神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

イアーリュソス(9):ロドス市の建設

BC 431年、ギリシア世界はアテーナイ側とスパルタ側に分かれ、ペロポネーソス戦争が始まります。イアーリュソスを含むロドスの町々はドーリス系でしたがもともとデーロス同盟に参加していることからアテーナイ側に付きました。BC 415年にアテーナイはシケリア(シシリー島)遠征を行ないますが、その際にロドスの軍勢が参加しています。とはいえ、ここまではロドス島は戦場からは遠く離れていたために、戦争の被害はあまりありませんでした。しかしBC 413年にアテーナイとその同盟国のシケリア遠征軍が壊滅すると事情が変りました。今度は小アジアエーゲ海側に戦場が移り、ロドス島にも戦雲が迫ってきました。


BC 412年、ロドス3都市の富裕者階級はスパルタ側への寝返りを画策しました。これは北のキオス島で起きたのと同じような事情だったのだと推測します(「キオスの反乱(1)(2)を参照下さい。)。つまり、国内の富裕層と一般庶民との間の対立がそれぞれを一方はスパルタ支持に、もう片方をアテーナイ支持に向わしめたのでした。

他方、ペロポネーソス勢は、ロドス島で最も有力な市民から協力の申し入れを受けて、ロドスへ船隊を進める方針を立てた。(中略)こうしてかれらはこの冬が終るのを待たず、ただちにクニドスから発進し、先ず最初に船隊九十四艘をロドス島のカメイロスに接岸させたが、この間の両者の秘密交渉について何も知らされていなかった一般市民は驚き逃げようとした。この町には城壁の備えがなかったことも、市民に恐怖をあたえたとりわけ大きい原因となっていた。しかしその後、ラケダイモーン人らはこれら市民ならびに、リンドスとイエーリュソス両市の市民らの民議会を招集し、説得のすえついにアテーナイから離叛することを承知させた。こうしてロドス島はペロポネーソス側に組することとなったのである。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・44 から

このあとイアーリュソスを含むロドス島がどうなったのか、残念ながらトゥーキュディデースは書いていません。全般的な話としては、幸いにもその後戦場はもっと北のヘレースポントス海域(現代のダーダネルス海峡)に移ったので、ロドス島はその近海での戦いはそれほどなかったようです。


まだ、ペロポネーソス戦争の決着がついていないBC 408年に、イアーリュソス、リンドス、カメイロスの3市は共同で、島の東端に新しい町を建設しました。この新しい町はこの都市は碁盤の目状に道路を走らせたいわゆるヒッポダモス方式で設計され、ロドス市と名付けられました(ヒッポダモスについては「ミーレートス(27.最終回):復興」を参照下さい。ミーレートスのヒッポダモス自身がこの都市の設計に関わったという伝承もありますが、私は年齢的に無理であろうと考えています)。


この都市はイアーリュソスからは12kmぐらいしか離れていませんでした。このロドス市がその後、貿易で、また学問の中心地のひとつとして大いに栄え、その影響でイアーリュソスは逆に衰退していきます。このブログでは続けてロドス市についてもご紹介していきたいと思います。現代のロドス市を訪れるとまず目につくのは古代の遺跡ではなく、中世の十字軍の精神を受け継ぐロドス騎士団の重厚な城壁です。しかし、このブログは中世はスルーしてひたすら古代ギリシアに注目していくことにします。