって続いた。やがてペルシア軍の用意してきた軍資金は底をつき、これに加えてアリスタゴラス個人の出費も多額に上り、包囲を続けるためには、更に多額の戦費を必要とする事態になるに及んで、遂に遠征軍は(中略)惨憺たる状態で大陸へ引き上げていった。


ヘロドトス著「歴史」巻5、34 から


このようにしてBC 499年の、ペルシアによるナクソス攻撃は撃退されたのでした。

ナクソス(8):リュグダミス

BC 6世紀の中頃まで時代を下ります。この頃ナクソスは貴族制の都市国家でしたが、その貴族の中にどうも民衆に対して不正を働いた者、あるいは一族がいたようです。民衆はそのことで貴族に対して憤っていました。その時、リュグダミスという人物がいて、彼は貴族の出身なのですが、民衆の味方をして彼らの指導者になりました。彼に多くの支持者が出来た時、たまたまアテーナイの僭主ペイシストラトスが政変でエレトリアに亡命するという事件が起こりました。

ペイシストラトスは自分に対して策謀がめぐらされているのを知るや、綺麗さっぱりと国を退散し、エレトリアへ行き、ここで息子たちと計画を練った。
 独裁権を奪回せよというヒッピアスの意見が通ったので、彼らになんらかの恩義を感じている町々から、義捐金を募りはじめた。


ヘロドトス著 歴史 巻1、61 から

 

リュグダミスにはこれが、自分がナクソスの支配権を得るチャンスだと考えました。彼は、ペイシストラトスを援助することでペイシストラトスに貸しを作り、彼がアテーナイの支配権を回復したら今度は自分がナクソスの僭主になるのに力を貸してもらおう、と考えたのでした。それにリュグダミスは商工業を保護するペイシストラトスの政策を評価しており、同じようなことをナクソスでも行いたいと考えておりました。そこで、リュグダミスは自分の支持者を手兵とし、軍資金を持参してペイシストラトスの許に馳せ参じたのでした。

多数の都市が募金に応じ、その金額は莫大なものになったが、中でもテバイの醵金額は他の都市を凌駕した。話を切り詰めていえば、いくばくかの期間が過ぎたのち、彼らの帰国の手筈万端が整ったのである。すなわちアルゴス人の傭兵がペロポネソスから到着するし、またリュグダミスというナクソスの男が、軍資金と手兵を携え、異常な熱意をもって、自発的に参画してきた。


ヘロドトス著 歴史 巻1、61 から


めでたくペイシストラトスがアテーナイの支配権を回復すると、援助の褒美として今度はペイシストラトスがリュグダミスに軍をつけてナクソスを攻略し、リュグダミスをナクソスの僭主の座に据えたのでした。BC 546年のことでした。

また先頃の戦闘(=ペイシストラトスがアテーナイに侵攻した戦闘)ですぐに逃亡せず最後まで踏み留まったアテナイ人の子供を人質にとり、これをナクソス島に移した。ペイシストラトスは既にこの島を攻略しており、リュグダミスに統治させていたのである。


ヘロドトス著 歴史 巻1、64 から


後世、哲学者アリストテレースは、貴族出身者が民衆指導者となって、次に僭主になる者の例としてこのリュグダミスを挙げています。

しかし寡頭制は主として二つの最も明瞭な仕方で変わり、その一つは寡頭制の国民権に与る人々たちが大衆に不正を働く場合である、というのはその場合にはどんな者でもが彼らの先導者となるのに充分な者だからである、そしてこのことはその指導者がたまたま寡頭制の国民権に与っている人々自身のうちから出てくるようなことがあった場合において特にそうである、例えばナクソスのリュグダミスがちょうどそのような人であるが、彼は後にはまたナクソス人たちの僭主となった。


アリストテレス政治学、第5巻、第6章、1節」より


ところでリュグダミスがナクソスの支配権を握ったBC 546年というのは、ペルシアによるリュディアの首都サルディスの陥落の年でもあります。リュグダミスはやがてこのペルシアがナクソスを破壊することになることを予想していたでしょうか? それともまだ海軍というものを持っていなかった当時のペルシアを侮っていたでしょうか?


ペイシストラトスに倣ってリュグダミスも従来の貴族の力を抑え、商工業従事者を保護する政策を採ったので、ナクソスは繁栄しました。そして勢力圏をパロス島アンドロス島など近隣の島々に拡げていきました。また、西のサモス島の僭主ポリュクラテースとは同盟を結び、サモスミュティレーネーミーレートスと戦った時には援軍を派遣しました。BC 530年にリュグダミスは巨大なアポローン神殿の建設を始めました。この企ては、アリストテレースが「政治学」で、僭主の支配手段のひとつとして述べていることを思い出させます。(そこにはリュグダミスの名前はありませんが)

また被支配者たちを(中略)日々の仕事に忙しくして謀反する暇もないようにすることは僭主の策である。例えばエヂプトのピラミッドやキュプセロス一族の奉納物やペイシストラトス一族によるゼウス・オリュンピエイオスの神殿建立やサモスにあるポリュクラテスの建造物などがそれである(というのはこれらは凡て同一の効果、すなわち被支配者たちの多忙と貧乏とをもたらすのだから)。


アリストテレス政治学、第5巻、第11章、8~9節」より

彼もまた、民衆を多忙にさせて謀反する暇もないようにさせるために、巨大な神殿を作らせたのかもしれません。この神殿は結局完成しませんでした。現代まで残っているのはその正面の門の一部のみです。


BC 527年にアテーナイのペイシストラトスが死去すると、後ろ盾を失ったリュグダミスの支配に影がさしてきます。BC 524年、スパルタがナクソスに兵を派遣してリュグダミスの支配を終了させました。おそらくナクソス内部でもそれに呼応する動きもあったと思います。スパルタはこの頃の国是として他国が伝統的な貴族制であるのを好み、進取の精神に富んだ僭主制を嫌っていました。そして様々な都市国家に介入してその僭主制を覆してきました。ナクソスへの派兵もその一環だったのです。


ところでリュグダミスの支配が終わっても、ナクソスの繁栄はそのまま続きました。彼の政治的な遺産は残ったわけです。

ナクソス(7):BC 10世紀からBC 7世紀まで

イオーニア人はBC 1000年頃にナクソスに住みついたようです。おそらく、当初は王制をとっていて、それがやがて貴族制に代わっていったと推測します。その後のことで分かっているのは、BC 735年、北のエウボイア島にあるカルキスと共同で、シシリー島に植民市を建設したことです。これはシシリー島(当時の言い方では「シケリア島」)での初めてのギリシア人都市でした。この植民市は母市と同じナクソスという名前をつけられました。下に引用するトゥーキュディデースの記事には、ナクソス人のことは出ておらず、カルキス人が単独でこの植民市を建設したように書かれていますが、前野弘志著「ケルソネーソス、ナクソス、エウボイア植民:『エンクテーマタ型植民』の検討」によればこれはナクソスと共同で建設したとのことです。

ギリシア人の中で最初にやって来たのは、エウボイア島のカルキス人であった。かれらはトゥークレースを植民地創設者にいただいて渡来すると、ナクソス市を建設し、現在のナクソス市の外側にある、開国神アポローンの祭壇をこの時に建立した。ちなみに今日でもギリシア本土の祭祀に詣でる使がシケリアを出航するときには、先ず最初にこの祭壇で犠牲をささげることになっている。それから一年おいて、コリントスのヘーラクレイダイ一門のアルキアースが、シュラクーサイ市を建設した。かれは、今は市の内郭となり島ではなくなっているが、かつては島であった場所からシケロス人を駆逐して、市を建てたのである。やがて陸に面するその外側にも城壁が築きめぐらされてからは、住民も多くを数えるに至った。他方、トゥークレースをいただくカルキス人らは、シュラクーサイが建設されてから五年目に、ナクソスを基地としてシケロス人と戦い、これを駆逐してレオンティーノイ市を建設、つづいてカタネーを建設した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻6・3 から


ナクソスが植民団を派遣した理由は分かりませんが、それから約100年後に起きた、ナクソスの南に位置するテーラ島からキュレーネーへの植民(「テーラ(5):バットス」参照)を考慮すると、人減らしの意味があったのかもしれません。まだこの頃ナクソスはそれほど繁栄しておらず、人口増加に対応出来ていなかったのでしょう。それでもこの頃からナクソスは特産品として、研磨材として使うエメリーという鉱石の交易が始まり、それが富の蓄積につながっていきました。


その後、BC 710年頃カルキスが、同じエウボイア島のエレトリアと戦争を始めます。いわゆるレーラントス戦争です。私はナクソスもこの戦争に巻き込まれたのではないか、と推測します。それは上記の植民市建設でナクソスカルキスは協力関係にあったためです。トゥーキュディデースによれば、ギリシアの多くの都市がカルキスエレトリアのどちらかの味方をして戦争に参加したということです。ナクソスは当然カルキスの味方をしたことでしょう。この戦争はBC 650年頃までだらだらと続き、カルキスエレトリアはそれまで富裕を誇っていたのが、この戦争のせいで双方とも衰退してしまうのでした。しかし、逆にナクソスはこの頃から勢力を伸ばし、キュクラデス諸島での交易の中心地になっていきます。キュクラデス諸島の宗教的中心地は、ナクソスの北にあるデーロス島でしたが、そのデーロス島の聖なる道にそって、この頃ナクソスは10頭以上のライオンの像を奉納しており、その頃のナクソスの繁栄を示すものとなっています。

ナクソス(6):歴史時代とのはざま

アリアドネーの出来事以降、ナクソスはでは何が起きたでしょうか? 私はそれについての物語を見つけることは出来ませんでした。


そこでナクソスに関係のある神話を広く調べてみると、海の神ポセイドーンが、のちにお妃になるアムピトリーテーを見初めたのがナクソス島近海だったとか、ポセイドーンがディオニューソスナクソス島の所有を争って負けた、という話が見つかりました。この後者の話から、ナクソス島とディオニューソス神の間に深い関係があることが分かります。ディオニューソスはブドウとワインの神ですので、当然、ナクソス島のブドウの産地です。楠見千鶴子著「癒しの旅 ギリシアエーゲ海」には現代のナクソスのブドウ畑の描写があります。

そうしていよいよ険しい山間を縦断しながら、一路北端まで行くのであるが、その山間の両斜面が、なんと上から下まで延々と葡萄の段々畑だった。
 その間には、斜面にできた集落がいくつかあるが、見渡す限りに広がる何千何万の、土留めをした段々畑は、とても人間業とも思えない壮観な眺めだ。


楠見千鶴子著「癒しの旅 ギリシアエーゲ海」の「ナクソス島 アリアドネの光と影」より


話は変わりますが、鍛冶の神ヘーパイストスに鍛冶の技術を教えた神話的な人物ケーダリオーンはナクソス島に住んでいたとのことです。「キオス(2):オーリーオーン」でご紹介した話では彼はレームノス島にいたはずで、しかもその物語ではヘーパイストス神の鍛冶の手伝いをする少年だったはずですが・・・・。それはともかく、アリアドネーがディオニューソスによってナクソス島から、北のレームノス島に連れていかれた、という話もあることから、ナクソスレームノスの間には何か関係があるのかもしれません。そしてオーリーオーンの話を考えるとキオス島とも関係があるのかもしれません。


考古学から分かることは、BC 2000年より以前にはナクソス島もキクラデス文明に属していたということです。キクラデス文明については「デーロス島(6):キクラデス文明」で書きました。

その後、BC 2000年からBC 1600年にかけてはクレータ島の影響が強く、その後、BC1250年頃には西側の大陸ギリシアの影響が強くなっています。テーセウスがクレータのミーノータウロスを退治した物語は、この時代のことが、つまり大陸ギリシアエーゲ海の支配権をクレータ島から奪った頃のことがいくぶんか反映されているのかもしれません。その後、この影響は一度弱くなります。この頃、西の大陸ギリシアでは動乱があったことが分かっています。その後、もう一度、大陸からの影響が強まり、BC 10世紀頃にはイオーニア人が到来したということです。このイオーニア人たちがやってきた頃の物語を知りたいと思っているのですが、結局、「(1):町の起源」でご紹介した以下の文章に舞い戻ってしまいます。

ナクソス人は起源をアテナイに発するイオニア民族である。


ヘロドトス著「歴史」巻8、46 から

それは、アテーナイ王コドロスの息子たち、アンドロクロスとネーレウスがそれぞれエペソスミーレートスを建設したのと同じ頃だったのでしょうか? それともエペソスミーレートスよりナクソスの方がアテーナイに近いので、それより前だったのでしょうか? 本当にアテーナイからの植民だったのでしょうか? ヘーロドトスはこのほかにもシプノス島やセリポス島やケア島の住民の起源をアテーナイにしています。アテーナイが多過ぎはしないか、と思います。

ナクソス(5):アリアドネー(2)

前回はアリアドネーが神になる、という結末で話を終えました。ところがこの伝説の元々の姿は随分違うようです。古い伝説を伝えるホメーロスの「オデュッセイアー」では以下のように述べられています。

またパイドレーやプロクリスや、姿(なり)きよらかなアリアドネーにも
会ったのでした、これはよからぬ意図をもつミーノースの息女とて、テーセウスが
もとクレーテー島から、神聖なアテーナイ市の丘の高みへ連れていこうと
いながらも果たさなかった、着く前にアルテミスさまが、波のとりまく
ディエーの島で、ディオニューソスが照覧のもとにお討ちということ。


ホメーロスオデュッセイアー」第11書 呉茂一訳 より


(女神アルテミス)


狩猟の女神アルテミスがアリアドネーを殺したというのです。おそらく得意の弓矢で射殺したのでしょう。「ディエーの島」というのはナクソス島の古い名前だそうです。この文章からは、テーセウスはアリアドネーをアテーナイに連れて行きたかったけれど、女神アルテミスによって殺されたので、連れていくことが出来なかった、というふうにも読めます。つまりは置き去りにしたわけではない、とも読めます。ではいったい何があってアリアドネーは殺されなければならなかったのでしょう。しかも上の記述によれば、それはディスニューソスの承認のもとで行われた、ということです。ディオニューソスと結婚して自身も不老不死になるのと、ディオニューソスの承認の元、殺されてしまうのとでは、天地の開きがあります。いったいいかなる事情があったのか、謎は深まるばかりです。「オデュッセイアー」にはアリアドネーについてはこれ以外に記述がないので、これ以上の情報を得ることが出来ません。


現代の一部の学者は、アリアドネーはもともと女神であったと主張しています。英語版Wikipedaの「アリアドネー」の項には、神話学者カール・ケレーニーの説として、アリアドネーという名前は添え名であって、本当の名前は線文字Bの粘土板に登場する「迷宮の女神」である、という説が紹介されています。そうすると、彼女はミーノータウロスが住んでいた迷宮そのものだったのでしょうか? ミーノータウロスがテーセウスによって退治されることと、アリアドネーがアルテミスによって射られることは、同一の事態を表していたのでしょうか? どのように考えても、私は納得出来るような解釈を見つけられません。それでこのことが、ずっと心にひっかかっています。




(右:銀貨に描かれた迷宮の絵。クノーソス出土)


プルータルコスが書いていますが、ナクソスでは次のような「アリアドネー2人説」も存在したということです。これもアリアドネーの伝説を何とか理解可能なものにしたい、という努力の表れでしょう。

ナクソス島のある人々は固有の伝統を信じてミーノースが二人アリアドネーが二人いたと説いている。一人のアリアドネーはナクソスディオニューソスと婚してスタフュロスとその兄弟を生んだ。もう一人の若い方はテーセウスに誘拐され後で見捨てられてからナクソス島へ来た。その時一緒に来た乳母はコルキュネーという名でその墓が今でも見られる。アリアドネーもそこで死んだが人々の示す尊敬のしるしは前のアリアドネーと趣きを異にする。前のほうの祭には人々が喜んで楽しい催しをする。若いほうの祭にはどこか悲しみと悼みが混ざっている。


プルータルコス著「テーセウス伝」 河野与一訳 より。 (旧漢字、旧かなづかいを改めました。)

この解釈では、最初のアリアドネーは女神であり、2番目のアリアドネーは人間なのでしょう。