神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

コリントス(19):リュコプローン(2)

リュコプローンの話を続けます。

年月は流れてペリアンドロスも老い、自分にもはや政務を執る力のないことを悟ると、ケルキュラに使いをやり、リュコプロンを呼び寄せて僭主の地位につけようとした。兄息子の方は常人よりも魯鈍の性であることは彼の目にも明らかで、とうてい自分の後継者となる能力のないことを看取っていたからである。しかしリュコプロンはこの報知をもたらした使者に、反論することすら潔しとしなかった。しかしペリアンドロスはこの青年に執着を抱き、重ねて彼の許へ使いを出し、こんどはリュコプロンには姉に当る自分の娘を遣わした。姉のいうことならばリュコプロンも一番よく聞くであろうと考えたからである。この娘はリュコプロンの許へゆき、
「ねえリュコプロン、あなたは王位が他人の手に渡り、父上の財産が四散してしまっても、自分の家へ帰ってそれを継ぐよりはましだと考えているのですが。さあ、家へ帰って、われとわが身を責めるようなことはおやめなさい。自尊心などというものはつまらぬものです。禍いを別の禍いで癒そうなどとしてはいけません。いたずらに厳しい正義よりも、公正な分別の方を尊しとする人もたくさんあるのです。また母親の権利を追求するあまり、父親から当然ゆずられるものを失った人も、これまで少なくないのです。王の位などというものは危いもので、これを望む野心家が多いのですが、父上も今はもうお年寄で、働き盛りを過ぎておしまいになりました。ですから当然あなたの貰える栄位を他人の手に渡すようなことはしないで下さい。」


ヘロドトス著 歴史 巻3、53 から

この姉の名前は分かりません。ペリアンドロスの娘の一人はアテーナイの名家ピライダイに嫁いでいます。その娘が里帰りしていたのでしょうか? それとも別の娘でしょうか? それはともかくとして、話を続けます。

(上:ケルキューラ島(現代名:ケルキラ島)の風景)

 姉は父から言い付かったとおり、なるべく弟の気をひくようなことをならべて説いたのであったが、リュコプロンは答えて、父がこの世にあると知る限り、決してコリントスへは帰らぬといった。
 娘から右の報告を得たペリアンドロスは三たび使者を送り、自分がケルキュラに行ってもよいこと、その代りリュコプロンはコリントスに帰り王位を継いでくれるように伝えさせた。息子がこの条件で父の申し出を受け入れたので、ペリアンドロスはケルキュラへ、息子はコリントスへ旅立つ準備をととのえていた。


同上


やっとペリアンドロスの願いがかなうとみえたのですが、ここで物語は思いがけない終わり方をします。

ところがケルキュラ人は事の一部始終を知り、ペリアンドロスが自国に来るのを妨げるために、この青年を殺害したのである。


同上

ペリアンドロスの直接統治になれば抑圧されることになるだろうと考えたケルキューラの人々によってリュコプローンは殺されてしまったといいます。これが本当ならば、随分無謀なことをしたものです。このあとペリアンドロスは報復として、ケルキューラの上流家庭の男児300名を捕え、彼らを宦官にするためにリュディア国王アリュアッテスの許へ送ろうとしました。しかし彼らはサモス人によって助けられました。

子供たちを携行したコリントス人の一行がサモスに着いた時、子供たちが(リュディア王国の首都)サルディスへ送られる事情を聞き知ったサモス人たちは、アルテミスの神域に難を避けるように子供たちに教えた。そして神の庇護を求めてきた子供たちが神域から拉致されるのを許さず、コリントス人が子供たちを食糧攻めにしようとすると、サモス人はその対策として祭を催したのであるが、サモスでは今でもその時と全く同じようにしてこの祭を祝っているのである。すなわち子供たちが歎願者として神域に留まっている間中、日没とともに少年少女の歌舞を催し、彼らに胡麻と蜂蜜入りの菓子を必ず携帯させる規則を設けた。ケルキュラの子供たちがそれを奪って食糧に当てさせるためであった。そしてこれは、子供たちを見張っていたコリントス人の一行が諦めて、子供をそこへ残して引き上げるまで続けられたのである。子供たちはサモス人によってケルキュラへ送り届けられた。


ヘロドトス著「歴史」巻3、48 から

ペリアンドロスはこのために落胆して死んだということです。結局、ペリアンドロスはリュコプローンに僭主の地位を渡すことは出来ませんでした。