神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

コリントス(11): バッキアダイ

アレーテースののち、いわゆる暗黒時代に突入します。それは伝説の伝わっていない時代です。英語版の「バッキアダイ(バッキスの子孫)」の項には、アレーテースに続くコリントス王の名前と在位年代が書かれていました。これがどの程度確かなものなのか疑問ですが、ここに引用します。

  • アレーテース。BC 1073 – 1035 
    • (こんな昔の年代がはっきりしているはずがありません。)
  • イクシオーン。BC 1035 – 997
  • アゲラース1世。BC 997 - 960
  • プリュームニス。BC 960 - 925
  • バッキス。BC 925 – 890


このバッキスの7人の息子と3人の娘の子孫と称する人々がバッキアダイという貴族集団を形成することになりました。バッキスのあとも王制は続いていきます。

  • アゲラース2世。BC 890 - 860
  • エウデモス。BC 860 - 835
  • アリストメーデース。BC 835 - 800
  • アゲモーン。BC 800 – 784
  • アレクサンドロス。BC 784 - 759
  • テレステース。BC 759 - 747


テレステースの時に、バッキアダイは王を殺害し、プリュタネイスという名の最高役職が一定の任期で統治する、貴族制を打ち立てました。プリュタネイスにはバッキアダイに属する人々が交代で就任しました。彼らは一族内で婚姻を結び、他の家系とは明確に区別された集団を形成していました。また、この頃、暗黒時代が終わり、伝説が残っている時代に入ります。


テレステースが王位にある時か、その先代のアレクサンドロスの治世の時か、その頃に活躍した詩人のエウメーロスもバッキアダイの出身でした。彼が「コリントス物語」を著したことは「(1):はじめに」で紹介しました。AD 2世紀の著作家パウサニアースもエウメーロスに言及しています。

叙事詩を作ったと言われているアンピリュトスの息子エウメーロスは、バッキアダイと呼ばれる一族の者でありましたが、彼のコリント物語の中で(もしそれが本当に彼の作であるなら)、オーケアノスの娘であるエピュラがこの地(=コリントス)に最初に住んでいたと述べています。


パウサニアース「ギリシア案内記」2.1.1 より

エウメーロスはそのほかに叙事詩エウロピア、ブーゴニア、ティタノマキア、トロイアからの帰還、を著したとも伝えられていますが、どこまでが本当に彼の作であるのかは確かではありません。彼は半ば伝説的な人物でした。


エウメーロスより少しのちのバッキアダイの一員であった人物にピロラオスがいます。彼はテーバイの人々のために法律を制定した人でした。なお、以下の引用では「ヂオクレス」となっている人物の名を(昔の本のせいか、この著者は「ディ」の音をなぜか「ヂ」と書くので)私は「ディオクレース」と書きたいです。このディオクレースもコリントスの人で、BC 728 年の第13回古代オリンピックでのスタディオン競走の勝者でした。ディオクレースはピロラオスの恋人でした。古代ギリシアでは男性の同性愛が当然のように出てきます。

コリントス人ピロラオスはテバイ人の立法家となった。ピロラオスはその氏族の点ではバッキアダイ族に属していたが、オリュンピアの優勝者ヂオクレスの愛人となり、彼がその母アルキュオネの愛情を憎んで故国を見棄てた時、共にテバイへ赴いて、いずれもその地に生涯を終えた。今日でもなお彼らの墓を人々は指示する。それらは互によくその面を見合うようになっているが、その一つはコリントスの領土の方向へ面を向けているのに、他の一つは向けていない。というのは、物語によると、彼らが自らそういう風に埋葬されることを定めた、すなわちヂオクレスは母の激情を嫌悪していたので、コリントスの地が自分の墓から見えないようにし、ピロラオスは見えるようにしたからである。さて、このような原因によって彼らはテバイに住むことになった、そしてピロラオスはテバイ人のために立法家となり、いろいろのことについて、特に養子について、彼らが養子縁組法と呼んでいるところの法律を制定した。


アリストテレース政治学」山本光雄訳 第2巻12章8~10節より