神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

コリントス(22):エピダムノスをめぐる戦い

BC 431年からBC 404年までだらだらと続いたペロポネーソス戦争は、アテーナイを盟主とするデーロス同盟とスパルタを盟主とするペロポネーソス同盟の戦いであり、その原因はアテーナイの勢力拡大をスパルタとその同盟諸国が恐れたことにありました。この戦争が始まるきっかけとなったのはコリントスの植民市ケルキューラとコリントスの間の紛争でした。この紛争でケルキューラがアテーナイに支援を頼んだことが、ペロポネーソス戦争を引き起こす要因になりました。


ケルキューラはコリントスの植民市でしたが、なぜか古くからコリントスに対して敵対的でした。さてBC 627年、ケルキューラは今のアルバニアのドゥラスの地にエピダムノスという植民市を建設しました。

エピダムノスに植民したのはケルキューラ人であるが、その植民地開祖には、古くからの慣習にしたがって、ケルキューラ市の母国コリントスから、コリントスの市民でヘーラクレースを祖とするエラトクレイデースの子パリオスが招かれてその任にあたった。コリントス人をはじめ、その他のドーリス系の諸部族からも、植民地建設に参加したものがいた。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、24 から

このエピダムノスの建設から200年近くのちのこと、エピダムノスで民衆派と貴族派の内乱が起り、民衆派が貴族派を国外に追放するという事件が起りました。すると、追放された貴族派は異民族の助けを借りてエピダムノスを攻撃し始めました。これに困ったエピダムノスの民衆派は母市のケルキューラに、貴族派との和睦の労を取ってくれるよう懇願したのですが、ケルキューラはこの要請を断りました。困ったエピダムノスの使者たちはデルポイの神託の指図もあって、ケルキューラの母市であるコリントスに赴き、紛争への介入を依頼したのでした。

(エピダムノスからの使者は)植民地の施政権をコリントス人に委託し、かさねて、破滅に瀕する自分たちを見捨てることなく、救援の手を打ってもらいたい、と要請した。コリントス人は、かれらの要求を正当とみとめて、援助の労をいとわぬと約束した。コリントス人の立場から見れば、この植民地はケルキューラに属すると同様に、自分たちの建設になるものであり、またケルキューラを築いたコリントスを無視したケルキューラ人の態度を、日頃憎んでいたからでもある。当時ケルキューラは資力においては、ギリシアで最大の富を誇る列強にくらべても遜色がなく、また軍備においてもコリントスをしのいでいた。(中略)コリントス人はエピダムノスへの救援隊をよろこんで送った。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、25~26 から

ケルキューラはこのことを知ると、自分たちの植民市エピダムノスがコリントスに奪われたと考え、亡命しているエピダムノスの貴族派と一緒にエピダムノスを軍船で包囲しました。コリントスはエピダムノスのこの窮状を座視することが出来ず、遠征軍を組織してエピダムノスに向かわせました。そしてケルキューラとコリントスは海で衝突したのですが、この海戦でコリントスは大敗しました(BC 435年)。そしてエピダムノスはケルキューラに降伏しました。

(上:かつてのエピダムノスの地。アルバニアのドゥラス)


コリントスはその後ケルキューラに報復する準備を進めました。その様子がケルキューラに伝わると、彼らはコリントスを恐れ、アテーナイとの同盟を考えるようになりました。

海戦後まる一年間、そしてさらに次の年にわたって、ケルキューラとの戦に敗れて憤懣やるかたないコリントス人は、軍船の建造をつづけ、また地元ペロポネーソスやその他のギリシア諸邦から高額の賃金で漕手を誘いあつめるなど、全力をかたむけて船隊の準備にかかっていた。この準備を聞き知ったケルキューラ人は恐れを禁じえず、ついにアテーナイに使節をおくってその同盟諸国の列に加わり、アテーナイから何分の援助を仰ぐように努めるべきである、と衆議一決した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、31 から

ケルキューラからの要請を受けて、アテーナイはケルキューラと同盟を結ぶことに決しました。やがてアテーナイとケルキューラの連合軍はコリントスとケルキューラ島と本土の間の海域で相まみえ、海戦を行うに至りました。これを「シュボタの海戦」といいます(BC 433年)。この海戦が終わったあと、どちらの陣営も勝利を主張しました。ということはつまり、どちらの陣営も決定的な勝利を得ることが出来なったのでした。

こうしてアテーナイ人がケルキューラ人と組んで、和約期間中(当時アテーナイ側とペロポネーソス同盟側は30年間の休戦条約を結んでいました)にコリントス勢と海戦をおこなったことが、アテーナイに対してコリントスが開戦を主張するにいたった第一の原因となったのである。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、55 から