コリントス(20): ペルシア戦争まで
ペリアンドロスが死んだのがBC 585年です。ペリアンドロスのあとはその甥のプサンメティコスがコリントスの僭主となり3年間統治したのち暗殺されました。この後、コリントスは貴族制に戻ります。これ以降コリントスについての伝説は急に少なくなり、つまらなくなってしまいます。以下、断片的な話しかお見せ出来ません。
BC 525年頃、一部のサモス人が、サモスの僭主ポリュクラテースの支配を嫌って脱出してスパルタに赴き、スパルタがサモスに介入してくれるように頼みました。それでスパルタはこれらのサモス人たちを援助してサモス島に攻め込んだのですが、その際、コリントスもスパルタと一緒にサモスを攻めた、という話があります。しかし戦況がよくなかったためにスパルタとともに撤退しました。
BC 519年にコリントスはアテーナイとテーバイの間の紛争の調停をしました。アテーナイとテーバイは、両国の間に位置するプラタイア市を巡って争っていました。
テバイの圧迫に悩まされていたプラタイアは(中略)アテナイ人が十二神に犠牲を供えている折に、嘆願者となって祭壇に坐り込み、アテナイに自国の運命を委ねたのである。このことを知ったテバイではプラタイア攻撃の兵を進め、これに対してアテナイはプラタイアを救援しようとした。
あわや両軍が戦いを交えようとした時、たまたま居合せたコリントス人の一行がこれを黙視せず、双方の了解の下に調停を行ない、テバイはボイオティアの住民の中でボイオティア同盟に加入することを望まぬ者にはその自由を認めるという条件下に、領土の境界を定めた。
ヘロドトス著「歴史」巻6、108 から
BC 508年、スパルタが、アテーナイから亡命していたイサゴラスをアテーナイの政権につけようとして、アテーナイに侵攻しました。この時、スパルタの同盟国としてコリントスも参加しましたが、途中でこの戦争は正しくないとして撤退しました。さて、スパルタには常時2人の王がおり、この時2人ともスパルタ軍を率いていましたが、このうちの片方の王であるデマラトスは、コリントスが撤退したのを見て自分も帰国してしまいました。これらの様子を見て他の同盟軍もそれぞれ自分たちの祖国(都市国家)へ退去してしまい、遠征軍は消滅してしまったのでした。
BC 500年頃にもスパルタはアテーナイの内政に干渉しようとしました。アテーナイの元僭主で今は亡命しているヒッピアスをアテーナイの政権に返り咲かせようとしたのです。スパルタの言分では、僭主を追い出して民主制になったアテーナイは国力を増大して、周囲の国々にとって危険な存在になってしまった、だから、もう一度僭主制に戻したほうが安全だ、というものでした。しかし、スパルタで会議に出席していたコリントスの代表は、僭主を援助するとはとんでもない話といって反対し、他の同盟国の代表もその意見に賛成したので、この企ては中止になりました。
BC 480年、ペルシア王クセルクセースが陸海の大軍を率いてリシア本土に侵攻してきた時に、コリントスは初めから抗戦の姿勢を見せていました。テルモピュライの峠でペルシア軍の進軍を食い止めようとしたギリシア勢にはコリントスから400名の重装兵が参加しました。もっとも、彼らはペルシアの攻撃が本格化した際に撤退してしまいましたが、この時スパルタとポーキス以外の軍勢はみな撤退したので、コリントスだけが消極的だったわけではありません。テルポピュライでの戦いと同時期に海では、アルテミシオンにギリシアの水軍が集結しており、ここにもコリントスは40隻の軍船を出していました。アルテミシオンの海戦ではギリシア連合軍はペルシアと互角の戦いをしていましたが、陸でテルモピュライの峠がペルシア軍によって突破されたという知らせを受けると、全軍撤収しました。次の迎撃地点はアテーナイとサラミース島の間の海域に設定されました。コリントスはここにも40隻の軍船を派遣しています。同時にコリントス地峡には、地峡を横断する長城を建設しました。この長城の建設には、コリントスだけでなくペロポネーソス半島の他の都市も参加しています。
サラミースの海戦でギリシア水軍はペルシア軍に大勝します。翌BC 479年はギリシア側の反撃が始まります。この年にギリシア本土でのプラタイアの戦いと、小アジアでのミュカレーの戦いが起きていて、どちらもギリシア側が勝利しています。コリントスはプラタイアには5000名の兵士を派遣しました。一方、ミュカレーに派遣した人数をペーロドトスは記していませんが、コリントス兵が参加したことや、その戦いでアテーナイに次いで戦功があったことを記しています。
この戦闘でギリシア軍中偉功を樹てたのはアテナイ人部隊で、アテナイ人の中ではパンクラティオンに練達の、エウトイノスの子ヘルモリュコスであった。(中略)アテナイ軍に次いでは、コリントス、トロイゼン、シキュオンの諸部隊の働きが目覚ましかった。
ヘロドトス著「歴史」巻9、105 から