神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

コリントス(16):ペリアンドロス(2)

キュプセロスとペリアンドロスは、コリントスの商工業を盛んにしました。そのためコリントス人は、以下のように評されました。

技術的職業を軽んずることが最も少ないのはコリントス人である。


ヘロドトス著「歴史」巻2、167 から

当時のギリシアでは工芸を職業とする人々を下に見る風潮がありました。

ギリシア人が果たしてこのような慣習をもエジプト人から学んだものかどうかは、私にも明確な判断が下し難い。というのは私の見る限りトラキア人、スキュタイ人、ペルシア人、リュデュア人はじめほとんどすべての異国人(非ギリシア人)が、職業的技術を習得する者たちとその子孫を他の市民よりも下賤のものと見なし、このような手工業に携わらぬ者、中でも特に軍事に専従する者を尊貴なものとしているからである。しかしいずれにせよギリシア人はみなこのような慣習に染まったわけで、殊にスパルタ人は最もはなはだしい。


同上

その中でコリントス人がそのような人々を尊重するのは対照的でした。


また、ペリアンドロスは、反抗的な植民市であるケルキューラを制圧して、支配下におきました。また、イオーニア系の植民市が多数あるカルキディケー地方にドーリス系としては唯一の植民市であるポテイダイアを建設させました。こうしてコリントスは繫栄していったのですが、その一方でペリアンドロスの非情さを示す伝説があります。




(左:ペリアンドロス)


ペリアンドロスは、はじめの内は父親よりも穏和であったのだが、ミレトスの独裁者トラシュブロスと使節を通じて交際するようになってからは、キュプセロスを遥かに凌ぐ残忍な人間になったのじゃ。というのは、ペリアンドロスはトラシュブロスに使者を送り、どのようにすれば最も安全に政務を処理し、最もよく国を治めることができるか、と訊ねさせた。トラシュブロスはペリアンドロスの許から来た使者を町の外に連れ出して、作物の出来ている畑に入っていった。そしてコリントスからわざわざ訪ねてきた目的を、幾度もくりかえし使者に訊ねながら、一緒に麦畑を通ってゆき、ほかの穂よりも目立って長く伸びた穂を見るごとに、ちぎって捨てていったので、とうとうこうして作物の一番よく伸びている出来のよい部分をすっかり傷(いた)めてしまった。そしてその畑を歩き終わると、忠告らしいことは一言もいわず、使者を帰したのだ。


使者がコリントスに帰ると、ペリアンドロスは一刻も早くトラシュブロスの忠言を聞きたがった。使者は答えて、トラシュブロスからはなにも忠告はなかったことをいい、トラシュブロスの許で見てきたことを話して、自分で自分の財産を傷めるような気違いのところへ、私を使いに出されるとは、殿様の気が知れません、といった。


 しかしペリアンドロスはトラシュブロスのしたことの意味を悟り、町の有力者を殺せとトラシュブロスが忠告したのだと理解したので、これから市民に対して残虐の限りを尽くしはじめた。キュプセロスがし残した殺戮追放を、ペリアンドロスは仕上げをした・・・


ヘロドトス著「歴史」巻5、92 から


これは政治の技術としての非情さなのかもしれません。哲学者アリストテレースは「政治学」の中で同じ趣旨の記述を残していますが、ここでは逆にペリアンドロスがトラシュブーロスに忠告を与えたことになっています。

僭主制やペリアンドロスのトラシュブロスに対する忠告をとがめる人々が無条件に正しく非難していると思ってはならない(すなわち、ペリアンドロスは忠告を求めるために派遣された使者に対しては一言も答えないで、他の穂より秀でたのを抜き取って穀物畑を平らにした。使者はその為されていることの訳はわからなかったけれども、その出来事を報告したために、トラシュブロスはペリアンドロスのしたことから、抜ん出た人間を取り除かなければならないということを覚った、というのである)。というのは、このことは、ただ僭主たちにだけ有益なのでもなく、また、僭主たちだけが用いるのでもなくて、寡頭制や民主制についてもまたそれは同様なのだから。何故なら、陶片追放は或る意味では抜ん出た者を刈り込んで追放することと同一の効果をもつからである。


アリストテレス政治学」第3巻 第13章 より

晦渋な文章ですが、優秀な者を排除するのは僭主制に限った話ではない、とアリストテレースは主張しているようです。