神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

イアーリュソス(7):ティーモクレオーン

BC 480年の「サラミースの海戦」まで時代を下ります。ペルシア王クセルクセースは陸海の大軍を率いてギリシア本土に攻め込み、アテーナイを占領し火を放って町を破壊しました。一方、ギリシア連合海軍はアテーナイ沖のサラミース島に集結し、その後両者が対戦しました。その結果、アテーナイの知将テミストクレースの貢献もあってギリシア軍はペルシア海軍を打ち負かしたのでした。このサラミースの海戦の後に、イアーリュソス出身の人物が歴史に、というか歴史の隅っこに登場します。それはティークレオーンという詩人で、宴会で歌う歌を作っていました。才能はあまりなかったようです。彼はテミストクレースを非難する歌を書いたことで、歴史に名を留めました。


ティークレオーンの墓銘碑は、高名な詩人のシモーニデースが作ったのだそうですが、こういうものです。

大いに飲み、大いに喰らい、大いに中傷したるのち、
我、ロドスのティークレオーン、ここに休めり。


アメリカのWikipediaの「ティーモクレオーン」の項より

ところでティークレオーンは生前、このシモーニデースにも食ってかかっていたようです。シモーニデースはティークレオーンよりはるかに優れた詩人で、テルモピュライでペルシア軍のために倒れたスパルタ兵を歌ったシモーニデースの以下の詩は有名です。

旅人よ、ラケダイモーン人に伝えよ。
我ら掟のままに、ここに横たわる、と。


さて、ティークレオーンについて大きな情報を残してくれたのは、AD 1世紀のギリシア著作家プルータルコスです。彼はテミストクレースの伝記の中で、テミストクレースは名誉心もあり聡明でもあったが、お金に汚いという欠点があったという例を述べるのにティークレオーンを持ち出してきています。

 ロドスの抒情詩人ティークレオーンは歌を作ってテミストクレースを辛辣に非難し、他の追放者たちは金を貰ったものだから帰国ができるように取計らったのに、自分は前々からの友人でありながら見捨てたのも金のためだと言った。その歌はこうである。「もしも君がパウサニアースを、もしくはクサンティッポスを、もしくはレウテュキダースを讃えるならば、私はアリステイデースを讃える。これは神聖なアテーナイから来た一人の実直な人間である。テミストクレースはレートーに嫌われている。嘘つきで不正で裏切り者だ。ティークレオーンが友人なのに、はした金に迷わされてこの人を故郷のイアリューソスに戻してやらず、銀を三タラントン持って海へ乗り出したが、いっそ死ねばいい。・・・・」


プルータルコス「テミストクレース伝」21節 河野与一訳 より。(ただし、旧漢字、旧かなづかいは、現代のものに改めました。)

このプルータルコスの記述だけからは事情がよく分かりませんが、どうもティークレオーンはテミストクレースとは友人関係だったので、テミストクレースにお金を払って、故郷のイアーリュソスに帰してくれるように頼んだようです。しかしテミストクレースはそのお金を受け取ったものの、他人からの頼み(それはお金を払っての頼みでしたが)を優先してティークレオーンをイアーリュソスに帰さなかった、ということらしいです。それでティークレオーンはテミストクレースを非難する歌を作ったというわけです。


なぜティークレオーンはロドスに帰国することが難しかったのでしょうか? プルータルコスは別の箇所で

ティークレオーンは、ペルシアびいきの廉で追放になったが、その時テミストクレースが賛成の投票をしたのだといわれている。

と書いています。そうするとティークレオーンは「ペルシアびいき」、つまりペルシアの支配への協力者と見なされてロドス島を追放されたということのようです。しかし、当時、ギリシア勢はサラミースの海戦でかろうじてペルシア勢を撃退したばかりで、ロドス島は依然ペルシアの支配下にあったはずです。とすると、ペルシア支配下のイアーリュソスから誰かが「ペルシアびいき」のために追放される、というのはおかしなことです。しかも「その時テミストクレースが賛成の投票をしたのだといわれている」とあるのも、ロドスでの話ではなさそうに思えます。これを、ティークレオーンはアテーナイに出て来ていたが、ペルシアと対決する決意をしたアテーナイ政府がティークレオーンをアテーナイから追放した、と解釈すれば、ペルシアびいきを理由に追放されたという記述も、テミストクレースが賛成の投票をしたという記述も、理解出来ます。しかし、今度はティークレオーンがなぜ自力ではロドスのイアーリュソスに帰国出来ないのか、その理由が分からなくなります。


その後、テミストクレースは自分の功績を誇るあまり、アテーナイ市民に嫌われるようになり、とうとう陶片追放に会ってしまいます。陶片追放というのはアテーナイの制度で、有力になり過ぎたと思われる人物を投票で決め、10年間アテーナイから追放するというものです。陶片追放に会った人物は別に犯罪者として扱われず、10年たてば帰国出来るのですが、政争の激しい当時のアテーナイでは、テミストクレースの追放中に政敵たちがテミストクレースを「ペルシアびいき」の廉で弾劾し始めました。サラミースでペルシア海軍を破るのに一番功績のあった人物をよりによって「ペルシアびいき」の理由で弾劾するのですから、かなりの無理があります。そのような無理が通るのが当時のアテーナイ政界でした。

(テミストクレースの名が書かれた陶片。このような陶片に追放したい人物の名前を書いて投票しました。)


さて、テミストクレースが「ペルシアびいき」で告発されると、ティークレオーンは自分だけが「ペルシアびいき」ではない、という歌を作りました。

ところでその後、テミストクレースもペルシアびいきだと告発された時に、それに対してこういう詩を作った。「それでは何もティークレオーンだけがペルシア人と結んだのではなくて、ほかにも悪者がたくさんいるのだ。何も俺だけが尾なし狐ではない。ほかにも狐がたくさんいる。」


プルータルコス「テミストクレース伝」21節 河野与一訳 より。(ただし、旧漢字、旧かなづかいは、現代のものに改めました。)


いずれにしてもティークレオーンはテミストクレースのおかげで歴史に残ったような人物で、それ以外に目立った業績はなかったようです。