神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

コリントス(12):植民活動


コリントスがいつから植民市を建設し始めたのかは分かりませんが、Wikipedia英語版の「コルフ島」(古代ギリシアでの名前は「ケルキューラ島」)の項によれば、BC 730年頃にケルキューラ島に植民市を作っています。ケルキューラ島はギリシア本土の西側の海、イーオニア海にあります。ケルキューラ島にはそれ以前にエウボイア島のエレトリアからの移民が住んでいましたが、コリントス人は彼らと合同して町を形成したようです。同じ頃、シチリア島古代ギリシアでの名前はシケリア島)にコリントスはシュラクーサイ(現在のシラクサ)の町を建設しています。下の引用の中のカッコ内の年代は、訳者である久保正彰氏の推定した年代です。

ギリシア人の中で最初にやって来たのは、エウボイア島のカルキス人であった。かれらはトゥークレースを植民地創設者にいただいて渡来すると、ナクソス市を建設し(BC 734頃)、現在のナクソス市の外側にある、開国神アポローンの祭壇をこの時に建立した。ちなみに今日でもギリシア本土の祭祀に詣でる使がシケリアを出航するときには、先ず最初にこの祭壇で犠牲をささげることになっている。それから一年おいて、コリントスのヘーラクレイダイ一門のアルキアースが、シュラクーサイ市を建設した(BC 733頃)。かれは、今は市の内郭となり島ではなくなっているが、かつては島であった場所からシケロス人を駆逐して、市を建てたのである。やがて陸に面するその外側にも城壁が築きめぐらされてからは、住民も多くを数えるに至った。


トゥーキュディデース著「戦史」巻6・3 から


ところでシュラクーサイを建設したコリントス人「ヘーラクレイダイ一門のアルキアース」は、英語版Wikipediaの「バッキアダイ」の項の記事によればバッキアダイの一員ということですが、上に引用したトゥーキュディデースの記事では「ヘーラクレイダイ一門のアルキアース」とは書いてあるもののバッキアダイとの関係は書かれていません。英語版Wilipediaの「コリントスのアルキアース」の項ではアルキアースのことを「半ば神話的なコリントスの市民」と書いていますが、やはりバッキアダイとの関係は書かれていません。そのため、私にはアルキアースがバッキアダイの一員だったのかどうか分かりません。さて、この英語版Wilipediaの「コリントスのアルキアース」の項にはアルキアースについての、とても本当とは思えない伝説が紹介されていました。

伝説
ルキアースは、アクタイオーンという名前のメリッソスの息子に恋し、彼を口説きました。アクタイオーンは市で最も美男で温和な若者でした。アルキアースはこの若者には「公正な手段も説得も」通用しないことを見て取り、彼を誘拐する計画を立てました。饗宴に参加するためにメリッソスの家に勝手に押しかけて、アルキアースとその共犯者は少年を捕まえ、連れ去ろうとしました。その家族は抵抗し、その後の綱引きでアクタイオーンは引き裂かれてしまいました.
メリッソスはコリントス人に正義を要求しましたが、彼らは無視しました。そのお返しに、彼はポセイドーンの神殿の上に登り、息子の殺害に対する復讐として神の怒りを呼び起こし、岩の上に身を投げました。その結果、大干ばつと飢饉が起こり、請われて神託は、アクタイオーンの死に報復しなければならないと告げました。アルキアースは自発的に亡命し、コリントス人のグループをシケリアに導き、そこで植民市シュラクーサイを建設しました。


英語版Wilipediaの「コリントスのアルキアース」の項

こんなとんでもない人物が植民団のリーダーを務めることが出来たとは私には思えません。これは真実の話ではないでしょう。



さてBC 710年頃、エウボイア島ではレーラントス戦争が始まります。この戦争にはコリントスも参加したようです。レーラントス戦争はエウボイア島にある2つの都市、カルキスエレトリアの間の戦争でした。コリントスカルキスに味方しました。コリントスに近いメガラアイギーナエレトリアに味方しました。そのほかにサモスとエリュトライがカルキス側に、ミーレートスキオスエレトリア側につきました。この戦争の間に、コリントスでは三段橈船という構造の船が発明されました。

船の構造を、ほとんど現在のものに近く改新したのは、コリントス人が最初であり、またギリシアで最初の三重櫓船を建造したのも、コリントスであった、と伝えられる。さらに、サモス人のために四艘の船を造ったのも、コリントスの造船家アメイノクレースであったらしい。アメイノクレースがサモスに赴いたのは、今次大戦(=ペロポネーソス戦争)の終った年から遡って、せいぜい三百年くらい昔(BC 704年頃)であったろうか。


トゥーキュディデース著「戦史」 巻1、13 から

この戦争はBC 650年頃まで断続的に続きました。この戦争の結果、カルキスエレトリアも国力を消耗し、それらに代わって交易活動の主役に躍り出たのは、エーゲ海の東ではサモスミーレートスであり、西ではアイギーナコリントスでした。