神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

イアーリュソス(8):ディアゴラス

ディアゴラスはイアーリュソス出身のボクサーで、前回登場したティーモクレオーンの同時代人でした。彼はオリュンピア競技(いわゆる古代オリンピック)でボクシングで2回優勝しました。そのほかに古代ギリシアの有名な競技会で何回も優勝しています。具体的にはコリントスのイストミア大祭の競技会で4回、ネメア大祭で2回、デルポイのピューティア大祭での優勝回数は不明ですが少なくとも1回優勝しました。これらの競技会は古代ギリシア四大競技会と呼ばれています。イストミアとネメアの大祭は2年に1回、オリュンピア、ピューティアの大祭は4年に1回挙行されていました。


ディアゴラスが有名になったのは、彼自身の優勝回数も理由のひとつですが、そのほかに、彼の息子たちもオリュンピアで優勝したことも与っていました。彼の長男のダマゲトスはBC 452年にパンクラティオンというレスリングとボクシングを合せたような競技で優勝しています。次のBC 448年のオリュンピア競技ではこの長男がまたもやパンクラティオンで優勝するとともに次男のアクーシラオスがボクシングで優勝したのでした。彼らは父親のディアゴラスを肩に載せて競技場を巡り、観客の歓声を浴びました。観客はディアゴラスを最も幸福な人間であり、今の瞬間が彼にとって最も幸福な時であるとみなしたそうです。ある伝説によれば観客は以下のようにディアゴラスに向って叫んだというのですが、さすがギリシア悲劇を生みだした文明と言うべきか、私たち現代の日本人の多くにとっては異様な感性の言葉です。


「ここで死ぬんだ、ディアゴラス。ほかではオリュンポスに登ることはないだろう。」


伝説では、ここで息子たちに担がれたままディアゴラスは死んだということですが、実際はそんなことはありません。古代ギリシアでは人はその幸福の絶頂で死ぬのが望ましい、とされていたそうです。オリュンポスに登るというのは、神に成ってオリュンポスの神々の一員になる、という意味でしょう。


それはともかく、ディアゴラスの名誉はさらに続き、三男のドリエウスはその後オリュンピアに3回出場し、3回ともパンクラティオンで優勝したのでした。さらに、ディアゴラスの孫たちもオリュンピアで優勝したとのことです。


ディアゴラスはその家系においても興味深い存在で、イアーリュソスの王家エラティダイの子孫でした。もっともこの頃にはイアーリュソスの王制は廃止されていて、おそらく民主制(そうでなければ貴族制)になっていましたが、それでも彼の家系はイアーリュソスの名門でした。伝説によれば、BC7世紀のイアーリュソス王ダマゲトスは、ギリシアで一番立派な男の娘を娶るようにという神託を受け、本土のメッセニアの反乱指導者アリストメネースの3番目の娘と結婚したということです。アリストメネースは当時スパルタの支配下にあったメッセニアで起った反乱で、メッセニア人から指導者に選ばれた者でした。彼が率いるメッセニア人の反乱軍はギリシア最強といわれたスパルタ軍と互角以上に戦ったのですが、同盟していたアルカディアの王がスパルタに買収されて裏切ったために形勢が不利になり、最後には反乱は鎮圧されてしまいました。ダマゲトスがアリストメネスの娘を妻にと乞うた時は、この反乱が瓦解するころであり、アリストメネスはこれを機に娘とともにイアーリュソスに亡命し、その後そこで亡くなりました。ディアゴラスはこのダマゲトスと、アリストメネスの娘の血を引いているということです。


現代のイアーリュソスの西4kmのところにある国際空港は、このディアゴラスの名にちなんでロドス・ディアゴラス国際空港といいます。
(以上、日本のWikipediaの「ディアゴラス」の項「アリストメネス」の項アメリカのWikipediaの「ロドスのディアゴラス」の項を参考にしました。)